日記220607(セルフカウンセリング)

 はっきり言って自分がうつ病に該当していることは確信を持っているが、長いこと専門医師を受診していないままでいる。
 これは、対外的に「間違いなくそうである」と断言できてしまう状態を意図的に避けているためだ。
 その理由を以下に書き出してみる。客観的に見たら果たして正しいのか? 書いているうちに妥当性のアナを発見できるか?

 「治す気がない」「勇気がない」「ファッション鬱」「現状に甘えている」などの謗りを直接向けられることはあまりない(あったにはあった。比較的ソフトな言い方だったが、やはり傷ついた)。
 しかし、ネットに蔓延りがちな定型としての見方……「鬱病患者で在りたがっていて、それを医者に否定されたくないのだ。うつを、"病気だからしかたない"エクスキューズにすれば、努力不足の自己責任を負わずに済むし、周囲に心配されて構ってもらえる。うつではないと明言されたくないから受診しないのだ」的な言い分は、道理としては理解できる(そりゃ、自分で考えてる仮想敵なんだから)。
 が、私自身はこれに該当しないとひとまず考えている。どういうことか。

 冒頭にも述べた通り、私は「うつ病ではない」と言われたくないのではなく、「うつ病である」と言われたくない。断言されることのデメリットを危惧しているのは同じだが、対象が違っている。
 第一目標として、私は楽しい人生を謳歌し続けたいので、死によるドロップアウトを回避し、生を改善していきたい。そのために今の精神状態の改善に努める必要がある。自分の場合、病名が客観的に確定してしまうとむしろ改善し難いのではないかと考えているのだ。

 一般的には、専門家のアドバイスに従い、時間をかけてゆっくりと休養し、心のバネが弾性を取り戻すのを待つ……ようなイメージを持っている(これがイメージ止まりなのが、専門診察を受けていない弱みである)。
 自分の場合、休養が改善につながるイメージよりも、自分の状態が固定されるイメージを強く持っている。ここのところまとまった期間、仕事のピッチを落とさせて頂いているのだが、確かに急き立てられる苦しさからは解放されているものの、元の能力で自身を動かせるような回復やそのイメージを持つことができない。

 「オレはできる……!」と自分を鼓舞し続けることで実際に"できる"メンタリティが育っていくようなことの逆で、「常人に比べて能力が欠落した自分」を追認することが「無能な自分」をより強化し、抜け出せなくなるようなイメージがあるのだ。(人間の思い込みのチカラは無限大だ!
 自分は姿勢信者なところがあり、意識や態度によって自身の無意識面へアプローチできると考えている。同じ難度の課題への態度が「やれるっしょ」か「どうかなあ」かで成功率が有意に変わる。

(ただし勿論、「やれるっしょ」は上辺のノリではいけなくて、自分が真に信じられることが条件である。自身の納得を引き出すための論理構築や情報収集を積極的に行うことでこれを達成する。)

 なので、まあうつ病だろうと思いつつも、それを客観的に確定させず、休養を行わないのが自分の姿勢にあった対応なのではないかと考え実行しているのだ。
 これを「いいからやれ」メソッドと言い、近視的成果主義最適化パーソンの間では当然のこととされているはずだ。そもそも休んでる場合じゃない、とね。
 とはいえ上記してきたように、「プライドの問題で、自分を社会的弱者だと認めたくない」ような類型とは違うポジションを取っている。まず弱者とか思ってないし。

 また、「周囲に心配されて構ってもらえる」と先に書いたが、私であれば「まあ特にどうとも思われない」「多少心配にはなれど積極的に関わりもされない」「無言で距離を取られる」「嘲笑の対象になる」のいずれかを取られると思う。
 これは私の人間関係やパーソナリティに由来し、私が愛し心配する行為は基本的に一方通行であり、とくに逆向きの矢印はない、誰からも見られていないと感じているためだ。他人に都合の良い期待を持つべきではない……という一般論以上の肌感覚としてそう感じている。
 例外的に声をかけてくれる非常に優しくまた特異な友人にも何と返せば良いのだろう? そんな素晴らしき人に乗っかって我欲を満たすことは到底できないよね。本当に困って、何も言えなかったり、ライトにごまかしたり、少なくとも自分の論理と現状認識を開陳することはまずできない。

 もっと言えば、幸せであり続けてほしいと私が真に願う友人諸君(いるんです)がもし自分のこのような状況にあったとして――私には見えないように存在しているかもしれない――私はうまく触れることができるだろうか……?
 真に願うからこそ、私の関わり方が不適切であったときに与えるダメージを懸念してしまう。やはり、適切な専門の知見が最善だと考える。私に対しては最善でないと思っているものも、私以外に対しては最善である可能性が高いと考える。なぜなら、私が真に深く考察できているのは私自身の実情についてのみだからだ。

 ここまで書いてきて、私の中には間違いなく専門医療への偏見があることがわかった。実際受診してもなければ真剣に療法を調べてもいないのに、こんなもんでしょうという想像を元に行動している。医学的根拠のない民間療法と根性論を信じている状態と同じで、とてもよくない。
 ただやはり受診は何らかのpoint of no returnを踏み越える行為に思えて仕方なく、そこにベットするほどの勝算を感じられていないのだ。
 さりとて、目の前に漂い続けるこの非常な苦しみをどう捌くというのか?

 「不特定多数に心情を曝け出すことで和らぐ」ことははっきり言ってある、このnoteのように。ただ文字起こしすることで自分の内情を探るだけであればローカルに書けば良いのだが、公開情報として書くことで得られるメリットが何かある(つまり「このnoteが誰かの役に立てばいいな」のような動機で公開してない)。自分でもよくわかっていない。「公開する上で少しでも文体や論理の説明をマシにしよう」という考えが思考を整理するのだろうか? 私はローカルでも日記を書く(ことがある)が、フィーリングが何か異なる。
 そして不特定多数というのが良い。読み手はいつでも切り上げられる。特定友人との会話であると、相手に聞き届ける責をいくばくか押し付けることになる。それは信頼関係であり、また私が友人の愚痴を聞くことはおおいにウェルカムなのだが、相手にもそれを求める"他人への期待"を前提とした行動はできない。

 かつてSNSではよくそういった曝け出しを行っていて、他人のそれを見ても嫌悪感はまったくなかった。苦しさを苦しさと言う、誰かを貶めるでもなく……第三者からなんのケチのつけようがあるというのか。
 しかし世の中にはそれらを"メンヘラ"みたいな括りで指差し笑って楽しむ人はまあまあいる。知人友人内にもいる。指差し笑うことでコミュニティから弱音を排除し己の住みよい場所にしようとしてるのか、単に楽しくて言ってるだけなのか知らないが、まあ私も指差し笑われるくらいなら黙るかとは思うわけだ。
 なのでnoteみたいなマジ誰も読まんだろみたいな場所に逃げ込むし、それで足りない苦しみがドライブする時もある。

 それで、別のことをして、手を動かして、気を紛らわせるという手段を取る。曲を作る、YouTubeを見る、CIAのThe World Factbookを読む、仕事をする……それらに沈溺している間は時間をスキップしたかのように苦しみを忘れられることがある。
 そしてふと思うのだ。私はこれをあと累計何百時間行って、寿命が来るのだろうか? 老いたのちどう人生を概括するのだろうか? こんなことしていて何になるというんだ? 最初に述べたように、自分は楽しい人生を謳歌したいんすけど、そんなもん存在するんすかね? はあ、気の持ちようだ、いいからやれと、じゃあやれない限りは終わりっすよね、実際やれないんすけど。

 けっきょくいずれも対処療法に過ぎず、問題の根本を解決していない。万の嘆きと億の呪詛に動かない身体を添えて、こういう長文をしたため、夜は2時間ごとに目を覚ましては、せめてツイッターに呪詛を連投し朝に消す欲を抑えて嘲笑を回避し、そんな苦しみを……苦しみを…………曲にしました!!!!!!!!!


え?


曲にしました!!!!!!!!!


 内容はマジで呪詛っていうか、別にさ…… BPM110台の4つ打ちだけどフロア映えする身体性はないし、先進的なサウンドメイクもトリックもアイデアも無ければ、特に語りがいのある文脈にそぐうもんでも無い。苦しさから一時的に逃げて、Twitterの誘惑からもなんとか逃げた結果、排泄物のように残ったというだけで、だからHercelot名義も避けたし、name your priceもできないようになってる。

 でも存在価値のある曲だとは思う、作り終えてから聴いても面白みがあるから 皆さんに於かれましては、どうかは知りませんが……

投げ銭いただけたら、執筆頻度が上がるかもしれません