日記220608(損得や理の外の供与)

なんか暗くない話思い出したので書く。

 中学の頃、部活終わりにみんなでコンビニとか寄って買い食いする流れがあった。それぞれ思い思いに食いたいものを買うわけだけど、チョコ菓子の中袋買ったある奴が、開けたばかりのそれを「いる?」とみんなにガンガン薦めてくるわけ。おぉありがとう と次々貰っていくと、最終的に本人の手元には半分も残らなかった。でもこっちはアイスバー食ってるから分けられないし……悪いなあ。
 と思ってると、そいつは次の日にはまた同じように菓子をシェアしてくる。(自分の小遣いで買った、自分の食いたい物を半分しか食えなくていいのか……?) しかし今度はこちらも分けられる菓子を買ってたりして、おかえしができる。
 自然と部活仲間の間では、シェアできるもんを買った時はガンガン分けて当然の流れができて、一方でたまたま肉まんを食いたい日だったらそれ一人で食っても誰も気にしないし、その日仲間はずれにされるなんてこともない……といったような習慣ができた。

 のような記憶を「一口ちょうだい」話を見かけると思い出す(最近見ませんね。衛生意識のせいか、単に話題として古びたか)。

 しかしその、最初にシェアを始めたアイツの気位の高さよ、と歳を取ってからしみじみ思う。わかんないけど、「最終的にみんな得をする流れ」を期待した打算ではなくて、分け与えて当然でしょうというピュアネスに端を発していたように思えてならない。

 またこれも推測だけど、あの友達の輪の中に「ほんとは一人で全部食べたいけど、プレッシャーで仕方なく分けてる」やつはいなかった……気がする。プレゼント交換会のような「全員が全員手持ちの菓子を出す"ルール"」ではなくて、自発のノリが連鎖するだけだったから、「分けられる菓子だけど分けない」やつがいたところでとくに気づいてなかったと思う。

 ……遠い記憶なので美化されている可能性が無くはない。たぶんこうだったと思うけど、書いててなんか美しすぎる気がするから、実態はもう少し違ったかもしれんね。
 そう、これはアイツがおれにもたらした美しい体験談だ。おかげで、「おれはほんとうにこの所有物を専有すべきなのか? 意地を張るほどのことなのか? どうせすぐ忘れる程度の目前の損なんてどうだっていいんじゃないか。それが誰かのためになるとか、後々大きな得として返ってくるとか、そんなことすら考えなくていいだろ」的な視点を持つことができた。

 そして、こういう体験は貴重であり、多くの他人はきっとそうではない……この価値観を押し付けることはぜったいにできないよなあ、とも思う。おれのこの価値観は、アイツの生み出し貴重な体験が由来であり、つまりおれにとっては運なので、運を笠に着ているのをごまかして説教を垂れるのは愚かだ。
 だから、おれ個人が誰かに「一口/ひとつちょうだい」と言われることにネガティブな感情は原則まじで沸かん、とだけ言える。もはや、「タバコ1本ちょうだい」と言われるために普段吸わないタバコを持ち歩いてもいいくらいだ。行き着く先は飴配りオバちゃんである。いいね。


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