日記230526 (あたらしくない音楽)

自分の作っている音を聴いていると「まだ"そこ"なの」と思う。

あたらしい音楽は世に溢れる。個人的な快感のポイントはもっと古い形式の中にあったりする。創作は役割分担だと思う、つまり、おのおのが得意なことや好きなことを多様に広げ重ねていくのがもっともよい。みなが一箇所に集中する必要はない。必要はないが、集中してもよくて、集中すればシーンが加速してヘンなところまで突き抜けた変容が起きたりしておもしろい。まあつまり、自然に努めて、自然に悩み苦しめばよいのだと思っている。

あたらしい音楽は世に溢れる。そして面白く、素晴らしく、舌をまく。かつてなかった技術や、かつてもあった技術がより簡便にできるようになったこと。そのぶん生まれる創作と活用の余地。個人がなにかを作る上では、技術的制約が生む習熟や突然変異の旨味は大きいけども、たくさんの人が創作に向かい、そのうちの誰か一人でもがおれのハートを射抜くヒットをつくってくれる可能性に思いを馳せるうえでは、制約よりも自由度が価値を持つと考える。

あたらしい音楽は世に溢れる。かつて技術的制約と制作者の少なさによって、「おれ好みの方向性で、おれ好みの作り込みの、まさに理想・最強の作品」は妄想にすぎなかったが、いまはその気になればそのへんのアマチュアアカウントが作っていたり、むしろおれのちんけな妄想は超越される。「ただただすげえ」としか言いようのないものがそこかしこにあり、認知負荷的に正面から向き合うのがしんどくすらある。

あたらしい音楽は世に溢れる。そこで古い音楽ばかりが好きというと、感性の老けた懐古趣味だと揶揄することができる。個人がなにかを好きだ嫌いだと本心で言うことに世間体や遠慮を加味する必要はない (利益のために口を開くのでなければ) ので、好きなら好きで良いのだ。が、「今のコが聴いてるのの良さなんてわかんないんだよねぇ。古い名作のあれやこれのほうがいい音楽だよ」的スタンスの人もいるが、「今の音楽がすげえ、すげえことは感じる、それをめっちゃ褒め称えたい一方で、おれの小さい感性では受け止めきれない。ちゃんと向かい合えてないのだから、心の中に据える場所がなく、宙づりにされつづける。古い作品にはすでに向き合えている」場合があるな、と思ったのだ。

あたらしい音楽は世に溢れる。生まれてから徐々に音楽なるものを知っていったのだから、あらゆる音楽はおれにとってあたらしかった瞬間があるはずなのだ。今は古い音楽になっていても。それがいまや、感性や認知負荷なんて言葉をひきあいに出してフォールドしてしまうのは、単に刺激に対する疲弊、ひいてはまさに老化なのではないか? 否定できないね。肉体的老化を自然に受け入れようという価値観は持ってるけど、感性の老化はやはり受け入れがたいダサさをまとい続けている。

自分の作っている音を聴いていると「まだ"そこ"なの」と思う。自分の好きなものの中心を実現しようって気持ちにぶれはない。だがやはり、みんなが横目に通り過ぎたあとのものの匂いも感じる。自分だけお土産屋さんに残って、どっちのご当地マスコットを買おうか悩み続けているような気分だ。みんなはバスに乗り込んでいるし、お土産には見切りをつけていたり、悩むくらいなら全部買っといて次、って感じだ。おこづかいがたくさんあったらおれもそうしたのだけど。


追記)自分に飽きるくらい遣り切れ、ということに尽きるんだと思った

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