「デミアン」(ヘッセ) を読む

読んだのは恐らく四回目。
一回目は高校生の時、二回目は大学生の頃だったと思う。三回目は記録が残っていて二年前だった。今の仕事に転職してから半年後くらいか。

「デミアン」の物語の前半部は、シンクレールがデミアンと出会い、暖かな家族に囲まれた明るい世界から善と悪の混在するもう一つの世界へと導かれる話だ。
子供から大人になる過程の、イニシエーションの経験を描いているように思える。
デミアンはシンクレールに、君は自分と同じ「カインのしるしを持つ者」であり、他の多くの人とは異なる特別な存在であるという。
学生の頃は、デミアンのカインのしるしの話に共感しつつ、前半部は興奮して読んだのを覚えている。

今回は(忘れてしまったが恐らく前回も)そのような共感や興奮は薄くなり、彼らに距離を感じて読んだ。
そしてこの物語が自己探究の物語だということを改めて知り、その厳しさと深刻さに、以前のようにすんなりとは飲み込めない感覚があった。青年時代のヒリヒリするような不安と緊張を失っていることに気付いた。

それでも、オルガン奏者ピストーリウスとの別れの際、シンクレールが「悟り」に至る場面は思わずメモをした。

 ここで突然鋭い炎のように一つの悟りが私を焼いた。ーー各人にはそれぞれ一つの役目が存在するが、だれにとっても、自分で選んだり書き改めたり任意に管理してよいような役目は存在しない、ということを悟ったのだった。(略)私は、詩作するために、説教するために、絵をかくために、存在しているのではなかった。私もほかの人もそのために存在してはいなかった。それらのことはすべて付随的に生ずるにすぎなかった。各人にとってのほんとの天職は、自分自身に達するというただ一時あるのみだった。(168頁)

読みながら、他にもいくつも付箋を貼ったのだが、気に入っているところをもう一つ。ピストーリウスの言葉。

「われわれの見る事物は」と、ピストーリウスは小声で言った。「われわれの内部にあるものと同一物だ。われわれが内部に持っているもの以外に現実はない。大多数の人々は、外部の物象を現実的と考え、内部の自己独特の世界をぜんぜん発信させないから、きわめて非現実的に生きている。それでも幸福ではありうる。しかし一度そうでない世界を知ったら、大多数の人々の道を進む気にはもうなれない。シンクレール、大多数の人々の道はらくで、ぼくたちの道は苦しい。ーーしかしぼくたちは進もう」(149頁)

しかし何度読んでもやはり、物語の後半、エヴァ夫人と出会うところからは難しい。

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