常識と哲学

木村敏「異常の構造」を読んでいる。精神分裂病者から見える世界について考察しながら、異常とは何かを明らかにしてゆく本だ。

前半部で常識とは何かということについて詳しく検討されている。「常識とは知識ではなく感覚の一種であり、それもいわば実践的な勘のようなもの」だという。アリストテレスのいう「共通感覚」とも深いつながりがあると。最近読んだ中村雄二郎「共通感覚論」にも常識と共通感覚について書かれていたが、「異常の構造」の説明の方がわかりやすかった。
常識というのは認識的な知識というよりも実践的な感覚である、という話には納得した。

 常識とは、すぐれて実践的な感覚である。純粋に認識的な知識に関しては、「常識」という言葉は用いられない。信号が赤であるか青であるかの認識についての「常識」などというものはない。「常識」が問題になるのはむしろ、赤や青の信号を見て立ち止まるか歩き出すかの実践的行動なのである。(43頁)

ふと、常識と哲学の関係が気になった。常識と哲学というのは相反するものではないだろうか。常識が充分身に付いていて、それが判断の根拠となる人にとって哲学は不要に思える。常識で考えればわかる、といわれてしまえば哲学の出番はない。

哲学は常識を問い、それを破壊しさえするが、常識に対抗することはなかなか厳しく困難なことで、危険でもある。精神分裂病者に起きているのは「常識の欠落」だと本には書かれているが、常識に対抗する哲学は狂気と隣り合わせだ。

カントがいう「嘘をついてはいけない」は、状況によっては嘘をついても許される、ではなく、どんな状況においても、であるらしい。友人を匿っている人間が「彼はここにはいない」と噓をつくことで友人の命が助かるとしても、カントによればやはりその人は嘘をついてはいけないのだと。それはあまりに杓子定規で「非常識」に思えるかもしれない。カントの哲学が、人間味、現実味がないという意味で「天使主義」だと批判されているのを昔どこかで見たことがある。
しかし常識の視点から安易に哲学を批判しても意味がない、と思う。常識は移り変わるが、哲学は普遍的な真理を目指す。
しかし哲学もまた、常識を軽く見てはならない。感覚的判断が理性的判断よりも優れている部分は確実にあるだろう。
世界を常識の側から見るか、哲学の側から見るか。

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