夢のフィクションとしての語りか騙り

ここ何日か頭の中で断続的に気になっていることを書き出してみたい。

頭の中だけで考えることができればいいものの、書きながらでないと考えを前にすすめることがうまくできず、自分のワーキングメモリの圧倒的貧弱さを実感しながらメモをとるようなノリでnoteをひらいている。

さて本題、今回は夢の記述について。

これまでにSNSで見かける人の書いた夢の記述に違和感をもつことが何度かあった。
それは、この夢の記述は体験した夢をある程度整然に編集したもののように見える、ということ。

その夢をお話として記述することを優先するために、何かそこからこぼれ落ちた、または捻じ曲げられた印象の気配のようなものだろうか。

それを思い出すキッカケになったのが、今読んでいる九鬼周造『偶然性の問題』で引用されている内田百閒の夢についての記述で、例としてわかりやすいかどうかは別としてとりあえず股引きさせてもらう。

「八月八日秋に入る。夜明けに一度目がさめた時、障子と窓とを明け放しておいて、また眠った。伝通院の坂の下を、向うから黄色い大きな馬が歩いて来た。胴体が馬鹿に長くて、四本の足のうち、後の左側のが一本短かった。だれも人がついていないから危ないと思った。一しょに来た奇異公にあぶないから逃げようかといったら、馬がこちらを向いた。その拍子に、馬の向う側に黒い着物を着た男が二人いるのが見えた。その馬がどこかへ行ってしまったら、目がさめた。近所で烏のないている声が聞こえた。変に低い声で、長く啼き続けていた」

百閒はここで、整合性に向う力に抗うような記述をしているようにみえる。
それはセンテンスとセンテンスの間の句読点(その拍子に、も同じ役割に見える)に、実際の夢では感じることのなかった印象を、現実の場面として成立させることができるように配置するようなやり方である。

夢で起こる無碍の印象ー言語のつながりに、句読点の配置で回答する。
(同時に、文章がほころんでいるように見えるとしたらそれは君にそれを成立させる能力がないせいだ、ともとれる。)

例としてとりあげたものが特殊でちょっと変な感じになってしまったが、普段見かけるような夢の記述では、この句読点の部分に現実の場面としても整合性がとれるような言葉をあてはめようとして、それが自分が読んだときの違和感につながっているかもしれない。
でもそれも、そう語らない(騙らない)限りは記述しようがないからだろう。

いずれにせよ、この句読点も整合性に向うような記述もどちらもフィクションの成立や形式に関わっているものに思えて、ここ数日自分はそれを面白く感じていた。

この前書いた以下の記事での友人が云々話法の場合の語りの形式。
今回書いてみた句読点。
似たような関心が自分の中にあるのが見て取れる気がする。

一方では現実との整合性についての違和感、もう一方では言語の働きに対して現実側におもねることへの違和感。。ってことになるんだろうか?
なんか矛盾しているようにもみえる。
というここからの話を本当は書きたかったけど、今日はギブアップ。


あと、霜降り明星せいやの憑依ものまねや、この前かまいたちがYoutubeでやっていたヤジ企画も上とは同じではないけど、何かフィクションの形式に関わる面白い要素があるような気がしていている。

記事を読んでいただいた方で、こういう話題について、何か参考になりそうな本があればコメントで教えていただけると本当にありがたいです。

ではでは

今回もフォトギャラリーのイラストを使わせてもらった。
nikoさんの作品とのこと。ありがとうございます。


少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。