過去を振り返りながら吃音を考える

最近めちゃくちゃだれてしまう。
これでは俺は本当にダメな人間になってしまう。
それだけは防がなければならない。
自分でもびっくりするくらいしんどいので、カウンセラーに話を聞いてもらうかのように自分のことをこのnoteに曝け出す。一旦自分の軌跡を整理する。


そもそもなぜだれるのかというと、
吃音が治らない絶望感と、自分の目指す場所がわからなくなっているからである。

大学生時代、俺は相当しんどかったが、当時は就職をすることと彼女を作るという、明確にも程がある目標があった。
また、当時は自分の吃音に対して何のチャレンジもしていなかったので、吃音を治しさえすれば人生に光が見えるのではないかと信じ込んでいた。実際にそれは間違いではなかった。
俺は悩みに悩んだ挙句、飲食店でバイトをするという人生最大の挑戦をし、その過程で吃音を克服し、その後就活も成功した。更にそのバイト先で人生初の彼女ができるというビッグサプライズも待っていた。その勢いのまま俺は社会人となり1年目の冬にはお客様への報告や説明を堂々とこなすことができていた。自分でも驚くほどの成長だった。仕事を通して感じられた自分自身の成長は本当に嬉しかった。吃音で苦しかった自分にとって飲食店でのバイトは、例えるなら金槌が海で泳いだり、高所恐怖症がバンジージャンプを飛んだりするような、想像を絶する恐怖体験に等しいものだった。その体験を乗り越えた自分はもはや無敵だと思っていた。

しかしその無敵状態もそう長くは続かなかった。働き始めて2年ほど経ち、仕事量が多くなり関わる人間が増えていくことによって、根本的に持っている対人への苦手意識と吃音、自意識過剰が社会の厳しさの中で思っているよりも簡単に顔を出し、自分自身を追い詰めた。毎晩毎晩明日は上手く喋れるか、人と上手く関われるかという恐怖が自分の脳を支配し、寝付けない夜が続いた。その結果俺は休職を余儀なくされ、吃音は完全に再発した。ずっと探し続けてようやく出会えたと思った「吃音がなくなった自分」とは残念ながら今から2年前に別れを告げた。そこから俺はまたずっと闇の中にいる。

今、俺はどこへ向かえばいいかさっぱり分からない。
吃音さえ治せば周りのみんなみたいに社会に溶け込めると思っていた。
しかし、そんな簡単なものではなかった。
吃音なんか関係なく社会で働くということ自体、俺にとっては相当心身を擦り減らす行為なのだ。
吃音は治さなくても良い(というか完全には治らない)とは思っているが、吃音を持ち続けるのは単純に不便だ。隣の人に「ちょっと今いいですか」が言えないし、「おはようございます」も言えない。しんどい。この手の悩みは中高大学時代に散々味わった挙句、飲食バイトの経験を経てようやくおさらばしたと思っていたのに、また自分の手元に返ってきてしまった。この悩みを窓から外に投げ捨てたくても、自分にとってはあまりに大きくて重くて、中々手から離れない。

とりあえず今はそういう時期だと割り切り、吃りながらも日々の仕事に真面目に愚直に取り組めば良いだろう。「吃りながら」というのがポイントだ。そういえば飲食バイトの時も「吃りながら」だった。「吃らない自分」は「吃りながら喋る自分」の先に待っているのだ。それはわかっているが「吃りながら喋る」ということに相当な覚悟と勇気が必要なのだ。そういう自分を呼び起こすためにこういうことを書くのも大切な気がしてきた。

適当に書き始めた自分語りは今書き終えてスッキリしている。
それにしても吃音改善にこだわりすぎて自分でも呆れてしまうが、これが自分だから仕方ない。あースッキリした。明日からも頑張ろう。

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