3年…

パソコンのデータ整理をしていたら、3年前に義母が亡くなる直前に自分への備忘録として書いておいた文が見つかり、読んだら涙が止まらなくなってしまった。
なるべくその時に感じたこと、色、におい、音、温度、記憶をキープしておきたいとは思っていたのだけど、読んだらそれはそれは鮮明に思い浮かんできて…。3年前の自分に泣かされるとは。
この3年の間に筆舌に尽くしがたい数々の出来事が起こった。こんなことになるとは思っていなかった。記録と言うのは大事だな本当に…




握った手が温かい。

ちょっと熱があるのかな、というくらい温かかった。この手が本当にしばらくしたら冷たくなるのだろうか。温かさを自分の手に残したくてずっと手を握らせてもらった。手がびっくりするほどすべすべとなめらかだった。爪はトップコートをを塗ったみたいに、磨いたみたいにピカピカと輝いていて、長く美しい卵型をしていた。
腕はやっぱり細くなっていた。サランラップの芯くらい…いや、もっとだろうか。文字通り骨と皮だけ。弱った血管も透けて見えてあちこちに針の痕らしきあざもできている。
仰向けに寝ていて、顔や腕にはチューブがいっぱいついていた。
目はほとんど閉じていて、たまにゆっくり開く。焦点は合わない。口は常に空いたままだった。
ベッドの上のお義母さんは、もういつものお義母さんではない。

先週の日曜日に電話した時にはすでに、ものすごく小さな声でゆっくり息も絶え絶え、一言話すのも苦しそうだった。
少し遅くなった母の日のために贈った花をとても喜んでくれて
「綺麗な…お花を… ハァ… ありがとう…、ありがとう……、ね… 今まで…本当にあ …ありがとね…」と。

その時点で、最後の挨拶のような話しぶりだった。いつもの甲高いハキハキとした義母の喋りではない。ゆっくりで、呂律も回らず覇気も明瞭さもなく、聞き取れないほどのかろうじて聞こえる音量。
その時の電話の様子でなんとなく今の義母の姿は想像できたから、病室に入って行ったときは、その想像よりも少しは生気を感じられたくらいだった。…そうでもないか。

病室独特の甘い匂いが漂っていた。アルコール消毒と、少しの酸味と…。
何かの本で、死ぬ間際の病室は独特の甘い匂いが漂っていると書いてあった。ああ、この匂いかもしれないな… そうかこれか、これなのか…

母が長くないことを知ったのは、ちょうど去年の今くらいだった。あと一年くらいだろう、と聞いていて本当に一年。

できる手術は全部した。取れる臓器は全部取った。それでも全身に転移した。あとは、なるべく痛みが少なく苦しくなく行こう。長くなくていい、自然に任せる、と。
義妹が医療関係なので頼もしかった。義母は自分の死期を知り、キッパリと終活を始めた。やり残すことのないように、やりたいことは全部やる。やりますよー、と。

義母は女学生のころからずっと絵を学びたくて、絵をやりたい気持ちを募らせてやっと、私が主人と結婚する少し前くらいから絵画教室に通い本格的に大好きな絵を習い始めた。そのころからの作品がたくさんある。
個展を開くと決めた。3人兄妹の子供たちが速やかに動いて2か月後くらいには根津で個展を開催できる運びとなった。こういうとき、元代理店勤務だった主人が強い。サクサクと会場を押さえ、テキパキとディレクションし、サササとフライヤーを作った。
その時にはまだお義母さんも元気だったから、主人と私、主人の姉妹たちとその伴侶たちしか義母の残りの命の短さを知らなかった。手伝いに来た私の母も私の弟も「あれー?お義母さん、少し痩せたねぇ。」くらいだった。

それからというもの、自分の墓をどうするか、葬儀をどうするか、遺影をどうするか、義母は自分の最後のことをあれよあれよという間に決めて行った。悲壮感はなく、むしろ義母をはじめ子供たち全員が前向きだった。樹木葬がいいなー♡ みんながお花見に集まれるとか、いいじゃない?そういうの。お父さん(義父)の墓と一緒は絶対イヤ。一人にして。など…

数人しかしらない、そんな静かな一年が存在する。


娘(小3)はラジオをよく聞く。我が家では毎日寝かしつけの時にラジオをつける。早寝早起きを習慣づけたかったからできるだけ寝室は早めに暗くしたい。ラジオをつければ照明は暗くできるし入眠まで寂しくない。おまけに毎日違う話題だから新鮮で飽きない。いいことしかない。

何気なく、いつも聞いている「ジェーン・スー 生活は踊る」という番組に娘名義でメールを送った。そうしたらそのメールが目に留まり、お正月特別編成の番組のミニコーナーに出させてもらえることになった。
出演できるコーナーには2種類あるとのことだった。今どこで何をしているかを中継してパーソナリティーさんとやりとりするもの、もう一つは大切な誰かに音楽をプレゼントする「ミュージックプレゼント」というコーナーだ。普段は毒蝮三太夫氏が中継を結んでいるが、その時はお正月だったので番組パーソナリティーのジェーン・スーさんによるミュージックプレゼントだった。

娘の希望は前者だった。甲府にいまーす!とリポートしていろいろな甲府の魅力を伝えたいんだと言い張った。素晴らしく正しい。だが私は「おばあちゃんに音楽をプレゼントしようよ」と言った。義母の死期を知っていたからというのもあるが、これにはほかの理由もある。

「ジェーン・スー 生活は踊る」には、そのお正月のコーナーに出る4か月ほど前の、夏休み最終日にも娘が出演した。お悩み相談コーナーにて「ラジオが好きすぎるけど、周りのお友達にはなかなか理解されない」という相談をした。その中のやり取りでスーさんに「どんなラジオ番組やコーナーが好き?」と聞かれ、娘は熟考し「…どくまむしさんだゆうさんのミュージックプレゼントが好きです!」と答えた。これには私もびっくりしたが、話を盛ったり空気を読んだわけではなく本心だったらしい。確かに寝かしつけの時にちょうどそのコーナーになることが多く、聞きながら寝かしつけもままならなくなるほど爆笑していたこともあった。蝮さんとお客さんとの粗暴な言葉の応酬が刺激的で最高に面白いらしい。確かに。

この時のやり取りを主人が義母にradikoのタイムフリーで聞かせたところ、義母はとんでもなく驚いたらしい。
なぜなら主人がまだ小さかったころ、営んでいた金物店内で義母はよくラジオをつけていて、その中でも毒蝮三太夫さんのミュージックプレゼントが大好きで毎日聞いていた、というのだ。そんな話、知らなかった…。

義母は、こんな小さい孫がまずそもそもラジオを大好きで、さらに東京のラジオを聞けていること、しかもその中でも自分が昔良く聞いていた「毒蝮三太夫さんのミュージックプレゼント」を今まさに聞いていて好きだということ、電波はどうなっているのか、なぜ小学校に行っている時間帯のラジオを聞けているのかミュージックプレゼントがいまだに続いていること…すべてがすべて不思議で、でも得も言われぬ嬉しさでいっぱいになった、と言っていたらしい。

そのことを知っていたから、私はミュージックプレゼントの方にしようと粘った。義母に聴いて欲しかった。娘は、いつも大体自分の自由にさせてくれる母が、珍しく「お願いだからどうしてもこちらにしてほしい」と押し通したことを不思議がっていたが、今ならその理由を少しはわかってくれるだろうか…。

お義母さんにバレないように好きだった曲を調べるため主人に探ってもらった。
演歌は嫌い。ああ、だろうな…。洋楽が好き。意外!プレスリーが良い。

えっ!!!お義母さん、プレスリー聞くの?聞いてたの??
嫁いで10年、まだまだ知らないことばかりだ…。その中でもお義母さんが一番好きな曲は何?え…「監獄ロック」(笑)?。
うん、わかった。担当者さんに連絡するね。

そして当日。「わかばちゃん、誰にどんな曲をプレゼントしたいのかな?」とスーさん。
「大好きな取手の節子おばあちゃんに贈ります!プレスリーの『ジェイルハウスロック(監獄ロック)』!」。
ラジオからいつも通り元気な娘の声。取手の義母や義妹たちは、リビングの上にラジカセを置いて、慎重にチューニングを合わせて流れてくる孫の声、そしてプレスリーを聴いたという。

ラジオを囲むゆっくりとした時間。

良かった…。ああ本当に良かった。ラジオが時空を超えて義母と娘(孫)をつないでくれた。ラジオはいつでも、これからもずっと私たちとともにある。ありがとうラジオ。


話を元に戻す。娘は義母の容態について本当に何も知らなかった。去年の夏、そうそう「生活は踊る」のお悩み相談コーナーに出演する直前に取手に行ったときだって、いつも通りのおばあちゃんだったもの。だから病室で会ってやっぱりビックリしたのだろう。状況を理解するまで数分間、絶句していた。それから堰を切ったように泣き出した。最近大人になったなあ、と感じていた娘が幼稚園の子のようにわんわんと泣きじゃくった。
「やっと会えた。嬉しいよ…」
と言っていたが果たして本当なのだろうか。

いや、おばあちゃんがこういう姿になって、多分衝撃の方が大きかったにちがいない…。取手に行きたいとずっと言っていたから、会いたかったのは確かだろうが。もっと早く、そして何回もつれていけばよかった…。9歳の娘に死を間際にした大好きなおばあちゃんと会うなんて、そこそこ酷な仕事を背負わせてしまったかもしれない。私には自責の念があった。

娘が泣き止まない。おばあちゃんのお目目の近くに行って笑った顔を見せてあげて、と言ってもダメだ。最後に見る顔が泣き顔なんて困る。笑顔を…
その時、お義母さんはかすかな声で「…き?  …き?」と何回も言った。

聞き取れない。 なんて言っていますか? 年上の義妹に聞くと
「なんだろう、『平気?』かな。 心配しいてるっぽい。お腹すいて泣いていると思ってるのかな(笑)」

ああ…、なんてお義母さんらしい! 心配しているんだ…、子どもが泣いているとお腹がすいていると思うのか…。赤ちゃんとか小さい子はそうだよな、そうですよね、心配ですよね。

それで少し場が和んだ。みんな氷解して、自然な笑顔に包まれた。

娘が
「おばあちゃんに教えてもらった通り…こう…手を大きく振って走ったら、リレーで一位になれたんだよ」
と、前日の運動会の様子を報告し出す。先週の電話の時に、何も知らない娘は、いつも通りおばあちゃんにアドバイスをもらおうと相談したのだった。

「大…きく…手を… (ハァ ハァ …) 振っ… て  は…しる…の… 」
その時に初めて娘は「あれっ…おばあちゃん、ちょっと具合が悪そうじゃない…?」とことの重大さを知った。

お義母さんが大きく目を見開く。
「お義母さん、ぶっちぎりの一位でバトンをもらって、ぶっちぎりの一位でバトンを渡せました」と私が補足をしたら
「…れし…。う… しい…」と言った。

綱引きでは、娘は背が高いから一番後ろに回されて、先生から「一番後ろの子たちが頑張らないと勝てないよ!」なんてプレッシャーをかけられて責任重大だったけど、コンビの子と頑張って総当たり3回のうち2回勝てたこと。友達と3人組になって大きいパンツに入って縄跳びをしながら走る変わった競争でも、アンカーでまたもや重責だったけど本番はみんなで協力できてうまくは走れたこと。表現活動(ダンス)では、練習で何回も間違えていた振付が本番では一発でうまく決まって、ずっと練習に付き合って応援してくれていた新卒の先生からたくさん褒められて嬉しかったこと。

前日の運動会の様子を全部報告できた。お義母さんは話を聞きながら時折目を見開いては「…ぁぁ」とか「ぅぅ…」と相槌を打ってくれていた。
とにかく背が高くて体格がいいから運動会ではいろいろ重責を担わされているんですよ、と言ったら 「…  大 く…  なっ…ぁぁ ね…」と。

そうだそうだ、お義母さん。ラジオ聞いてくださってありがとうございました。娘はあの時に放送で初めてプレスリーを聞いたんですよ。「えー!おばあちゃんこんな曲好きだったのー?ノリノリじゃん!カッコイイ!!って(笑)。やっぱおばあちゃんカッコイイーって、尊敬のまなざしでしたよ」

口をパクパクと…何かを伝えようとしていた。固唾を飲む

あ… と… あーと… あーと…あーと… ありがと…  ありがと… ありがと…ありがと…

何回か繰り返した。そして、今なら勢い的に言えると踏んだのだろう。

ありがと…ありがと…ありがと…ありがと…ありがと…ありがと…ありがと…ありがと…ありがと…ありがと…

お義母さんの「ありがと」が壊れた人形みたいに繰り返された。

お義母さん、こちらこそですよ…。嫁のくせに家のことを何もしないで自由にさせてもらって。何もできなくて…本当にすみません。

「着物、もらってくれるってよ」主人が話した。

「いただいちゃいますよー(笑)? いいんですか?」と言うと、うなずきながら「わー!もらってちょうだい!」と。言ってはいないけどそんな感じ。お義母さんがいつもみたいに甲高い声で笑いながら、いーのいーの、もらって!アハハ!そう言っている。のが聞こえた。気がした。

「嫁はいただいてばっかりですよー、お義母さん。」  わずかに首を振る。
いや、そんなことない、本当にもらいっぱなしだ。
「そうだ、いただいた白いドレス、この間娘が着てみたんですよ。少し大きいけどとってもよく似あっています。」
お義母さんが若い時に着ていたという、フランスで買った総レースのアンティークお気に入りのドレス。死期を知って、一番最初の形見分けがこれだった。孫娘に、どうしても。
まだもうしばらくは大丈夫かな、と高を括っていたが、3日前に義妹から「入院しました。多分…うん、もう…」という連絡が来て慌てて着せて写真を撮って送った。連日の運動会の練習で真っ黒に日焼けした娘が、南国の少女のように白いドレスを纏った。
お義母さんがうなずく。「見たよー、かわいいかわいい、よく似合う」と言っている。気がした。これから長く着させていただきますね。

そうだ、お義母さん。娘が絵を描いてきました、矢車草の絵。と言って持ってきた封筒から取り出す。
矢車草と、薔薇とアリアンギガンチウム。絵の得意な義母にいつもみたいに添削してもらうために。
今日はちょっとお見舞いだよ、と言って連れ出したから、何も知らない娘は朝急いで描いた。今日はこの絵をおばあちゃんに直してもらうんだ、どんな風に良くなるかな、とウキウキだった。何も知らずに無邪気に描く娘を止めることなんてできなかったし止めるつもりもなかった。
「矢車草、母さん好きな花じゃん」と義妹。 そうなんですよね、いつかその話を聞いたことがあります。私も好き、娘も好きです。今土手が矢車草でいっぱいで。といって紙をお母さんの顔に近づける。おそらくもうはっきりは見えないだろう。

色をたくさん使いました。紫の中に青や水色を少し使って。ピンクの中に赤やエンジ色をまぜて。工夫してます。お母さんに教えてもらった通り。
そう、絵の描き方も教わった。色の混ぜかた、構図、今もじゅうぶん上手に描けてるけど、こうするともっと良くなるよ、ってお義母さんいつも優しく教えてくれますね。お母さんはうなずいていた。

それからお義母さん、今度の週末に娘が習っている華道の流派の華道展があります。娘も出させてもらえることになりました。また作品を写真に撮って送りますね。頑張りますから見てあげてください。

しまった、こちらからの情報が多すぎて疲れているのではないか… と、心配した。突然、


「   …   さよなら…   」


はっきり聞こえた。 主人も義妹も娘も聞き取れていない。
だけど私は一言目からハッキリわかった。私は耳だけは良いのだ。
だが、その言葉はありえないくらい早口で、そして空気を裂いた。

「さよなら… さよなら… さよなら… さよなら… さよなら… さよなら… さよなら… さよなら… さよなら… さよなら…」

連呼している。連呼と呼ぶには数が足りない。先ほどのように今なら言える、と踏んだのだろうか。いや、それとももうそんな計算などできず、本能だけで声を出している…。本能というよりも、プログラミングが誤作動した機械のような…

さよなら… さよなら… さよなら… さよなら… さよなら… さよなら… さよなら… さよなら… さよなら… さよなら…さよなら… さよなら… さよなら… さよなら… さよなら… さよなら… さよなら… さよなら… さよなら… さよなら…さよなら… さよなら… さよなら… さよなら… さよなら… さよなら… さよなら… さよなら… さよなら… さよなら…

(…いやいやいや、お義母さん。「さよなら」、まだ早いわ…。)

つらい。泣くのをこらえるのと、私にはしっかり聞こえてるけど 「なんて言ってるのかねぇ」 なんてのんびりしている主人と義妹に通訳しかねるもどかしさで唇をかみしめた。

今考えると、本当は主人も義妹も本当は聞き取れていたのでは… でも認めたくなかったのかもしれないな…。

やっと
「ああ、 『さようなら』って言ってる… ね」と義妹。 「うん…」と主人。

言葉がない。お義母さんだけが壊れた人形みたいに小さな小さな小さな声で何度も

さよなら… さよなら… さよなら… さよなら… さよなら… さよなら… さよなら… さよなら… さよなら… さよなら…

ブレスの続く限り繰り返す。静かな病室にお義母さんの声だけが響く。

「さよなら」と言っている。
 別れの挨拶をしている。この世との別れ、家族との別れの挨拶をちゃんと伝えている。なんと義母らしいのだろう。けじめをつけて、やりたいこと・伝えるべきことを思い残さないように全部言って、やって、去る…。 さよなら…。


義妹は「家の畑の様子を見てくるから、お兄ちゃん ここ交代して」と言って出て行った。

義妹はここ数か月間義母を在宅介護していた。寝れていない。
3日前に義母が救急車で運ばれてからようやく少ししっかり眠れたと言っていた。育児みたいだ。
「やれることは全部やった。やりきった感がすごいよ!すがすがしい!悔いはない!」とさっぱりした義妹。この入院先も義妹の勤め先である。感謝しかない。

義母はオシャレなパジャマを着ていた。淡いラベンダー色の。小花柄の。とてもよく似合っている。
義母はいつもオシャレだ。帽子もたくさん持っている。自分に似合う色がわかっているからちょっと小粋なオシャレな恰好をよくしていた。

ちょっと前まで、こんな姿を見られたくない、と義母は言っていたらしい。義母の矜持だ。
だから娘が「会えた記念に写真を撮りたい」と言った時はさすがに全力で止めた。

こんな姿を見られたくないという義母と、受け止められないかもしれない小学校3年生9歳の娘。
二人を会わせたことは、どちらにとっても本心ではなかったかもしれない。無理やり会わせたのはやっぱり私のエゴだったのではないか、本当に良かったのだろうか、いまだにそう思って後悔する…。

それでも会ってほしかった。最後だから。最後になるから。こんなにはっきりと「最後になる」ってわかっているから。義母の意識があるうちに見えるものを全部見てほしい、聞こえる音や声を聞いて欲しいと思った、だからお見舞いに娘を連れて来たし私もお義母さんに会いたかった。

だけど、  「さよなら」って どうしても返せなかった。

普通の帰省だったら「じゃ、お義母さんどうもー、また来ますねー、さよなら!」と言えたよ。

さよならは別れの言葉じゃなくて再び会うまでの遠い約束だし、「さようならばごきげんよう(それでは次回会うまでご機嫌よくお幸せにお過ごしください)」の略なのだから前向きなことばなのだ。学校でだって職場でだって、何かが終わって家に帰る前には言うじゃないか。さよならって。普通にいうよ、さよならって。じゃあねー!バイバイさよならーって。

でも…、今日私はどうしても「さよなら」と言えなかった。

お義母さん、さよなら。さよならお義母さん、と返したらきっと義母のことだから喜んだし納得したかもしれない。
音楽療法士の方の本で、人間は死の間際で味覚や視覚、あらゆる器官が機能しなくなっても聴覚だけは最後まで残っているという説がある、と知った。意識がなくなっても、その方の大好きだった音楽を聴かせるととても喜ぶ、体が反応する、と。
だから鈴の音のような孫の声を、慣れ親しんだ主人たちの声を聴いて欲しいと思った。

でもまだ義母との別れを認めたくなかった私は、さよならとどうしても言えなかった。言えば良かった。どうして言えなかったんだろう、でも言えなかった。さよなら、と言ったらもう二度と会えなくなる気がした。義母の聴きたかった 「さよなら」 とだけはどうしても言えなかった。義母が最後に聴きたかったのだ、無理をしてでも言えばよかった。でも言えなかった。


帰りの電車のことを考えるとそろそろ病室を出なくてはならない。
娘はここに泊まりたい、それが無理ならここの近くに引っ越して毎日お見舞いに来ると言い張った。
でもできないことも重々わかっている。

ううううううううううううううううううううううう…  と唸る。娘は自分の心と戦っている。

おばあちゃん…  あのね、大好き。   大好き!!大好きおばあちゃん!
これからもずっと応援してて。頑張るから。見てて。 大好きなの… おばあちゃん大好き!

娘は泣きながら叫んだ。お義母さんは大きくうなずいた。
よく伝えられた。百点!

「お義母さん、『また』来ますね。」 
知らず知らずのうちに『また』を強調していた。華道展の写真を持って。そして今日連れて来られなかった下の子を連れてまた来ます。また来ますから。必ず。
お義母さんは少しウトウトしているようだ。疲れたかな。少し長く眠れるといいなぁ。

名残惜しいが病室を出た。


「はー!うん。わたし、おばあちゃんからパワーもらったわ!!頑張る!」と娘。涙のあとの残る笑顔。
「吸い取っちゃだめだよ、君はパワーをあげる側だよ」と諭した。

二人を会わせた私の行為は正解だったかどうかは未だにわからないし、さよならを言えなかった私には後悔しかない。

ただ娘は、はなまる百点だ。

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