「やる人、やらない人」
たまに、何かを始めるべきかどうかを悩んでいるというような相談を受けたり、そういう人に会ったりする。
または、そういった人を勇気づける内容の自己啓発本を目にする。
これから何かを「やるか、やらないか」という段階で、情報を集めて分析するという作業にではなく、意志を固める作業に関しては、あまり人を関わらせない方が良いように思う。
自分の経験上、何かをやる人というのは、それをやらずにはいられない人であることが多く、能力が高いとか、環境に恵まれているということは、そこまで関係がないように思う。
単に、人の言う通りに大人しくするのが苦手な人が多い。
よく例えに使われる「一匹目のペンギン」は、勇敢なペンギンではなく、そのまま陸上に居続けることの方に危機感を持ったペンギンか、もしくは、数少ない極度に協調性がなくても生き延びたペンギンを都合よく持ち上げているように思う。
たとえ、何かの分野の天才や卓越した革新性を持った人であっても、生物的には変異体であって、現代という自由度の高い時代にあっては持て囃されることもあるが、生き物として考えれば、周囲の環境に適合できずに絶えてしまうことが多いのも仕方がないように思う。裏を返せば、一匹目のペンギンになろうとしない凡庸さにも重要な存在意義はあるように思う。
自分はこれから何かを始めようとする人の背中を押すことはあまりしないし、だからといって、自分のような人間が人の計画を頭ごなしに否定することもない。
靴のひもを結ぶようなルーティンワーク以外のことをすれば、多かれ少なかれ、必ず失敗はする。むしろ、失敗は無理のない程度に集めておいた方、後で思いがけず役に立つし、少なくとも話のネタになる。
鳥は翼を獲得して両腕を失ったように、何かを望めば何かを支払わざるを得ない。ただ、何かの犠牲を払うことは何かを得るための必要条件であって、十分条件ではないように思う。
たとえ両腕を支払って飛ぼうとしても、十中八九そのまま崖から墜落する。それでも死ななかったと、笑いながらまた崖を登るような人が、周囲の人間の反対に合ったり、馬鹿にされるのは、ありがたいことだと思うし、当然のことのように思う。
特に何かをやろうとする人間に実績や経験がないならば、人が自分の青写真を笑わずに聞いてくれるだけでもありがたいと思うし、まして、何かの協力を得られないことを嘆くのは、棚から牡丹餅が落ちてこないと寝ながら嘆くようなもののように思う。
何かをやる人間は嘆かないし、嘆く人間は何もやらないし、それでいいと思う。