見出し画像

ハワイタイムマシーンZ/太平洋のど真ん中で 45.ハワイの新しい時代が始まります

デュークカハナモクが、ハワイの魅力を世界中に広げます

ハワイ王国はアメリカ合衆国に取り込まれてしまったわけですが、東南アジアの植民地のようではありませんでした。アメリカンな感じで、いろんなことに起こりはじめています。

1910年、ハワイで初めての飛行機が飛んでいます。ちなみに、ライト兄弟が初めて有人動力飛行機を飛ばしたのが1903年ですから、かなり早い時期です。詳しく知りたい方はこちらをご覧ください▼

Hawaii by Air

※ちなみにハワイアンエアラインが初めて飛行機を飛ばしたのはもっと後の1929年です。

自動車が蒸気自動車からガソリン自動車になり始めたのもちょうどこの頃。アメリカ本土では、大衆用自動車のT型フォードがあちこちで見られるようになったそうです。

もうひとつ。ハワイアンの人数は減る一方でしたが、元気なハワイアンもいました。

現在、カラカウア通りがワイキキビーチと出会うあたりに、両手を広げて立っている銅像があります。その背中には大きなサーフボード。サーフィンの父、デューク・カハナモクです。ハワイ史に登場するハワイアンは今まで、基本的に王族関係者がほとんどでした。が、彼は違います。

デュークは1890年8月生まれです。ハワイがギリギリまだ王国の時です。王家に使えていた家の子でした。ハワイが共和国になった1893年からワイキキで暮らすようになり、海と共に毎日を過ごします。泳いで、アウトリガー・カヌーに乗り、サーフィンをして、本当に毎日海だらけ。今みたいにビーチは人でいっぱいではありません。

サーフィンといっても、現在見かけるようなものではありません。サーフボードは5m近くもある大きな木の板でした。

1911年、デュークはハワイで世界記録を上回る水泳記録を出します。が、現代とは違い、まだテレビも一般的になってない時代です。ハワイはアメリカ本土からしたら遠い島。何を言ってるんだ、みたいな扱いやったそうです。逆に言えば、それほどすごい記録やったわけです。

翌年の1912年、ストックホルムのオリンピックで、いきなり金メダルを獲得します。100mフリースタイルやったそうです。1912年といえば、デュークは22歳。まだまだ、これからです。この後のオリンピックでも活躍しまくります。

こうして、デュークは有名になっていくわけですが、同時に彼は、サーフィンの存在を世界に知らしめたと言われています。サーフィンの父として、ワイキキビーチに銅像が建てられているのはそのためです。ハワイ王朝の歴史は暗い話ばっかりですが、デュークの歴史は元気で明るいです。そして、ハワイの魅力を世界中に広めた人です。その功績は、本当に計り知れないかも。

ちなみに、デュークが亡くなるのは、1968年1月のこと。わたくしが生まれたのは1967年2月なので、ギリギリ重なっています。ハワイの歴史がどんどん身近なものになってきました。

第一次世界大戦の頃のハワイ

画像1

1914年、第一次世界大戦が勃発します。

・連合国(フランス、イギリス、ロシア帝国など)
・中央同盟国(ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国など)

メインの舞台はヨーロッパですが、当時のヨーロッパ諸国は世界中に植民地を持っていました。中国海岸沿いの山東省や、フィリピンの東のパラオやマーシャル諸島はドイツ領土でした。日本は日英同盟を結んでいたこともあって、連合国として、これらを占領するため太平洋エリアでのみ参戦します。

日米紳士協約第43話参照)のあたりから、アメリカやイギリスでは反日感情が高まっています。なので、日本の参戦については賛否両論あったみたいです。日本でも同じで、参戦するかどうかについて意見は分かれています。が、結局参戦して太平洋エリアでドイツ軍をやっつけまくることになります。

※アメリカが参戦して、ドイツに宣戦布告するのは1917年。

細かく書くとキリがないので簡単に書きますが、日本はこの結果、ドイツが仕切っていた中国山東省を獲得し、その勢いに乗って後に東北エリアを制圧、「満洲」という国をつくることになります。アメリカとイギリスの反日感情は限界まで到達し(っていうか、超目障りな存在となり)、敵対国として第2次世界大戦に突入してしまいます。反日感情の原因は何か。1番の要因は日本が有色人種の国だったことです。日露戦争で日本はロシアを倒しましたが、これは近代において有色人種の国が白人国家を倒すという初めての快挙でした。嘘みたいな話ですが、欧米の植民地となっていた東南アジアの人々(占領されてるアジア人)の間でも、日本の快進撃は気持ち良く語られていたそうです。

が、このあと、日本は失敗しまくります。

日本にも戦国時代があり、歴史の中に「戦争」はありました。が、いずれもそれらは日本国内の「戦い」で、言葉も思想も違う異人との戦いではありませんでした。日本人は戦術は優れているけど、戦略は全くダメ、とよく言われます。戦術も戦略も、戦場だけの意味ではありません。日本は、外交で失敗しまくり、間違った道を進んでしまうことになります。

第一次世界大戦での日本の活躍が、アメリカ人にどんな影響を与えるか、アメリカで暮らす日系移民労働者たちも分かっていませんでした。日本軍の活躍を大きく祝い、アメリカ人の反感をより一層高めてしまいます。

1917年、ハレクラニ誕生

画像2

第一次世界大戦は、ハワイにとって異国の世界の出来事でした。1907年、ワイキキにつくられた宿泊施設が、1917年、ハレクラニという名前でリニュアルオープンします。ワイキキで、モアナ・ホテル(現モアナ・サーフライダーホテル)に続き、2つ目に歴史があるホテルです。

現在のハレクラニをご存知の方は、え?あれのどこが古いの?と思われます。白くてキレイで、あまり歴史を感じません。1981年にアメリカの三井不動産が購入し手を加え、現在の姿になりました。リニュアルオープンしたのは1984年のこと。他のホテルに比べて新しいくらいです。

スタートした時のハレクラニは、複数のバンガローを持つ宿泊施設でした。モアナ・ホテルとは全く違う雰囲気です。中央にコーラル・ツリー・ラナイというステキなレストランがありました。そのレストランがある建物だけはリニュアルされておらず、現在もハレクラニの中央にそのまま残っています。コーラル・ツリー・ラナイも名前は変わりましたが、現在も営業しています。それが、オーキッズです。

ヨーロッパでは激しい殺し合いが行われていましたが、ワイキキはリゾート地として静かに成長中でした。

ハワイ王国最後の女王、リリウオカラニが亡くなります

画像3

1917年11月、ハワイ王国最後の女王、リリウオカラニが亡くなります。1838年生まれなので、79歳でした。ハワイ王国の8人の王の中で、一番長生きされています。そして、ハワイ王国が滅びてからの姿を20年以上も見ることになりました。

1917年は、アメリカが第一次世界大戦に参戦した年です。地球の裏側で起きている戦争に参戦するなんて、ハワイ王国では考えられないことです。ハワイ王国がハワイ準州として成長して行く姿は、リリウオカラニにとって、自身の故郷が消えていく風景でした。

王位を剥奪されてからのリリウオカラニがどう生きたか、ハワイタイムマシーンZではあまり取り上げませんでした。ハワイの歴史、とは直接関係なくなってしまうからです。まったく知らないわけじゃないです。でも、書き始めると違う世界に突入してしまいそうなのでやめました。リリウオカラニの人生について書いてるWEBサイトをもう一度ご紹介しておきます▼
リリウオカラニ女王自伝を読む

。。。。つづく


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?