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ハワイタイムマシーンZ/太平洋のど真ん中で 31.モロカイ島カラウパパとダミアン神父の話

アメリカ南北戦争が終わったことはハワイにも影響します

カメハメハ5世が、王に権力が集中する憲法につくり直したことはこの前書きました。が、その頃のハワイは、すでに世界の流れに飲み込まれていて、王が権力を持ったところで、どうにもならないところまで来ていました。

1865年、アメリカを2つに分けて行われていた南北戦争が終わり、黒人奴隷が解放されました。その結果、労働賃金が上がったりして、アメリカ本土の砂糖は、ハワイの砂糖より高くなってしまいます。アメリカの製糖業者たちはハワイの製糖業者に対して怒りはじめます。
「これはどういうことか!奴隷制度の残るハワイ王国の砂糖が安いのは当然だ。そんな国の砂糖を輸入するのは間違っている!」
ハワイには奴隷制度なんかありませんが、移民労働者の待遇は確かに奴隷みたいなものだったはずです。

アメリカ合衆国政府は国内世論や政党業者の怒りを抑えるために、ハワイ産の砂糖に高い税率を課すことにします。高い税率をかけられたたら利益が減るのは当然で、ハワイの製糖業は大打撃です。当時のハワイ王国の財政は製糖業と直結していますから、ハワイ王国にとっても大打撃です。

なんとかしなくては。

カメハメハ5世は焦ります。いろんな解決策を考え、アメリカ合衆国に提案しますが、全て却下されます。ちなみに、ハワイ王国を救うための政策が実行されるのは、カメハメハ5世が亡くなった後のことです。そして、その政策は現在もハワイ州を支えています。それが何かについてはまた今度!

ハンセン病の大流行が始まります

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西洋人が増えたために、西洋の病気もハワイへやってくるようになっていました。当時、まだ治療方法が見つけられていなかったハンセン病がハワイで流行し始めたのもこの頃です。ハンセン病は、末梢神経が麻痺したり皮膚に病的症状が出たりする怖い病気で、当時は原因不明の伝染病でした。どうしていいか分からないハワイ王国政府は、感染者を隔離することにします。その隔離場所に選ばれたのが、モロカイ島のカラウパパ半島でした。

カラウパパは、断崖絶壁の下に突き出した岬のような土地。目の前は荒れた海、後は崖という陸の孤島です。

このモロカイ島への隔離が始まったのは1866年のことです。ちなみにこの病原菌が発見されるのは1873年。結構早く発見されていますが、病原菌がはっきりしただけで、どう治療していいかが見つかるのはもっともっと後のことです。カラウパパ半島へ送り込まれた感染者たちは、そのまま孤立した世界で一生を終えることになりました。

※現在は、特効薬も開発されていて完治する病気です。

このカラウパパ半島は現在も陸の孤島のままです。Google MAPで見ても、道は繋がっていないのです。

でも、ほったらかしのままではありません。現在はカラウパパ国立歴史公園としてしっかり管理されています。

脱線して、カラウパパ国立歴史公園について

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ちょっと脱線します。

2011年8月、わたくしは取材でこのカラウパパ国立記念公園を訪れたことがあります。カラウパパまでのちゃんとした道路なんかなくて、ミュールという、馬とロバの子どもに乗って、崖っぷちの山道を降りていきます。山道は細いので1列に並んでおります。ツアー会社のスタッフも、ミュールに乗って一緒に降りてくれます。一緒といっても、彼らは列の一番前と一番後にいてくれてるだけで、降りてる間は、話の通じないミュールという動物と一対一。そんな状態で断崖絶壁の細道を降りるのです。ミュールから落ちたらそのまま崖下。出発する前に、今まで誰かが落ちてしまったりしたことはありませんか?とガイドさんに質問してみましたが、
「あはは、そんなことは一度もないよ」
と笑っておしまいにされてしまいました。ううむ、あったとしても言えないに違いない。

ミュールから落ちてしまったら人生は終わりです。両脚でミュールを挟んで、汗びっしょりになりながら、ドキドキしながら下まで降りました。ちなみに、下まで約1時間かかりました。クタクタになりましたが、それよりも降りた時に太もも内側の筋肉がパンパンに張っていることに驚きます。カウボーイは毎日こういうことをしているわけですね。ハワイで20年、いろんな体験取材をしてきましたが、このミュール体験が一番刺激的でした。

ツアーはそれで終わりではありません。カラウパパへ降りたら、そこからが本番です。ガイドさんが説明しながらカラウパパの町を案内してくれるのです。でも、それは英語です。わたくしは英語がダメなので、ほとんど意味がわかりませんでした(何を言っているかは、一緒に行ったスタッフに教えてもらいました)

カラウパパには小さな町がありました。家だけでなく、お店も教会も学校もありました。でも、外の世界(半島の外)とは隔離されています。

ガイドさんの話では、わたくしが取材に行ったその時も高齢の患者さんが数名ご存命で、カラウパパで生活していらっしゃる、ということでした(それは2011年のことなので、現在はどうなのかは分かりません)

ガイドさんの話を聞いて一番驚いたのは、その小さな町は最初からあったわけではないということでした。

ダミアン神父について

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みなさんは、ハワイ州庁舎の前に建っている、謎の像をご存知でしょうか。そこにある像は、ワイキキで見かけるカラカウア王の像やサーファーの像のように、リアルな姿をしていません。マンガの脇役に出てくるおじいちゃんみたいな感じで、ハワイ州庁舎の前にポツンと立っています。彼の名はダミアン神父。ベルギーでは国を代表する誰よりも有名な人やそうです。彼は何をしたのか? どうしてベルギー人の彼がハワイ州庁舎の前にいるのか。

カメハメハ5世よりもちょっと後の時代になりますが、ダミアン神父は、カラウパパへ送り込まれているハンセン病感染者のことを知り、ほおっておけなくなりました。

1873年のことです。ダミアン神父は、ハンセン病感染者の魂の救済のために何かしなければと思い、カラウパパへ降りていきます。世間から隔離されていた感染者たちは、カラウパパで酒に溺れ、博打をし、乱交しまくっていました。絶望しているから当然かもしれません。彼らはとても不衛生な環境で過ごしていた、といいます。

Wikipediaには以下のように書かれています▼
当時、モロカイ島の隔離地には800人のハンセン病患者が隔離され、415人が「病院」と呼ばれる家に収容され、年間142人が死亡するという状況であった。

ダミアン神父は、まずその不衛生な集落をなんとかせねばと思い、貯水場から村までの水道管を造ります。その後、青年隊をつくり、家や教会を増やしていきました。最終的には、300軒以上の家を建てたそうです。それでも患者たちは、ダミアン神父に心を開いてくれませんでした。ダミアン神父はカラウパパまで降りてきてくれていましたが、やっぱり感染するのを恐れていたと思います。それが患者たちには分かったのではないでしょうか。悩んだダミアンは、次第に患者の幹部に平気で触るようになっていきました。全く相手にされなかった重病人の家を訪れ、手当てをするだけでなく慰めたりし始めたそうです。やがて、ダミアン神父の気持ちはハンセン病感染者に伝わり、心を許し始めます。今まで絶望的な生活をしていたハンセン病感染者たちは、生きる喜びを取り戻していったと書かれていす。

ダミアン神父のおかげで、カラウパパの状況は大きく変わっていきます。環境や施設が充実していっただけでなく、王がこの地を訪れたりしています。誰が訪れたかについては、その王の時に書かせていただきます。

カラウパパは救われましたが、1884年、ダミアン神父もハンセン病に感染してしまいます。亡くなったのは、1889年のことでした。

脱線してすいません。次回、カメハメハ5世の話に戻します。

。。。。つづく


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