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パラダイム・シフト

あなたはあなたであって、全く他の誰かではない
彼と彼女と、あなたは、ただ三つの人であって、他の何でもない
もし境界線を引くことができるとすれば、それは「私」と「あなた」だけであるけど、もしかしたらそれは、他でも同じように引けるものなのかもしれない

例えば、中学・高校に入って少し経った頃、それぞれの場所でグループができて、「なんだ、こんなものか」と君は思っただろう。
1組のあそこにはあの子たちのグループがいて、私はここにいて。
私は中学校、通ったことないけど。

例えば、「あなたMBTIなに?」と聞かれ「INFP?え〜ぽいかも」と言われたり。
私はCUTEに生きたいだけなのに。

例えば、「部活動は何をやっていましたか?」「6年間バスケ部でした。強豪ではなかったですが、、」「体育会系だったんですね、背も高いですしいいですね。」
私は部活、入ったことないけどね。

例えば、ESを書いているとき、「あなたは今までどこのコミュニティに属していましたか?」という問いについて、”経歴”という名のそれを淡々と書き写しながら「なんだ、こんなものか」と思ったり。面接だって、彼らが知りたいのはきっとそれのようなもの。
私は、就活したことはないけれど。

どんな人間も、私には想像もつかないような日々を生きてきて今私の目の前に居る。その事実に対して、できる限りの尊敬をして謙虚でいなければいけないと思っている。
自分の知っている形に変換して、「理解したふり」という傲慢さで、あなたと話すなんてことは、私にはできない。
とても時間がかかることだけど、それでも、あなたを前にしたのなら、あなたをできるだけそのままに受け止められるように、そこに時間をかけることこそ人生だと思っているから。

どうしてこのような希薄な関わり合いが無数にあるかなんて、とても簡単なことだし、私にも分かっている。
”個人”がより賢くなり、関わる人々のスケールが大きくなると、必然として個々の解像度を落とさねばならない。あくまでその手段として、マクロ的視点を持つようになるのは明白なのだ。一人ずつの人間として認識するよりも、統計的分析や傾向によるパターンを見出し、それを認識したほうが格段に処理は速い。

ただ、この手段はとても大きな力を持っている。それには大きな責任も伴うでしょう?
私も、きっとあなたも、そんな大きな責任を伴う手段は見合っていないの。
だって、そこまで賢くないでしょう。
賢くないのなら、ちゃんと一つずつ受け止めて、応えてあげて。
それは自分自身にも。

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