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この感性に、「HSP」という名があることを知った

僕はHSPである。
それはもう、正直に言うと、いらないとずっと思っていた気質である。
この世界に生を受けて26年になるが、この人生を一言で表すとしたらまず間違いなく「HSP」、これがピッタリ枠に収まるだろう。

僕と一緒に育ってきた「相棒」だ。
相棒はずっとそこにいて、一緒に育ってきたのに僕はそれが着いてくるのが凄く嫌だった。
どこに行っても変わってるねと言われた。
相棒との成長録を、今日は見返して寝ようと思う。

【小学生】

1年生になった頃だろうか、未だに鮮明に覚えている景色がある。古木が軋む木造の校舎で、昼ごはんを食べた後の昼休み。皆が中庭へ駆け抜けていき、ボールを投げ、かけっこをし、笑い、泣いている友達たちがいる。
僕はそんな友達たちに目もくれず、1人プラスチックの板を机に敷いては、箱から油粘土を取り出し色々な物を作り出していた。動物を作っては壊し、湯のみを作ると副担任の女の先生が頂きますと言って飲み干すジェスチャーをしてくれる。1日2日の話では無い。ほぼ毎日、昼休みは粘土をしていて、副担任の先生と遊んでいた。あの先生は元気なのだろうか。もうおばあちゃんになっているはずだ。

4年生の頃は、昼休みはひたすらに絵を描く事にハマっていた。それも、今でも鮮明に覚えているが、僕の書く絵は全て「お化け屋敷」の絵で、この位置にこういうお化けがこう出てくる、このお化けは腕が伸びるが草木の匂いに弱い、等とよく考えたものだ。頭が回転するお化けのグッズを販売しよう、扇風機になるかもしれない。あの頃の創造性はどこに行ったのだろうか。一度、友達に聞かれたことがある。「なんでお化けなの?」僕は即答していた。「だって、お化けは決まったルールが無いから。足が何本あろうが、火を吹こうが良いんだ。僕が想像したものが出てくる」。クリエイティブな才能は、もう既にこの歳には開花していたようだ(もっと風景画とかに目覚めて欲しかったけど)。母は、友達もあまりおらず内気で絵ばかり書く僕のこれからを心配していた。

【中学校】

中学校に入ってからは、生活態度が凄く変わった。ひょんな事から、クラス1のガキ大将と仲良くなり、スクールカーストで言うところの上位に入った。内気でいじめられていた僕は、いつの間にかクラスのみんなの前でガキ大将と漫才をしたりする程になっていた。あの3年間は楽しかった。あれを超える楽しい出来事に、僕はまだ出会えていない。変わっているねとは言われなくなったが、密かに新たに始めていたことがある。有名な小説投稿サイトで、同人の小説やオリジナルの小説を携帯で執筆していた。誰にも言えない秘密だったが、HSPだからそういう創造が出来たんだと思う。

【高校生】

この時、初めて自分が人と接することに疲れていることに気付いた。
当時仲の良かった友人は遊ぶ事が大好きで、土曜日に泊まりに来ては日曜日もそのまま遊んで解散というのが何回かあった。
僕はその友人の事は嫌いじゃないのに、何故かその遊び方が凄く嫌になっていた。疲れるな、自分ひとりの時間が欲しいなってずっと思っていた。本人にも言ったことがあり、理解してもらった。珍しいパターンだったようで、未だに僕は彼の中で「一人の時間が無いとダメな人」という認識になっているようだ。いや、その通りなのだが。
一人の時間は、例え家族が相手でも欲しかったようで、よく週末は祖父の家に泊まりに行っていた。ほとんどは兄弟が着いてくるのだが、たまに1人で行ける時は気分が最高に癒された。家族の事も嫌いじゃないのに、なんでなんだろうかと思っていた日々だった。
また、犬を飼い始めたのだが、家族にはわからない犬の感情を読み取っていた。今、寂しいだろうな、寒いだろうなと思い、よく部屋から出されている犬のところに駆け寄ったものだ。

【社会人①】

結局、家は出て1人遠い東京へ向かった。
念願の一人暮らし、、、とまでは行かなかったが(会社の寮なので)、それでも1部屋自由に使えるのは最高に良かった。触れ合う何もかもの経験が華やかであった。
3年後、僕は憂鬱だった。
職場に完全に合わない上司がおり、もう僕はその人のために生きていた。顔色を読み取り先打って行動する、過剰な程に。その人の好きなまかないしか作らない。その人の機嫌が悪くなりそうな事は全て排除していった。とてつもなくブラックな環境下だったが、たった1度しか希望休も取らず、その人のために働き続けた。大嫌いだった。
その希望休でライブに行ったのだが、その日はとても忙しかったらしく休みを取った事に対してその人は不機嫌になった。
転職を、決意した。

【社会人②】

タクシードライバーを始めた。
一日のほとんどは一人の時間で、とてもやりやすい仕事だった。休みも多く体調も安定していた。給料が安定せず、辞めた。お客様と2人きりの空間と緊張に耐えきれず、辞めた。

【ニート】

今からで言うと2年前になるか、仕事が決まらず、4ヶ月ほどニートをしていた。
髪も伸びに伸び、する事もないのでこっちで出来た友達と遊ぶ毎日だった。
ある日、その中でも特に遊んでいた回数の多かった友人とドライブをしていた。
どの話からその流れになったのかはわからないが、自分は変わっている人間だと切り出した。これまでの事や人間関係に疲れてしまう事を話すと、友人から思いもよらぬ答えが返ってきた。
「それって、HSPじゃない?」

驚いた。
ずっと、変わっているから、AB型だから変なんだと思っていたこの感性に名前がある事を知った。聞けば友人はHSS型HSPで、彼も苦しんできたという。この友人とはここからも関係を築いていくが、この名を聞けたことが1番の宝物である。
だが特に調べたりはせず、仲間はいる事だけ頭に入れた。

【社会人③】

今の職場に入社した。
HSPが原因で様々な事が起きた。出来た恋人にはその感性が理解出来ないと別れを告げられ、ヘルプ先では能力が発揮出来ず落胆。上司から監視されていることに頭が真っ白になり動けない。マルチタスクをこなせない。よくわかった。
HSPを調べてみることにした。当てはまること、はまらないこと色々あったがとても勉強になった。そして、昇進(店長)の話があったがお断りした。自分には、HSPがあるから出来ないかもしれないときちんと上司に断った。

【今】

今、店長をしている。とりあえずやってみることにした。
アルバイトを雇っているが、気持ちを理解しようとしすぎて失敗してばかりいる。集団でする仕事はやはり向いていないと自覚した。売上ノルマもある。上司が一緒に働かない分、そこは気楽ではある。HSPの勉強を本格的に始めた。書籍を読んでまとめている。自分は恵まれているなと思った。だって、心の教科書が少ない人間という生き物なのに、HSPというものがあるお陰で、教科書に巡り会えている。こう思った時はこうするが全て記載してある。考え方も大きく変わってきた。前向きになってきた。前向きになった上でやはりこの仕事は向いていないとわかった。
アルバイトの学生はそういうのを見抜くようで、心の問題を抱えた子が数人相談にやって来た。話を聞く限り完全にHSPだった。相談を終えた後、今まで感じたことの無いやりがいを実感した。このやりがいを仕事には出来ないのかと考えた。そして今、模索している。
創造性は、この場所noteで発揮していければと思う。


存在が分かり、名が分かり、特徴が分かり、今やっと付き合い方がわかった。
この相棒とは生涯付き合っていかなければならない。いやだが、お前が居てくれたお陰で僕がある。お前と2人で何か成し遂げられないかと、明日も模索してみようと思う。

今日は、寝る。

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