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浪漫特急 §36-1 いただき、いただき


 半マイルもいかないうちに、太平洋から顔を出した太陽が主人公の前方を照らし、頭上にそびえる凍った山頂がほのかに白みた。まもなく新しい一日が始まる。それは見事な雪とクリスタルと、そしてサファイアで輝き、往く者の喜びとなる一日のはずだ。

 とはいえ、主人公は死に物狂いの奮闘を覚悟していたし、実際そうだった。急勾配な氷の斜面や雪の吹き溜まり、吠える雪嵐に警戒が必要だった。主人公はそれらすべてをあまた体験した。しかし、凍えるようなことはなかった。温度計は零下二十度以下を差していたが、三枚重ねたウールの着衣の中は十分に暖かく、物足りなく感じたほどだ。この程度の山登りでは、とくに並外れ体力もいらなければ、特殊な山岳技術も不要だった。登山道は三フィートの雪と氷の下に埋まっているものの、ガイドがいなくても大丈夫。唯一必要なものといったら、尖ったスパイクとピッケルだけ。それらを「頼んまっせ」とばかり氷雪に打ち込めばそれでよかった。逆に言うと、それらがなければ一ヤードだって進むことができないだろう。一歩、一歩、また一歩とスパイクで噛む。いよいよ切り立ってきた斜面にザク、ザク、ザクとピッケルを食わせる。

 この、なくてはならない頼みの相棒は、もし手を滑らせても大丈夫なように手首に六インチのひもで結び付けられていた。そうでなければ、太郎坊の名を唱えるより早く、そいつは太郎坊まで滑り戻っていってしまうだろう。そして主人公はかなり不安定な場所に取り残されることになる。実際、足を滑らせたり躓いたりがなんどかあったが、とっさにスパイクを突き刺して事なきを得、再び歩みだすことができたのだった。


 太郎坊を出てから朝方は休みなく歩き続けた。一万一千フィートに達した時点で暴風域に突入した。風は顔を打ち、擦ってやって血を巡らせなければ鼻やあごが凍てついてしまっただろう。

 最後の数百ヤードは、フジヤマを守護する雪嵐の最後で狂気の抵抗との死に物狂いの戦いだ。突風になぎ倒される前に一度ならずと撤退を考えた。しかし、そのたび内なる悪魔がそそのかす。

 「高く、高く、もっと危険な領域へ進むのだ」
 「いただきへ、いただきへ」

 それで主人公はマフラーを締め直し、這いずり続けた。一歩歩けばそれだけ近づくのだ。

 ついに山頂のお鉢の縁にたどり着いた。だが、護衛の氷風は怒りを込めた全精力をもって反撃してきた。遮るものが何もない広い山頂から吹き降ろしてくる突風は、凍った地べたに突っ伏してしのがなければならなかった。

 見上げるとよく澄んだ青空じゃないか。陽光もごく通常の一月のそれだった。それでも、喚きたてる疾風が、ただぼんやり流れるだけの雪雲を刺激して、岩場からあちらやこちらに追い立てた。

 冷たさが痛みになってきた。登攀は終わったが、長くは耐えられそうもない。だが、登頂を証明する写真を撮らなければ、この苦労も水の泡だ。撮影は状況が許す限りの迅速を要する。これまで壊れたことのないカメラを取り出した。絞りは日光で使ったときにピンポイントまで閉じたままだった。ところが、壊れたのか凍結したせいか、今度は開かなくなった。

 「ちくしょう、風と雪の野郎め、なんてことしやがる」
 「俺を凍えさせてもいいが、カメラはダメだ」

 なんとしてもフジヤマに登り切った写真が必要なのだ。必ず撮る!

 主人公は、雪に半分埋もった山頂小屋を背景にして這いつくばり、手袋を引っ張りはがした。凍傷になるのとどっちが早いか競争しながらレンズを外し、薄いスチール製のリーフシャッターをつまんで開けた。デリケートな作業なのに、雪が目に吹き込んでよく見えないうえ、慎重なやり方ではらちが開かない。主人公はナイフで力を加えてシャッターを丸ごと抉った。そして、ポケットから名刺を取り出し円盤状に切り取った。適当なサイズに穴を穿ち、それをシャッターに押し込んだ。


 その間、主人公は耳が凍傷になりつつあるのを感じていた。鼻は雪のように真っ白になった。指は曲げることができなかった。しかしカメラは生き返った。

 けっこうな疼痛を我慢しながら、体の末端の各部に血液の循環を取り戻した。

 七百フィートの深さがあるクレーターの縁に這い登り、カメラをセットした。折しもの旋風が主人公の手からカメラをほとんど奪い取ろうとしtたが、クレーターに向けてなんとか三度シャッターを切った。すぐ撤収。

 一枚が映っていた。これぞ有史以来初の冬季のフジヤマのお鉢の写真であるぞよ。

 下山は、太郎坊に向かって追い風だった。時刻はまだ三時になっていなかったので、登るときに設定したペースを緩めることにした。主人公は、フジヤマ登山にどのくらいの時間がかかるか知らなかったのだ。それで安全の歩留まりを考えて、朝方の厳しい行程となったわけだ。だが、山場は越えた。たっぷり休憩をとるがいい。

 暴風域から降下離脱したところで、ピッケルを深く氷床に突き刺し、それを足の支えとして斜度四十の斜面に横たわった。快適。

 「なんて見晴らしだ」

 主人公の眼下には五千フィートのフジヤマの裾野のスカートがまっすぐ、下方に向かって広がっていた。それは四十度から四度まで緩やかに勾配を減じつつ、均一で優雅な曲線を描いていた。


 「日本人は、紀元前二百八十年のある夜、女神が一夜にして平地から昇天したのがフジヤマのいただきだと信じている。俺も信じる」

 「こんなすばらしい姿をした山はほかにはない」

 「あのマッターホルンだって、モンテローザから見下ろされていた。だけど、フジヤマは小さい丘にさえも邪魔されずにひとり、離れて佇んでいる」

 「太平洋からそのまま一万二千四百フィートがすっくと立ちあがっている」

 「世界中探したって、俺がさっき征服した白い女神さんより、遠くから望むことができるランドマークなんてありゃりしないよ」

 「日本のほかのもっと低い山は、夏になればしぶしぶ白い帽子を脱ぐけど、この摩天の山は年中ずっと白いいただきのままなんだ。晴れた日には百マイルも離れた船に向けてこう呼びかけるんだ。『わたしはここよ、フジヤマよ』ってね」

 主人公の独り言はとどまらなかった。(§36-2につづく)


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