プロティノスの哲學
Πλωτινοςの體系(το ‘ενから‘υληへの存在階層及び各層の發出還歸の聯關)は三つの視座から重層的に描き出される。
第一にψυχήからτο ‘ενへの認識論的上昇過程として。其の内に更に二種あって、一に存在論的なそれとして、卽ちπάντα τα όντα τωι ‘ενι έστιν όντα(万有は一によって有である)と謂われる際、存在者の存在の根據として一が追及され、νουςより上位のものとしてτο ‘ενが定立されるに至る(VI9)。茲では存在論的根據の追求としての認識論的上昇過程が描かれる。この時、το ‘εν は一切の存在者の始原として超越的性格(e.g. ‘απλούς非多, άπειρον非限定)が附せられる。
二にψυχήの自己反省が介在する場合。自知とは自己が自己を觀るということであるが、是は如何にして、如何なる構造の下で可能であるか、かゝる問題との聯關で認識論的上昇過程が展開される。茲では認識論的上昇過程が、單に對象(存在者)面の上昇のみならず、認識主體の上昇をも伴うという點が強調される(實は是がΠλατώνのιδέα論で往々にして見過ごされる點であり、Πλωτινοςにあってはじめて明示的な仕方で開示されることとなる)。
第二の視座として、第一の認識論的上昇過程から飜って、το ‘ενから ‘ υληまでの生成に就いての存在論的下降過程が展開される。茲での主旨は發出論emanationである。存在論的に上位のものは下位のものを必然的に生じるが、上位のものは其儘留まり、減ずることなしに下位のものは生成される。茲で下位のものは上位のものの似姿である等。亦、万有は自らを生んだものを目指し、觀照活動しているというθεωρίαの敎説も此の存在論的範圍にある。發出還歸の圓還的世界觀が示され、根源一者は万有の根源原因卽究極目的としてαρχή πάντων(始原), τ´αγατον(善)という性格を得る。
認識論的上昇過程が逆から觀られれば存在論的下降過程となるが、前者が論理的推論の形式、即ちδιαλεκτικήの展開であるのに對し、後者は比喩に於て表現される。一者からの發出は、横溢ξεχείλισμαとも流出απόρροιαとも謂われるが、其れは比喩的表現に過ぎない。茲で如何にして一から多が生じるかという問題は、太陽の光を發するが如く、泉の水を横溢するが如く、花の香を漂わすが如くと説明される(Πλατώνに於て辯證διαλεκτικήと神話μύθοςが彼の論述の兩側を成していたのと同様である。辯證論は我々をして感覺的事物からιδέαへと上昇せしめるが、その逆路は神話に於いて語られざるを得ない)。但し、二面ある認識論的上昇過程の内、ψυχήの自己反省の論理が存在論的下降過程として反轉される時、το ‘ενからνουςの生成に關する非神話的、比喩を排した論理的説明が齎される。卽ち、το ‘εν(の外的δυναμιςとして)の自己自身への振り返りεπιστρέφειに於て、其の働き(未完のνους)がτο ‘ενに限定されνουςとなるという、Πλωθινος哲學にあって最も深淵なる自己認識の根本構造に関する理説がそれである。かゝるλόγοιは、我々が我々自身を觀乍ら、かく自らを觀るものとしての自己自身の由來を尋求するという認識論的努力が存在論的に反轉したものである。茲でΠλωτινοςの發出論ははじめて、其の具體的根據を獲得するに至る。此處は認識論即存在論、存在論即認識論なるνουςの場であり、其の統一としての自覺の場である。
如上の第一、第二の認識論的=存在論的圓環體系の背後にあって、其等を根底的に支え、常にΠλωθινος自身を衝迫し續けることで、そのλόγοιの表面に迄横溢せる第三の視座(此れは視座ならぬ視座というべきものである)が存する。即ち、體驗が是である。Πλωτινοςの思想は因果聯關の枠内に留まらない。寧ろ、έκστασιςに於ける直觀から發し其の體驗をλόγοςに於いて表現し直さんという試みである。Πλωτινοςは、彼の言説がΠλατώνのそれを出ずるものではないと斷言するが、茲で彼が謂わんとしていることは、Πλατώνの體驗そのものと自らの其れとの同一性に就いてでなければならない。從って、我々がΠλωτινοςに於て問題とすべきは、彼のλόγοιそのものではなくして寧ろ、其の體驗そのものの内實であろう。彼のλόγοιは其れへの標記に過ぎない。我々は彼の遺した蹤跡を辿って、自己の深淵へと參入する。茲で出會われるものが卽ちΠλωτινος其の人に他ならない。
«ΠΕΙΡΑΣΘΑΙ ΤΟ ΕΝ ΗΜΙΝ ΘΕΙΟΝ ΑΝΑΓΕΙΝ ΠΡΟΣ ΤΟ ΕΝ ΤΩΙ ΠΑΝΤΙ ΘΕΙΟΝ»
ΠΛΩΘΙΝΟΣ
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