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第73夜 マラガ港

 血統書ではこいつの名前は“マラガアリゾナ”となっていたが、せっかくの家族なので新たにベティと名付けて13年が経つ。緑内障の回避で片目を失い、原因が突き止められない前腕痛で薬無しでは跛行を見せる。だが毛並みは艶が維持され若干気弱にはなったがむしろ今が平均的な状態で、じつに可愛らしいお婆さん犬だ。
 ブリーダーから引き取って来た頃はやんちゃの極みで、新調した薄ピンクのカーペットをあっという間にレモン色に染め、近所の犬へは全身全霊の手荒い挨拶を仕掛け、野良猫やリスにはドラッグカー並みの突進を重ねた。生後からその片鱗を見せていたためか、アリゾナというワイルドな名前が与えられたようだ。しかしその前についているマラガという言葉は当時の私には想像もつかず、検索するとスペイン南のアンダルシア第二の都市と出てきた。画像ではコスタデルソルならではのリゾート感と、貿易での経済都市らしい高層ビルが立ち並ぶ。だが景観を死守する欧州ならではの美しさは、どうにもベティと相容れない。
 デジタルマップの航空写真を拡大するほどにマラガの地形に鎌倉との共通点が見出される。湾形、道路付、周囲の山並み、だが湾中心に大きな港が占領していることだけは違う。貿易、観光クルーズ船就航を主な目的とする港はとても大きい。この比率で由比ヶ浜に港を置いたら景色は一変してしまうだろう。そんな時ふとある仮想が浮かぶ。和賀江島が港として成立していたなら…。両胸に抱えられるほどの石を集積して北条泰時時代に作られた和賀江島は小舟の船着場として活躍したが、江戸時代あたりから放置され瓦解すると満潮時には姿を消す岩場と化した。しかしこれが遠浅などの欠点を克服して港として進化していたなら、由比ヶ浜全域には大型クルーズ客船が停泊し、首都への玄関口になっていただろう。
 遮るもののない青空をバックに白を基調とした大型客船が点在する姿は優雅の一言。動力を休ませる静寂感が伝わってくるからだろう。客室のバルコニーの老夫婦は朝日を受けた光明寺に島国の古都を感じ大きな身振りで感動を表し、手を引きながら部屋へ急ぐ。色鮮やかな服に着替え大きなストローハットを被り下船し久しぶりの地面を味わう。港周辺には店舗や施設が並び長旅の人々を迎える。船旅は時間がゆっくりな分、地上での時間が貴重なのだ。全てが揃う船内に唯一ないものは新たな出会い。新たな人、新たな景色、新たな匂い、新たな味。生きる喜びが寄港の度に全身を震わせる。船に委ねた数ヶ月の日々は人生終盤での特効の強壮となる。
 かつてのように海までの30分を歩くことがキツくなったベティは、もっぱら滑川中域を橋上から眺めるだけになっているが、独眼で水面を見つめる姿はとても穏やかだ。欄干下の装飾用にくり抜かれた穴が自分にはちょどいい高さであることを知ってから、毎日散歩の途中ここへ顔を差し入れしばらく座り込む。やがて上流から運ばれてきた大きな朴葉に首を傾げ少し間を置いた後、ベティは小さな唸り声を吐いた。


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