3月読んだ本

もう4月も中旬ですが、先月読んだ本を簡単に感想と共に記しておきます。気づくと哲学書ばかり読んでしまうので、来月はもう少し自然科学系の本を読みたいですね…。例の如く技術書は含みません。

教育格差

そろそろ子育てがはじまるため、こうした教育系の本が気になり始めるようになった。この本は二子玉川の書店で見つけた当時2位の売り上げを誇っていた一冊で、さすがは二子玉川、教育に関心のある親が多いのか…と思ったことを覚えている。

実は私たちは小学校に入学し、まず私立中学に行くかどうかで選別が行われる。仮に公立の中学に進学したとして、つぎは高校受験で選別が行われる。このあたりで「大学に進学できるかどうか」が大きく影響を受ける。大卒以上かそうでないかで大きく暮らしの豊かさが異なるのがこの国だ。別の本で「日本はちょっとずつ自分の限界を悟らせて諦めさせる社会」として紹介されていたが、まさにその「豊かになれるかどうか」の選別が段階的に行われる。

このなかに教育格差というのは厳然たる事実として日本社会に横たわっている。本書の統計を見る中でわかるのは、両親が大卒かそうでもないかでまずかなりの教育格差が生まれるということだ。そもそも大卒の家庭では、たとえば家庭内の会話の質が両親ともそうではない家庭と比較すると大きく異なる、と筆者は分析する。大学に行くという規範が染み込んだ子どもたちと、そうではない子どもたちとでは小学校、中学校と教育課程を経るうちにだんだん大きな差が生まれてしまう。

ちなみにここからの感想は、本書の主張からは少し外れてしまっているかもしれない。本書の確たる主張は「格差がないない言われていた1970年代から格差は確認できたし、教育格差には生まれた地域や親の意識みたいな問題が絡み合っている」といったところだろうか。

「勉強ができる」にはいろんなファクターがある。たとえば自己肯定感が関係したり、効率よく計画を立てて目標を達成する力が関係したり、はたまた自分にあった参考書を見つけるなどが考えられるだろう。これらの総合的な結果として「勉強ができる」のだ。こうした能力はその子の努力次第と思われがちだが、実はそうではない。家庭の社会経済状況(SES)が高いと、こうした情報にアクセスできる確率が高いことが多い。たとえば高 SES の家庭だと、そもそも親が介入できることが多い。会話の質も異なる。たとえば日々の意思決定の際、命令型ではなく子どもにも交渉の余地がある会話をとっている傾向にある(意図的養育、と呼ぶようだ)。

一方で低 SES の家庭だとこれがない(放任的養育、と呼ぶ)。したがって、多くのケースではこうしたベースとなる能力を培うことが難しいのだろう。こうした能力を効率よく獲得できるかは出会う先生かよほど優秀な友達と仲良くなるかなどの運的要素が強くなると考えられる。

私も実は低 SES の家庭出身であるため、少し思い当たるところがある。親は少なくとも勉強には介入してこなかったし、介入の仕方がわからなかったようだった。私は運良く塾(東京でいう SAPIX といったところか)に通わせてもらえていたので、その塾でかなり良質な情報を得られてなんとかなっていたタイプだ。また、周りの友だちにも恵まれた方だと思う。結果高校進学時点で仲の良かった友だちと進学校に進むことができたが、もしこれらがなかったら私は大学すら出ておらず高卒だっただろうと思う。

高 SES 家庭というのも思い当たる節がある。私は国立大学の文系に運良く進学でき、しかもそこが難関大学と世間的に呼ばれる場所だった。そこで出会った友人たちはいわゆる「育ちのいい」と感じる人たちだった。たとえば家での会話が話を聞いていると私の育った環境と既に違う…と感じることは多々あった。その後社会学の授業で「文化資本」「ハビトゥス」という言葉を習ったが、この文化資本が周りの友人たちと比べると少なく、ハビトゥスも大きく異なる家庭で私は育ったのだなあと思ったことを今でも思い出す。

最終的に好成績をとり難関大学に進学できるかどうかは、もちろんその子ひとりひとりの努力による面も大きいが、統計的に見れば両親が大卒かどうかや、そもそも高 SES な家庭で育つかどうかでほぼ勝負が決まってしまう面があるようだ。「勉強をがんばらなかったからそうなった」とは限らないのだ。そもそも生まれで決まってしまうのが、この社会の残酷な現実だったのである。

ただ、私自身がいい例かもしれないが、日本社会はそうした社会的階層の行き来は比較的しやすいようになっているのがまだ救いだと個人的には思う。どこかで目覚めて努力をしようともがき、努力の仕方を教えてくれる大人と中学校くらいまでのタイミングで出会うことができれば、その後本人の努力でかなり社会的階層を移動できる可能性が残されている。他の国ではそのようにはなっていない社会も多く、比較すると日本はまだ本人の努力次第で人生捨てたものではない社会なのではないか…と個人的には思う。

ソフトウェアエンジニアをしていると、多くの周りの同僚たちは大学以上卒で、世の中もそう構成されているし、そうなれなかったのは努力不足なのではないかと勘違いしてしまいがちだ。しかしそれは視野が狭い。そうした状況はゆるやかなこの社会における「選別」の結果であって、その選別を勝ち抜けたのは、そもそもどの親の元に生まれたか、進学した先の小学校が SES が高かったか、周りの友人の SES が高かったかなどのさまざまな「運の良さ」の上にある程度依存したものなのだ。このことを思い出させてくれるよい一冊だったように思う。

関連書籍として下記をあげておく。この本でとりあげられる問題をより深く考察する上でよいのではないかと思う本たち。

ところで教育関連の議論は「それは擬似相関では」のような議論も多い。子育てに関しても調べていると、正直「何を論拠に…」「擬似相関では…」「因果関係とは呼べないのでは…」といった結論を導いている記事も多い。というわけで親にとって大事なのは、これまでの人生で見聞きした物事や好きになれた友人や同僚に共通していた「ハビトゥス」をあらためて想起し、それを元によい人生を送るために大事なことを整理し、親自身が信念を築き上げることだと思う。このことを忘れてはいけないようにも思った。そして信念は家庭ごとに異なる。

スマホ時代の哲学

ここ数年の起きていることを哲学的な分析を踏まえて考えるとどうなるかという本だと思った。単純におもしろそうなトピックスがいくつか載っていそうだったので買っただけではある。この手の現代の状況分析を哲学的に行う書籍が好き。

大衆社会消費論から始まり、メタ哲学、最近私も興味があるネガティブケイパビリティの議論、新自由主義批判などが本書には含まれている。

たとえば SNS や最近では学校教育でも「自分の頭で考えよう」という話がされる。日本ではこれはつまり、「物事に対して意見を持とう」みたいな意味合いで使われることが多いだろうか。日本人は義務教育等を通じてよく「規律付け」られていて他人の顔色を伺いがちなので、なかなか自分の意見をもって物事を進めるのが苦手だという話がされるだろう。そしてビジネスのシーンでは、それがグローバルに出て行く際の足枷になっている、というような文脈に援用されることもある。

ここで重視されるのがアウトプットの重要性だ。SNS やブログ等に書いてとにかくアウトプットしようといった訓練が薦められることがある。何か事象があったときに、とりあえず自力で答えを出してみよう。アウトプットが大事だ!一見すると正しそうに見える。

だが、本当に自力で考えたことが価値のあることなのだろうか?何もインプットなしにアウトプットだけをするのに意味があるのだろうか?答えはノーである。というか、自力で考えようという思考を良質なインプットなしに突き進めた結果何が起きているかというと、陰謀論への傾倒である(と、本書からは読み取れる)。

自分の頭で考え、より鋭く価値のある意見を述べられるようになるためにはインプットが重要である。よく体系立てられたプロによる本を読み、筆者の想像力を吸収するのがアウトプットの質の向上のために重要だと本書では指摘している。

専門分野については的確な指摘をしているのに、ふと起こった時事問題について SNS で言及するとボロが出る人は結構いるが、それは単純にその時事問題の裏側に潜んでいるいくつかの前提となる知識が欠落しているため、言えても表層的かもしくは的外れなのだ。何にでもアウトプットするのが必ずしも正しい態度とは言えないのがわかるいい例かもしれない。

みたいな、ちょっとはっとさせられる話がたくさん書かれている。私も本書の内容は咀嚼中でまだ完全にまとめ切れるわけではないが、一旦印象に残ったものを書いておいた。哲学の入門書としてもおもしろいと思うので、そもそも哲学に入門したい人も読んでみるといいと思う。

開かれた社会とその敵

カール・ポパーの一番有名な本だろうか。学生時代の頃に、ゼミの課題本として教授が切り抜きでくれたものを輪読した記憶がある。元々の翻訳本自体は私が生まれる前に出版されたものらしく、そもそも2段組で上下巻という構成だった気がする。

新しく文庫として出たこの本は、すでに出版されているものとは底本が異なりドイツ語版のものである。ドイツ語版は、以前の英語版を出版後にさまざまな誤りなどを修正した最終版として出版されている。全4冊が刊行予定だ。

『開かれた社会とその敵』の全体的なテーマは、かなり簡単にまとめると「全体主義」への批判と「民主主義」の擁護だ。全体主義という言葉は書籍の中では主に「ヒストリシズム」として批判の対象になる。ヒストリシズムがなかなか馴染みのない言葉なので最初何かわかりにくかったが、改めて要旨を整理して何回か読み直すと、意外とすんなり読める。ヘーゲルやマルクスに関する概略と、哲学史上の彼ら(とくにヘーゲル)に対する批判の要旨を理解していれば問題なく理解できるはずだ。

第一巻の上巻は「プラトンの呪縛」というタイトルになっている。本書ではいくつかの歴史的な思想家が糾弾されるわけだが、この第一巻ではプラトンが徹底的に批判される。どう批判されるかというと、プラトンの政治思想の中に脈々と受け継がれる全体主義の萌芽が読み解かれ、批判されることになる。

プラトンは哲学では神聖視されがちだ。ホワイトヘッドは「哲学というのはプラトンの思想の注釈にすぎない」みたいなことを言っていたし、実質的な哲学の祖としてみなされる傾向にあると思う。こうした無意識の擁護は翻訳のときにもどうしても現れてしまい、日本語では「国家」として訳出されている作品が英語では「The Republic (共和国)」として訳出されている点などを、実際にポパーも指摘している(国家の方がより支配力が強そうに見えるが、共和国と訳すと少なくとも著者はリベラルの味方のように感じられる、などだ)。

「国家」に書かれている話は意外とエグいというか、たしかにポパーの読みによって改めて内容を吟味しているとそう読めてしまう側面がある。たとえば階級区分は厳格にするべきと考えていたようだ。そして支配階級と被支配階級が国の中にいることを容認する。支配階級内での対立があってはならないから、彼らの言論等の知的活動は検閲によって統制されなければならない。被支配階級の者たちは厳格な監視対象下に置かれることが想定されているなどだ。隣の赤い国でやっていそうな話がたくさん書かれているように見える。

ポパーはこの他にも、科学を成立させるために重要な要素となりうる反証可能性という概念や、近年はやりの陰謀論についても論じている節がある(らしい。大学のころ全部を読んだわけではないので読んだことがない)。このあたりは下巻や第二巻で論じられるだろうから、非常に楽しみだなと思っている。

しかし、この本が文庫になってしまったか…すごい時代だ…。

ツイッターで学ぶ「正義の教室」

タイトルに「正義」と入っているので、政治哲学的な観点から議論を進める本なのかなと思ったが違った。学術的な分析をしかけるのではなく、単に著者が現実の現象を著者なりの視点で整理し、世に議論を呼びかける本だった。社会学によくある感じ。

著者はツイッターでの言説を「こどもの正義」と「おとなの正義」として分類している。こどもの正義は「理屈としてはありうるけど、世の中では通用しない」議論が多い。また、ツイッターは140字という制約がある以上、どうしても裏側の文脈などは捨てられがちなのだがそのことに無自覚に自分の意見だけを述べ続けることをそう呼んでいるようだ。他にもいくつかある。で、おとなの正義を自覚してそれを使うようにしましょうね、みたいな話がずっと続く。

2章で正直読むのをやめてしまったのでこの後のことはあんまりわからないのだが、アプローチが浅いというか雑というか、そういう印象を受けた。ビジネス書や時事問題本として読むのが正しそう。学術的なアプローチを期待して読むのは間違い。

たとえば2章では「対話しましょうね」と言っている割には「マンスプレイニング」「ミソジニー」みたいなマジックワードを使う人間には近づくな!と対話拒否を主張している箇所もあり、それは単に対話相手を選んでしまっているだけで、本来実現したいであろう、立場も世代も収入もetcも異なる人々が一堂に介して議論できる場を放棄していはしないか?という感想が拭えなかった(もっとも、著者は「対話」という用語についてとくに定義をしていないので、この想定が間違っている可能性はある)。議論が成立しない相手をそもそも対話対象に選ぶなという話ではあるだろうが、それだと集まる人々の属性が限定され(たとえば若めの一流企業勤めの大卒以上とか)、エコーチェンバーするだけなように思う。それはそれで別の分断を生むだけで、問題の解決になっていない。

哲学側からの分析を読んでいても、現代の自由すぎる言論空間には「対話できる空間が必要」みたいな話は結構上がる。が、実際のところそもそもツイッターは「もはや主張が異なる人と対話する気がない」人たちの集まりみたいな状況になっており、対話拒否する人をそもそもどうやって対話の舞台に引っ張り上げてくるかの検討の方が重要そうに見える。というかツイッターは本来は今なにしてるかを書くだけのサービスだったはずで、何かを議論するサービスではないのだが…。よそでやれ、という話ではありそうに思う。


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