46才のババアに何が出来る?自立への挑戦!!〜私が沖縄市の街を立て直すとしたら?ファイナル撤回!~のぶさんの出発から学んだ事~ ㊳話
皆さまごきげんよう。
最近は用事の無い時以外は家に籠って書いたりしています。
書けないよりはまだ良いと思うのですが、籠ると外出することが面倒で。笑。
昨日はティラピスの帰り久々、あちこち繰り出してみました。
私の地元北谷町(ちゃたんちょう)
春休みで観光客が多く人通り多く良い感じです。
運転してたら
↓お兄さまたち!
楽しそうで、思わず声をかけてみました。
「すみません!写真撮って、あげて良い?」って。
OKもらいました。
「どこでレンタルするんですか?」って聞いたら。
「北谷か那覇でレンタル出来るよ!」って教えてもらいました。
そして本日の本題。
先日はワタクシ久々の夜遊びへ繰り出しました。
(相棒は私同様、音楽好きなワタクシの母です。)
場所はあのワタクシが立て直したい街!(ドンピシャで)あの街の一画。
私自身、歳の割には同世代の人たちよりも色々経験してきたと思っていましたが、勘違いも甚だしい。自惚れだっと。
私、全然まだまだ。
ひよこだったと、こちらのライブ↓に行ったことで。
痛感しました。
のぶさん音を調整して、本番。
吃驚。
おやじの趣味の延長じゃなくて、プロ。
素直に痺れた。
オヤジの声じゃない。
透き通る歌声。
(井上陽水さんに近い声だと(私は)思った。)
曲によっては
琉球調の音色だったり。
ハワイアンミュージック調に聞こえたり。
荒々しい曲は
長渕剛さんが歌うような、日本人馴染みの調…
ギター一本なのに一人で何役も演じているかのよう…
で、凄かったのが。
のぶさんのトーク。
のぶさんは作詞作曲をご自身でされている。
20代前後に作られた曲がほとんどだと言っていた。
だから歌詞がうちなーぐち(沖縄の方言)。
その当時の沖縄の時代背景がのぶさんの曲には表れていて。
(沖縄がアメリカの統治下にあった時代。)
そしてのぶさん自身の生い立ちを赤裸々に話された。
私自身も自身の生い立ちをこちらで語るのはもの凄くエネルギーのいる事だったから、のぶさんの話す一言一言がとても私の体と心に沁み入る。
心して聞かなければならない。
話は脱線しますが、
よく沖縄の大人たちは
沖縄の歴史を語る上で
唐の世(中国の世)から大和の世(日本の世)、大和の世(日本の世)からアメリカ世(アメリカの世)
という表現をしていて。
私は今、この記事を書くにあたって。
その言葉の語源を改めて検索。
すると
嘉手刈 林昌(かでかる りんしょう)、曲、「花口説」「時代の流れ」
沖縄民謡より生まれた言葉だと知りました。
時代の流れ
作詞 嘉手苅林昌 曲 「花口説」から
(以下、たるーの島唄まじめな研究より引用。)
一、唐の世から大和の世 大和の世からアメリカ世 ひるまさ変わたるこの沖縄
とーぬゆーからやまとぅぬゆー やまとぅぬゆーから [アメリカ]ゆー ひるまさかわたるくぬうちなー
too nu yuu kara yamatu nu yuu yamatu nu yuu kara [amerika]yuu hirumasa kawataru kunu 'uchinaa
○中国の(支配)世から大和の世、大和の世からアメリカ世 不思議に変わったこの沖縄
二、昔 銭の計算んや一貫二貫どさびたしが今や計算まで変わて
んかしぇーじんぬさんみんや 'いっくゎん にくゎんどぅ さびたしが なまや さんみん までぃかわてぃ
Nkashee jiN nu saNmiN ya 'ikkwaN nikwaN du sabitasiga nama ya saNmiN madi kawati
○昔お金の計算は一貫二貫としていましたが今は計算まで変わって
三、昔の那覇の行ち戻いん 歩つちる我たや行ちゃびたしが 今や居ちょて行ち戻い 昔の面影むるねらん
んかし ぬなーふぁぬ'いちむどぅいん'あっちるわったーや'いちゃびたしが なまや'いちょーてぃ'いちむどぅい んかしぬ'うむかじ むるねーらん
Nkashi nu naahwa nu 'ichimuduiN 'acchiru wattaa ya 'ichabitasiga nama ya 'uchooti 'ichimudui Nkashi nu 'umikaji muru neeraN
○昔の那覇は行き来(交通)も歩いて我々は行きましたが 今は居たまま(乗り物)で行き来して昔の面影はまったく無い
四、昔年老と若さしや着物の模様しど分かさびたる今や差し分ちきららん 親子 むるっ子 ちゆとんちゅ
んかし とぅしゅいとぅわかさすぃや ちんぬ 'あやっしどぅかわさびたる なまやさしわかちきらん 'うやっくわ むるっくわ ちゅとぅしんちゅ
Nkashi tushui tu wakasasi ya chiN nu 'ayassidu wakasabitaru nama ya sashiwakachikiraraN 'uyakkwa murukkwa chutushiNchu
○昔お年寄りと若いのは着物の模様だけでもって分別できましたが 今は区別できない 親子も皆子どもみたいに同い年の人
五、昔女のたしなみや、髪の長さしでえびたる 今や昔とうち変て 生いとる髪んうしちみやい パーマネントしけえちじゅらち まーん変わらん鳩の巣
んかしうぃなぐぬたしなみや からじぬ ながさっすぃ でーびたる なまや んかしとぅ'うちかわてぃ みーとぅーるからじん 'うしつぃみやい パーマネントっし けーつぃじらち まーんかわらん ほーとぅぬすぃー
Nkashi winagunu tashinamiya karajinu nagasassi deebitaru namaya Nkashi tu 'uchikawati miitooru karajiN 'ushi thimiyai パーマネントssi kee thijirachi maaN kawaraN hootu nu sii
○昔女のたしなみは髪の長さでしたが今は昔とすっかり変わって生えている髪もばっさり切ってパーマネントにしてちょっと縮らせて どこも変わらない鳩の巣とは
六、あど高靴小やけえくまい ウンブイコーブイ歩つちゆしや すつとん変わらん風吹ち鳥
'あどぅだかぐつぐわーやけーくまい 'うんぶいこーぶい 'あっちゅすぃや すっとぅんかわらん かじふちどぅい
'adudakagutsugwaa ya kee kumai 'uNbuikoobui 'accusi ya suttuN kawaraN kajihuchidui
○かかとの高い靴をちょっと履いてこっくりこっくりしながら歩いているのはすこしも変わらない ひょろひょろ鳥と
七、タイトスカートけえ着やい ちんしやとがらち尻まぐらち まーん変わらん七面鳥
タイトスカートけーちやい ちんしーやとぅがらち つぃびまぐらち まーんかわらんしちめんちょー
タイトスカートkee chiyai chiNsii ya tugarachi thibimagurachi maaN kawaraN sichimeNchoo
○タイトスカートをちょっと着て着物の裾を尖らせてお尻皺にして どこも変わらない七面鳥と
八、何時まで心や十七、八、眼の子の達の合点さん 自然とまぐりて行ちゃびんで
'いちまでぃくくるやじゅうしちはち みーぬっくわぬたーぬがってぃんさん しじんとぅまぐりてぃ'いちゃびーんでー
'ichimadi kukuru ya juushichihachi miinu kkwanu taa nu gattiNsaN sijiN tu maguriti 'ichabiiN dee
○何時まで心は十七、八 眼のある子たちが納得しない 自然とシワになっていくものですよね(着飾っても)
嘉手刈林昌さん
どういう方なのかを更に検索してみました。
Wikipediaより以下引用
嘉手苅 林昌(かでかる りんしょう、1920年7月4日 - 1999年10月9日)は、戦後沖縄県を代表する沖縄民謡の唄い手。沖縄県内で同世代からは「カデカルさん」、若い世代からは「おとう」と呼ばれ親しまれた。竹中労は彼の事を「島唄の神様」と称した。
そのまま林昌さんのエピソードを読み進めていくと。
軍隊では口下手と沖縄方言訛りが上官に厭われ、連日往復ビンタを食らっていた。捕虜収容所でも病に倒れ生命の危機に陥った。本人にとって大きなトラウマとなり「イクサやすしぇーあらんど(戦争はするものではないよ)」と後々まで語っていた。
沖縄方言訛りが上官に厭われ、連日往復ビンタ。
自身を否定されている事のよう。
嘉手刈さんの痛みがダイレクトに伝わって。
とても心が痛かった。
涙がこぼれて仕方なかった。
そして、
先輩方、先人あっての今の私、私たちなんだってより胸に、身に染みた。
46才のババアに何が出来る?自立への挑戦!!〜私が沖縄市の街を立て直すとしたら?ファイナル。~さぁ目覚めよ!沖縄県民の底力を発揮する時が来ましたよぉ!!~ ㊲話
私、最近↑書き上げて、得意気になっていました。
ドリフのコントじゃないけど。
たらいか何かを頭上に落とされたかのよう…
沖縄市の一番街周辺。
夜の世界は成り立っていて。
全てを一から造り直すことは傲慢だったと反省しました。
そして、その街がずっと見てきた沖縄の文化、
今の私や若者たちが知らない文化。
アメリカ世がまだその街には残っていて。
残さなければならない!と強く思った。
でも私は諦めてはいない!
あの街を再生するとしたら、コンセプトはヨーロッパの街。
でも、既存店と文化も残さなければいけない。
話合って、
皆で知恵を出し合って。
既存の街
と
新しい街
良い形で融合された街造りを模索出来たらと思いました。
沖縄の文化はちゃんぷるー文化と表現されるように、
(ちゃんぷるー文化とは様々な国の文化が交じり合い出来た沖縄独特の文化)
沖縄市の街再生は、新しい街造り一辺倒に拘る必要は無いことをのぶさんのライブと夜の沖縄市の街を見てとても学ばされました。
ゆかりは心から反省しています。
のぶさんのLIVEの話に戻ります。
のぶさんは若い頃、本土デビューの話があったそうで、何度か本土で歌う仕事をされたそう。
その当時一緒にステージに上がった人たちは今の音楽業界の大御所の方々。
(日本人であれば誰もが知っているであろう。そおそおたる顔ぶれ。)
けど、間に入った人が悪かった。
契約金がのぶさんに入る事は無かったそうでした。
以下、20才すぐ前ののぶさんが作られた歌。
BEGINの栄昇がカバーした時は、本当に嬉しかった!涙が出た
としみじみ言っていました。
山原や(やんばるや)
歌:BEGIN
作詞:仲地脩瑛
作曲:仲地脩瑛
山原や 山原や はるか故郷の名を呼べば
山原や 山原や 青い空が 目に浮かぶ
山原や 山原や 赤い瓦と きび畑
山原や 山原や 海のかおりの島便り
山原や いい所ま
山原や 山原や 父さん 母さん 元気かい
山原や 山原や あの娘も みんなも どうしてる
山原や 山原や エビ獲り 鮒つり 目白獲り
山原や 山原や めぐる想いの 古里よ
山原や いい所ま
のぶさんは歌を諦めました。
でも、去年お父様が亡くなり、慕っていた先輩も亡くなり、友人も亡くなり、自身の終活を考えるきっかけになったと言っていました。
そして好きなことをしよう!って!
だからそのライブはのぶさんにとって20年ぶりの特別なライブでした。
最後は歌い切れず終わってしまったけれど。
沖縄の人たちって、型に嵌らないところがあるから。
臨機応変に動く力に優れていると私は思う。
完璧で無くて良い。
終わり良ければ全てよしだけど、
過程が大切!
お客さん皆そう思ったのでは。
私は大満足以上でした。
帰りの車内。
母に感想を聞いたら、
「あ~っさ(日本語ではまぁ!英語ではWOW)最高だった!」って言っていて。
母はメロディーに乗ったうちなーぐちでも全然分かった!って。
言っていて。
逆に母から、
「ゆかり、あんたみみぐすいって言葉分かる?」
って問いかけられた。
私。
みみぐすい
って単語知らなくて。
母に聞くと、
みみぐすい
は直訳すると、耳のお薬。
耳の薬=ためになる話
私が見てきた私のおじー、おばーの世代。
今の前期、後期高齢者の方々は
集まると昔の話をしてくれる人たちが多く、
その話を通して私はよく学ばされている。
それは真にみみぐすい。
私は後20年もしたら高齢者になる。
若者たちに
先人たちのようにためになる話が出来るだろうか。
直ぐ言える。
「出来ない」
私は飽和化した時代になりつつある日本に生まれたから。
飽和状態になった今、
あることが当然。
と思っている人たちが多い世の中。
それは決して当然では無い。
先人たちが苦労して今の私たちに与えて下さっているもの。
若者たちよ。
自分達のルーツを知りなさい。
若者たちよ。
父、母、お年寄りを大切にしなさい。
若者たちよ。
誰よりも苦労しなさい。
若者たちよ。
自分の力で立ち上がりなさい。
若者たちよ。
誰よりも強くなりなさい。
若者たちよ。
一人ではない、助け合いなさい。
若者たちよ。
気付こうとしなさい。
46才のババアに何が出来る?自立への挑戦!!㊴話につづく
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