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運命とか偶然とかについて

 言い訳だとかに「こ、これは偶然なんだ!」とか、素晴らしい出会いやらひどい苦痛でもあったときに、「これはきっと運命なんだ。」なんていうことがあるが、じゃあ結局どっちなんだよ、ということについて考えて書く。

 我々は同時には三次元を二次元としてしか観測できないわけで。時間軸という一度に観測したり思い浮かべたりできないものを使うからしっちゃかめっちゃかになるから、次元を一つ減らして考えればばいい。

 頭の中に、何か一つものを浮かべる。ここでは豆腐にしよう。それを出鱈目に引いた平行な二面を用いて三つに切り取る。

 切る面と垂直に引いた線を時間軸だとして考える。真ん中の一つが現在近辺、両端の二つのうち片方が過去、もう片方が未来、というように考える。

 まず、両端の二つを取り除き、真ん中の一つだけを目の前におき、その豆腐のひとパーツから得られる情報だけで、そこから取り除いた残りの二つのことを完璧に想起出来るかについて考える。

 マァ、不可能だ。切り取られた先がどんな形をしているかなんて正確にはわからない。店でいつもその豆腐を買ってて、そこから形を覚えてるとかなら別だが、それはもともと答えを知っているだけで、別に真ん中の一つからわかったわけではない。

 では、目の前の豆腐の一片から、残りの二片のことが全くわからないかといえば、そういうことではない。『ある程度の推測』ならすることができる。断面から、残りの二つにも、この豆腐と大体同じ成分でできた同じ形の断面があるだろう。つまり、少なくとも一部は豆腐で出来ているだろう。角ばった面だし、眼前のの豆腐カクカクとした形だから、ほかの二つも低くない確率でカクカクとしているだろう、と言ったように。ただ、あくまで推論であって、確定事項とはならない。

 上記の推論から、運命も偶然も、究極的には無いのだと考えられる。運命ならば、残りのニ片の形がはっきりわかるはずだし、偶然ならば、全くわからないはずだ。

 ここで、元の豆腐に考えを戻すが、そもそも、豆腐はただ売られたままの形で存在していただけだった。そこに我々は切り込みを入れ、切り分けた。

 これを時の流れで考えると、そもそも四次元の世界があり、そこを切り取って、時間軸がなんだ、過去が未来が現在がなんだ、というように考えている、ということである。

 つまらない結論ではあるが、『ただそこにある』だけなものに、時間軸やらなんやらを組み込み、運命や偶然のレッテルを貼っているのだろう。もともとただあったものに、過去も未来も偶然も運命もクソも無い、ということなのだろう。

 偶然だ運命だ、というのは、我々が作り出した架空のものなのだと考える。言語学で、「もともとあったものに言語が当てられるわけではなく、言語を元に、その物を切り出して認識している。」という考え方があるらしい。運命や偶然は我々が必要に応じて作り出したのであろう。

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