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自分のパターンを知ることは、人生のハンドルを自分で握れるようになること

こんにちは!本橋へいすけです。
自分史を作るために人生をふりかえってみました。

今までも自分の人生はたくさん探究してきたつもりだったけど、今回3.8万文字で自分の人生をふりかえってみると、忘れていた記憶や気持ち、楽しい、嬉しい、悲しい、怒りなどの感情を思い出した。

また異なる年代を通底するような自分のパターンもいくつかあるなと気づいた。

キーワードをいくつか挙げると
・「好奇心」
・「不器用」からの「量やゾーン」でコトを成す
・自分なりの「義」
・「リセット衝動」
・自然が近いところが肌に合う
など

自分のパターンを知ることは
人生のハンドルを自分で握れるようになること


わりと大人しい幼少期

三兄弟の長男として1982年2月に生まれた。
東京都三鷹市で幼稚園までを過ごす。

父は住宅の営業をしているサラリーマン。
大手企業で働いていた母は僕が生まれた時は専業主婦になっていた。

父は仕事人間で帰りはいつも遅く、出勤の日は顔を見ることがなかった。休みの日、家で父を見ると知らない人がいる的な感じで泣き出すこともあったとか…w 営業成績は優秀だったようで業界では名がしれていると聞いた。

幼稚園時代の具体的な記憶はあまりないが、感情としてはすごく良い印象が残っている。
三鷹に住む友達や母の友達、みんな良い空気感だった。引っ越しが多かった我が家、母は折に触れて「三鷹が良かったなぁ、また住むなら井の頭公園の近くに住みたい」と言っている。

母の話によると幼稚園時代の僕は比較的大人しい子供だったとのこと。公園の遊具で遊んでいて、友達に割り込みをされて何も言えずに笑っているような子だった

光GENJIが流行っていたのもあってローラスケートにハマった。くるくる回れるくらいには滑れたので、大人になってからアイススケートに行った時、彼女にかっこつけられてよかった。

あまり記憶のない幼稚園だが今でも覚えているのは「プールってどれくらい深いだろう、、、たぶんすごく深いんだろう」と思いつつも、試してみたくなって足を踏み入れて案の定盛大に溺れたこと。
好奇心が発動するとダメってわかっているのに、痛い目に遭うのがわかっているのに、自分の体験としてインストールしないと気が済まない、そんな自分のコアな部分の原体験の最初の記憶。

左が僕、右が弟

自然のなかで育った小学生

新築の家を買ったこともあり小学生に上がると同時に、東京都内の八王子に引っ越しをした。
庭に栗が落ちてきて、初夏にはホタルが出て、夏には蛙の大合唱が鳴り響く、とても東京と思えないような超田舎だった。

母は田舎に来たことを愚痴ることもあったが、僕は自然に囲まれた土地で過ごすのは肌に合うなと子どもながらに感じていたのかもしれない。

山に秘密基地を作ったり、ゴルフ場に侵入してダンボールで作ったソリをしたり、サッカーをしたりとにかく、外や自然の中で遊んだ記憶を思い出す。

1番になれない自分

学校の勉強は入学当初は平均的な学力だったと思う。
進研ゼミを取ってから学力は上がっていった。毎回、課題をこなすのはギリギリ…というか課題をやらない僕だったが、母親が厳しかったのでギリギリでやり切るという感じだった。夏休みの宿題も最後の1日で仕上げるタイプ。

学校では授業のテストが終わると自由に外で遊んでよかったので、いつも1番最初に外に出ることを目指していた。だけど、どれだけがんばっても決まって終わるのは2〜5番くらい。この時、1番にはなれない自分…そんな自分を認めたくないけど、薄々感じていた。

何事もスタートはダメだが努力で登っていくタイプ

学校とは別にサッカーのクラブチームに入った。
もともとやったこともなく、センスもあるわけではないので下手くそだった…
母から大人になって「コーチがあなたを出そうとすると、まわりがなんでアイツ出すんだよってあからさまだったんだよ」と教えてもらった。

ただ通っていた小学校でドッジボールが流行っていたこともあって、キーパーをやらすと断トツでぼくが上手かった。そんな理由で最初の1、2年はキーパーとしてレギュラーを獲得した。

だんだんフィールドプレーヤーになりたくて、そこからは一通りサイドバック、センターバック、リベロ、ミッドフィールダー、トップ下、フォワードとポジションを経験した。毎日のように外で練習していたら、気づいたらレギュラーになっていた。目に見える課題や目標があると時間を問わずがんばるのは苦にならない、、、というか努力という感覚はあまりなく達成するまでやるという感じ。そしてチームの中心の一人にはなっていった。が、この時も1番うまい人は別にいたから2番手、3番手だった。

黄色のユニフォームが僕

いろいろなポジションをやったけどミッドフィルダーやフォワードと攻撃的なポジションが楽しかった。フォワードでゴールを決めるのは気持ちよかったけど、1番やってて楽しかったのはトップ下。鮮やかで美しいスルーパスを通してゴールのアシストをするのは、自分でゴールを決めるより1番気持ちよかった。美しさとゲームコントロールしている感がなんともたまらなかった。この頃好きな選手は全盛期のヴェルディのラモス。もう少し後になってもブラジルのレオナルド、ピクシーの愛称のストイコビッチなどファンタジスタと言われるような魅せる人のプレイが好きだった。この頃の夢はワールドカップに10番をつけて出ること。

基本は外でずっと遊んでいた記憶が多いが、家の中でのエピソードもいくつかある。

小学2年生からピアノもやり始めた。基本的に親は厳しかったし、甘やかされた記憶もないけど子どもが「やりたい」と言ったことなんでもやらせてもらっていた。当時は何とも思っていなかったけど、大人になって自分で稼ぐようになってからはありがたい気持ちになった。

やらせてはくれるけど、やめさせない、それが母のスタンス。ピアノは正直向いてなかったし、楽しくない思い出の方が多かったが4年は続けた。ただこの時に経験が音楽の授業や後々の音楽活動にも役立っている。何事も経験したことは、後々思わぬ形で役に立つ、資産になるなといろんなことを経て感じるところだ。

クラスメイトが突然死んだ

小学3年か4年の時にクラスに喘息の友達がいた。心くんという名前だった。心くんは喘息で入退院を繰り返してあまり学校にも来ていなかった。たまに学校を来てもそんなだから友達に暴力ふるったりで孤立していた。勉強も遅れていた。僕は特段好きでも嫌いでもなかったが、誰もフォローしなくて孤立しているのを、ほっとけなくて勉強を教えたりしていた

ある日の夜、学校の先生から家に電話がかかってきた。

母から聞かされたのは、心くんが入院先の病院で亡くなったこと。心くんの親から生前、家で心くんが僕に勉強を教えてもらっていたことを喜んでいたと聞いた。そういう経緯もあり弔辞を読んでほしいということだった。

小学生の僕はよくわからないままに弔辞の文章を書いて当日読んだ。死の意味もよくわかなかったので涙も出なかった。大人になるに連れて死の意味がわかってきて「もっと心くんにできたことあったかもしれない、もっと時間を一緒に過ごせばよかった」とじわじわと効いてきて、一人ベッドで涙が出ることもあった。

本を読むとまわりの音が聞こえない

小学4年の頃だったか「目指せ1万ページ」という本を読む企画が学校であった。もともと本を読むのは好きだったんだけど、目標があると達成したい!欲求が強いのか、ぐわーっと集中力を発揮するタイプなのか、夢中になってたくさんの本を読んだ。自分の世界に入るとどれだけまわりがうるさく騒いでもお構いなしで集中して読んでいた。自分でも自覚もある。

1万ページを達成し、2万ページへと記録を積み上げていった。教室の後ろに張り出された1万ページまでの登頂を1つずつ登っていくのは楽しかった。

中学の時に国語の全県模試で県で20位くらいになったことや、高校でやさぐれていたので学校の英語の成績は240人中220位だった僕が、高1の全国模試で英語で校内で1位になったこと、普段はまじめに勉強してるタイプじゃなくどちらも先生が疑いの目を向けるくらいの成績が出せたのは、小学生の頃にたくさん本を読んだ貯金のおかげでしかない。

勉強はしてなかったので単語や文法や基礎的なところは点数を大きく落としていて、長文読解のところで点数を稼いでいた。単語や文法がわからなくても文脈は流れを見ればわかるので、推測しながら文章多めに書いておけば結構点数をもらえるので、勉強しなくていいし簡単だなっていう感覚だった。

お調子ものへいすけ完成

左から妹、僕、弟

元々はちょっと控えっぽい性格だったようだけど、小学校の学年が進むにつれわかりやすい陽キャ、、、というかお調子もののへいすけが完成された。

学校行事でも一度カメラを構える人がいれば「イェイイェイイェ〜〜イ」と1番前までしゃしゃり出るタイプ。

黄色のアホな人

席替えは、気になる女の子の席の近くになることを強く願っていると不思議といい席になることが多かった。強く願ったことはわりとなんでも叶うなぁ…と子ども心ながらになんとなく感じていた

修学旅行も好きな子と同じ班だった。それにしても前に出過ぎ…


ニュータウンに引っ越しおもしろくなかった中学生

中1の初期なのでまだ小学生の名残がある

親が上司から引き抜かれて会社を転籍になった関係で、愛知県の小牧市に引っ越した。小牧は愛知県民にとって空港のイメージがあるかもしれないが、小牧っぽいイメージではなく、桃花台というニュータウンに引っ越した。

ニュータウンということもあって教育に精を出す親が多かった地域だったと思う。遊歩道が整備されていて暮らしやすそうな雰囲気の街並みとは反対に、伸び伸びとした田舎とは違った微妙な違和感を感じていたのかもしれない。
当時はそれなりに楽しんで過ごしていたけど、今思うと中学と高校はあんまり楽しくなかった

中学1年生で好きになった子に告白して初めて彼女ができた。だけど特に何もなく2週間でフラれる。

写真がのポーズがおかしい…

部活はもちろんサッカー部。
サッカーに明け暮れたわけだけど、練習では活躍するのに試合だと距離感や強度など結果が出せなく、なんとなく限界は感じていたと思う。

中二の時に部活が同じ友達と夜に走っていたのだけど、ある日休憩する公園のベンチで友達がおもむろにタバコを出して「吸う?」と聞かれた。

返事をする1秒くらいの間に僕の頭の中には「なんで?どうして?えっ?ショック…マジか…」といろんな感情が流れたが、ビビっていると思われたくなくて平然を装い「おぉ…」と答えた。

それが僕のは初めてのタバコだった。その後はたいして美味しいと思わないタバコをまわりの悪い連中が吸っていたという理由で一緒に吸っていた。たいして美味しくないタバコもだんだん美味しいと感じられるようになったり、ヤニクラ(タバコ吸って頭ちょっとフラフラになる)してタバコと一緒に大人の気分を味わっていた。

中学2年 スキー合宿では実行委員長をした 熱を出していたような記憶

中学3年生の時にクラスも同じになったことはないけど、一度ちょっとだけスキー合宿の自動販売機の前で話したことがバレー部の子をすごく好きになった。学校のアイドル的な子でもあった。サッカー部とバレー部の外コートが隣なこともあって、バレー部がいる時は人一倍声を出して、かっこいいプレーを見せようとしていた。

ずっと一方的な片思いかなと思っていかけど、ある日突然手紙を渡されて告白されて付き合うことになった。びっくりうれしだった!付き合ったけど、かわいすぎる彼女にずっと緊張が解けず、たわいもない話しかできなくてまともにしゃべれなかった。案の定フラれる。

その頃に友達の家に遊びに行った時にGREEN DAYのBasket Caseという曲をエレキギターで弾くのを見て超かっこいいと思って、貯めたお小遣いでエレキギターを買った。

中学3年生の卒業旅行

自分史を書くに当たって昔の文集や卒業アルバムを見てみた。中学生が1番写真が少ない。文集を見ると当時は何かおかしかったんだろうと思う

中2の文集には「ムカツク」が連呼されている。

中2の文集 これを文集に書くのはヤバいヤツだ…


中3の卒業アルバムは、まじめに書くことをせずブルハーツの歌詞が書いてある。

ブルーハーツの歌詞と気持ちが全く入ってない文章

自分に切なくなったが唯一の救いはどちらも「やさしい」という言葉が入っていたこと。「やさしい」は今やっている仕事である手帳のコンセプトにも入ってるキーになる言葉だ。

卒業アルバムには「何かカン違いしてる人」3位に入ってる。だいぶ痛いヤツだ……


やさぐれた高校生活と大恋愛と失恋

中学生で付き合っていた子と一緒に、自分の成績的にはチャレンジングな高校を目指していた。だけどフラれたことで目標がなくなってしまった。とりあえず全く勉強をしなくても入れるような成績も平均以下の高校を受験してとなりの犬山市まで通った。

サッカー部に入ろうとしたけど先生がムカついたので入るのは辞めた。代わりに、楽そうであまり行かなくてよさそうな弓道部、理科部とわたり歩くが結局部活に行くことはなく、毎日友達とたむろしていた。

当時の心はけっこう荒んでいたと思う。大人になってから妹に「あの頃のへいちゃんは話しかけられなかった」と言われた。

思えばいつも大人の理不尽さに対して、やり場のない怒りを感じていた

親にはだいたいのことはダメと言われ、僕がダメと言われたことは弟や妹は何の咎めもなく大丈夫だったり。いつも自分だけに厳しくて理不尽で、下には甘い。

先生も言っていることが矛盾している、自分の尺度でしか話さない。

常に自分の中で怒りを抱えていた。と同時に自分は愛されていない、愛を受けていない、当時はそんなことは思ってもいなかったが、心の奥には自分でも気づいていない愛の不足があったと今になって思う。

全て壊れてしまえばいいのに…

その頃と言えば、常にいろんなことやものが全て壊れてしまえばいいのにと思っていた。携帯に入っている電話帳を突発的に全部消す、そんなことも衝動的に何度かやった。全部リセットしたい…という感覚だった。

電話帳消した後は気持ちはスッキリするけど、2、3日経つとめっちゃ不便いなって友達に「ごめん、電話帳全部消しちゃったから教えて」といい回る….ということをやったのは1度や2度ではないと思う。

今でも積み上げてきたことを急に壊したくなったり、リセットしたい衝動は少なからずある。悪く出る時は注意しないといけないと思いつつ、積み上げてきたこと手放して、新しいチャレンジへ未練なくいける、そんな強みにもなったりしている。

高校2年生で、校則では禁止されていたけどバイトを始めた。お小遣いだけだと携帯代や遊ぶお金が足りなかったから。最初はうどん屋さんのキッチン。天ぷらやかつとじなどを作っていた。最初は全然できなくて怒られたけど、だんだん慣れていった。だけどこのバイトは数ヶ月で辞めた。

次は友達の紹介でファミレスのキッチンに。
初日は休日の1番忙しい時間がシフトだった。皿洗いに入ったものの、要領悪すぎて皿置き場に皿が置けなくて、床にまで皿がたくさん置かれるカオスな状況になった。

ホールの人のうんざりした顔にメンタルがやられそうになりながら、「もう無理….」と何度も心でつぶやきながら初日が終わった。

最初はめちゃくちゃ要領は悪いが、辞めないので仕事が慣れてくると早くやるコツを覚えて、余裕が出ると自分なりに工夫をするようになり仕事ができる方に入ってくる

皿洗いは超早くできるようになった。その後はドリンクコーナーに昇格。しかしソフトクリームをクルクル巻けなくて幾度となくダメにしてしまった。
「ソフトクリームの難」を無事にクリアしてドリンクコーナーもマスター!その後は和食、洋食とキッチンの中は全部できるようになった。この時の経験で料理は冷蔵庫にあるものでだいたいできるようになったのでよかった。


シンデレラは帰らない

バイト先では、1つ学年が下の加藤あい似の女の子が入ってきて恋に落ちた。バイトに行くのがすごく楽しかったし、無事に付き合うことにもなった。

大恋愛だった。毎日電話を数時間くらいはしていたし、手紙のやり取りもしていた。人生で初めて人に愛されたと感じた人だった。
僕は家が厳しく高校生なのに門限が19時だった。学校も違う彼女とバイト中やその後のちょっと会うくらいでは全然足りなかった。そこで考えたのは両親が寝静まった頃に家を抜け出して深夜に会うという作戦だった。

シンデレラが帰る時間が僕らにとっては始まりの時間。

深夜にこっそり家を抜け出し、となりの市に住む彼女の家の近くまで会いたい気持ちと共にダッシュで自転車を漕いで山を越えて30分かけて会いにいった。誰もいない夜の小学校の遊具の山の上でふたりで手を繋いだり、抱き合ったりして、星を眺めて寝そべって朝の5時くらいにあたりが明るくなる頃に家に戻るという日々が続いた。

何時間ふたりで会っても僕にとっては時間が足りなかった。それくらい好きだった。

当然、学校では眠くて授業中はずっと寝ていた。そんな生活だからちょいちょい微熱も出ることをいいことに保健室で寝ることもしばしば。成長期にこの生活は良くなかったなと思う。

人生の中で愛されたという自己認知が今までなかったので(事実はそうでないにしろ)、付き合っているのに何度も愛を確認してしまった。僕の気持ちの方が重くなったからだと思うが、その後彼女にはフラれた。その後いくつかの恋愛をするがあまりハマらず僕から振るということが続いた。何年もひきづったなぁと思う。

中学の時に始めたギター。この頃は流行っていたGRAYなどのJPOPを弾くのと別に、エリッククラプトンやB.B KINGなどブルース系のミュージシャンにハマっていった。

停学を機に高3の11月から受験勉強ガチモードへ

高校3年生でずっとギリギリで交わしてきたタバコの現場を先生に見つかってしまい停学になる。11月ごろだったかな。タバコは辞めなかったけど、親に悪かったなと思い、心を入れ替えてここから受験勉強を本格的に始める。

大学はとにかく親から離れて家を出たい気持ちと、ジュディマリのKYOTOという曲がすごく好きなのと、関西弁の女の子と付き合いたいという気持ちで京都の大学を志望する。自分の学力でがんばったら行けそうなのは龍谷大学と京都産業大学。

オープンキャンパスで見て、自然の中にあるということ、いろんな学部が1つのキャンパスに集まっていておもしろそうだな、加茂川の近くに住みたいなと思って京都産業大学を目指す。

不貞腐れた学校生活を送っていたため、11月から日本史を縄文時代からやり直すというなかなかな馬鹿げたスケジュールだったけど迷いはなかった。絶対に受かると決めていたから。学校の休み時間も友達とつるむのやめてひたすら勉強をした。まわりの声や友達関係は一切気にならなかった

受験の前日に漫画喫茶に行って「るろうに剣心」を読んだ。そしたら受験当日の日本史の試験で「るろうに剣心」を読んでいないと絶対に答えられなかった問題があった。京都産業大学は絶対に行きたかったので3回受けた。受かったのはそのうちの1つ。

僕の点数は最低合格点よりわずか1点だった……るろ剣ありがとう!

無事に合格し卒業旅行で沖縄へ


勉強はしなかったけど楽しい思い出しかない大学生活

ローラブレードサークルのみんなと 手前センターが僕

大学時代はとにかく楽しい記憶ばかり、人生で1番自由な時間を謳歌した。
写真を見ても高校時代に比べて表情が柔らかくなったなぁと思う。

晴れて念願の京都、初めての一人暮らし。家はもちろん加茂川の近く。高校までのバイトのおかげで自炊には苦労しなかった。毎週火曜の16時からセールで安くなるスーパーと、やりくり上手な主婦のように自炊分の食費は1週間1000円で乗り切れた。

大学は軽音部に入ろうと思ったが当時はノリのいいロックであるメロコア全盛期。ダボっとした服に歪んだギターで縦ノリのメロコア系をやる人がほとんどだった。僕はというと、いかにも女子にモテなさそうな渋いブルースに傾倒していた。同年代でそんな音楽に興味ある部員は一人もいなくて軽音部に入るのは辞めた。

変わりに新歓コンパの飲み会で先輩が圧倒的に1番おもしろかったローラブレードサークルに入ることにした。3回生の幹部メンバーが企画して毎週土曜日に集まって遊ぶというサークル。

サークルのクリスマスパーティー

下宿組は頻繁に飲みにも誘ってもらえて楽しかった。当時は一気飲みも激しかったが酒が強い方でよかった。朝まで飲み会やカラオケをする日々だったので学校の授業の記憶は正直はほとんどなく…大学の学食のチキン南蛮定食を食べて、広場でしゃべって帰るという日々だった。

通ったのは経営学部。今こうして自分で会社を経営するようになって、ちゃんと授業聞いておけばよかったと思う。とにかく1年生から幹部が終わる3回生まではサークル漬けの毎日だった。今思うとただ遊んでいるだけで何も残らないがただただ楽しかった記憶がある。

日本酒にハマる

家から徒歩30秒くらいのところに全国の銘酒を揃えたうどん屋さんがあった。毎週金曜日になると地酒半額デーになった。日本酒はもともと好きではあったが、この時に本当においしい日本酒を知ることになる。半額デーに合わせて、普通だったら一杯1000円、2000円するような十四代、醸し人九平次、黒龍などの日本酒を初めて飲んで「これが本当の日本酒なのか!」と感動した。そんなお店なので客層も高く、金髪の大学生は僕たちだけで大将に珍しがってもらえてたくさん勉強させてもらった。

おいしいものとお酒はすごく好きで、大学生でお金がないくせに、みんなが行くようなチェーン店には一切いかなかった。と、住んだまわりにある飲み屋は全部制覇するのはこの頃から始まった。

人生で数少ない後悔していること

サークル以外では大学1年生の夏休み本格的にギターにのめり込む。当時付き合っていた2つ上の彼女から「シカゴブルース」という教則ビデオを買ってもらってブルースギターを弾くことに本格的にハマった。

最初は簡単なブルースのお決まりのフレーズも全然弾けなくて悔しかったけど夏休み中、毎日寝る時間と食事以外はほとんどずっとギターを練習をしていた
夏休みが終わる頃には軽音部の友達の反応が変わるくらいには上達していて、2回生の頃には数少ないブルース好きな友達にバンドを誘われ軽音部にも入ることになる。

本当はギターも習いに行きたかったけど、当時はサークルの副部長。自分がギターを習うことでサークルが回らなくなると懸念してサークル運営を1年やりきって幹部を卒業してからギターを習いに行き始めた。

人生で時計の針が戻れば…と思うことはほとんどないけど、数少ない後悔はこの1年だ。若くて吸収が早いあの頃、あと1年早く習いに行っていたらだいぶ変わったと思うし、両立もやろうと思えばできたなぁと…当時は自分がいないとまわらない、そんな思いで1番やりたかったことを後回しにしてしまった

後悔もあったが、幹部が終わってジャズギターの先生に習いに行ってやはり上達した。ジャズギターの先生に師事した理由は2つある。1つはブルースの1音に魂を込めたシンプルな音使いは魅力的ではあるが、マンネリ気味でもあった。ジャズギターをマスターしたいわけではないけどジャズフレーズは弾けるようになりたかった。もう1つはオリジナルのバンドではポップスなんだけどオシャレコードを使ったような今でいうofficial髭男爵みたいな音楽がやりかったので、ジャズ系のギターコードや音楽理論を学びたかった。

また京都は日本のブルースの聖地とも言われていて、日本のブルースギタリストのレジェンドである塩次伸二さんを生で見れたりもした。最初にその音色を聴いた時は、「ギターが歌っている」と自然と涙が頬を伝った。

気難しいおじさんたちが集うブルースバーのセッションにも勇気を振り絞って行ったりもした。最初は全然弾けないし、知っている人が誰もいないし、ディープな音楽好きが集まる独特の雰囲気もあって、行く前は毎回胃がきゅるきゅるとなっていた。心折れそうになりながらも何度も行っていると気難しい人たちもやさしく話かけてくれるようになった。

四季を感じる京都が好きだった

京都に住んでよかったことのもう1つは四季を感じることだった。

春には加茂川沿いの桜並木がキレイだった。

京都の暑い夏も毎年、大文字焼きが終わると不思議とその翌日くらいから夜が涼しくなって秋の訪れを少しずつ感じるようになる。

秋には紅葉スポットがたくさんある。

冬はたまに雪が降る。京都市の中心で雨が降っていても、北部に入る今出川を越えたあたりで雪へと変わる…山下達郎のクリスマスイブの歌詞みたいな京都の北区だった。

秒で終わった就活

人生で最大の自由を謳歌した僕にも就職活動がやってくる。就職活動するに当たって僕の中には2つの社会人像があった。

1つはサークルの先輩。大学時代にあんなにキラキラしていた先輩たちは就職をすると輝きを失っていった。仕事もあまり楽しくなさそうだったし、仕事を辞めた人も何人かいた。

もう1つは父だ。父親とは20歳を機に、父が出張で京都へ来る時に酒を一緒に飲むようになった。酒が入った父は決まって「仕事なんてゲームみたいなもんだ。ゲームよりおもしろいリアルRPGだ」みたいなことをキラキラしながら話す顔が印象的だった。

仕事がおもしろくない人と仕事がおもしろい人、2つの像が僕の中で交差していた。

そして迎えた就活。
金髪だった髪を黒く染めてスーツを着ていくつかの会社説明会なるものに出てみた。そこである企業の担当のおじさんが「夢を見るなんてバカだ、無駄だ」的なことを上から目線で話をしていて無性に腹が立った。こんな大人に絶対なりたくない。自分のやりたいことをやって後悔のない人生を生きようと思って、その日限りで僕は就活を辞めた

音楽をやろう

「あの時、音楽をやっていれば…」と大人になって酒を飲みながら愚痴るような大人にはなりたくはなかった。

当時組んでいたバンドのボーカルは全力就活をしていたけど、口説いて一緒に音楽の道へ進むことにした。

音楽をするなら東京だ。

留年したバンドのボーカルを半年待ってふたりで上京した。

ギタリストと新卒フリーター

上京して最初にやったバイトはパチンコ屋。大学の最後にやっていた時給も良かったから。この店が超絶忙しくて、仕事が終わったらへとへと過ぎて帰って何もできない。もう1つ懸念が腰を痛めそうで音楽活動に影響が出そうなのですぐに辞めた。

変わりに探したのは、シフトの融通が効く、座り仕事で疲れないという理由でコールセンターに絞った。コールセンターはめちゃ大変だよと色んな人に脅された。相当覚悟していた分、入ってみたら意外とそこまでキツくなかった。

それより知的好奇心が満たされて最初の1、2年はかなりおもしろく仕事にのめり込んだ。仕事は保険会社のコールセンターで電話で保険の契約まで獲る。

未知の保険を学ぶことは人生に役立つからとてもおもしろかった。保険は汚いイメージを持っていたが、学ぶうちにそのイメージはすっかりなくなった。がん保険で有名な会社だったのでがんにもだいぶ詳しくなった。がん研修のビデオはいつも涙が止まらない。

知識が増えていくのも楽しかったし、初めての営業も楽しかった。父が大学の時に話をしていたようにまさにゲームをクリアしていくようで楽しかった
最初はお客さまの年代によって得意、不得意があったが攻略方法を研究してどの層でも契約が安定して獲れるように攻略していく過程が楽しかった
顔が似ているからというだけで優秀な管理者のチームに配属されみっちり教えてもらって、僕もトップオペレーターへの階段を駆け上がっていった。1番良い時で100人以上いるオペレーターの中で3位までになった。ただめちゃめちゃ自分を追い込んで全力でやっても1番は獲れなかった

初めは楽しかったコールセンターの仕事ではあったが、1番やりたいのは音楽だったので営業の攻略方法がわかると飽きてしまった。電話の仕事なのに全然電話をしない、当日欠勤もするという不良オペレーターへ成り下がってしまう。勤務態度は最悪だったけど、教えるのは好きで得意だったので新人さんにはいろいろアドバイスをしたり、たまに本当にがんばっている管理者のチームになったときはいつも庇ってくれている恩返しとしてがっつり数字を上げる時がたまにあった。

あと音楽をやっていてマジでお金がなかったけど、突然急に海外に行きたくなった。一度思うと気持ちはもう止められない。バイトで成績を出すと報奨金があったので、先にツアーを予約して退路を絶って、2ヶ月ガチで数字を出して報奨金で10万貯めてシンガポールとインドネシアのビンタン島に行った。自分のお金で行った初めての海外。

シンガポールの街角でシンハービール


東京ということもあって、バイト先にはミュージシャンや役者の卵が結構たくさんいた。そのつながりやバンドメンバー募集の紙や掲示板を見て連絡を取ったりして、徐々に東京での音楽のつながりも広がっていった。バイト先のジャズドラマーの紹介でギターを習いにいくようになる。京都で習った人とは全く違うタイプのジャズギタリストで、僕とは正反対のリズムに強いタイプだったのでとても勉強になった。

ブルースをルーツとした僕のギターは技巧派ではないけど1音の存在感があったり、歌の合間をアドリブで合わせるのが得意だった。そういう存在感のあるギターが好きな人から個人として少しずつギターのお仕事をいただけるようになった。

中でも社会風刺お笑いコント集団ニュースペーパーと一緒に行う演奏のお仕事は人生で初めてお笑い芸人さんたちの生き様や楽屋裏は知らない世界を見れたりで楽しかった。僕はお笑いの音楽ではなく、ニュースペーパーの中でシンガーソングライターがいたのでその方のバックミュージシャンとして演奏をしていた。そのシンガーは後にNHKの歌のお兄さんとして活躍することになる。

人と人の繋がりからギターのお仕事をいただくこともあって、若いうちに人と人の繋がりの大切さを体感できたのは良かったなと思う。毎週スタジオに入って、その後毎回のように日本酒の美味しい居酒屋と夜中まで開いている和民をハシゴして終電を超えて朝に帰るなんてことはしょっちゅうだった。

自分のバンドはというと最初ふたりだったが鍵盤、ベース、ドラムとバンドメンバーが揃っていき脳内でイメージしていた音がようやく奏でられるようになっていった。

当時のバンドメンバー

毎月1〜3回都内のライブハウスでライブをやっていた。少しずつだがついてきたファンの人とはMixiで交流をしていた。

いつもお金はなかったけど日々は充実をしていた。
一方でこのまま活動をしていてもメジャーデビューして売れる…というイメージがなかなか持てない自分もいた。

そんな折に元バイト先の同僚から
「へいちゃん、ボランティアとか興味ない?」というメールをもらった。

自閉症やダウン症の人がいる施設で働いていている人だった。年に1回みんなで旅行に行くけど付き添いの職員が足りないからついてほしいということだった。ちょうどボランティアに興味もあったのでふたつ返事で「行きます!」と返事をしてバンドのドラムを叩いてるのっちと一緒に行った。

この経験が僕の人生の大きな転換期となった

大型バスで高速道路を移動する行きの道。
みんなでカラオケ大会になった。

いろんな歌が流れたが、マイクから出る音は「う〜」とか「え〜」とかメロディにはならない声が響いていた。歌にはなっていないが、歌う人みんなの顔がすごくいい顔をして歌っていて、キラキラ眩しかった。

夜寝る時は僕の部屋に7〜8人の部屋に監督者はぼく一人。夜はずっと彼らは起きているようでガサゴソ動いていました。もしもここで命に関わることが何かあったらどうしよう…..そう思うと全然寝れなかった。

そんな彼らを見て僕は自分がやっている音楽はなんだろう…と白けてしまった。僕がやっている音楽は特に不自由なく暮らしている人が仕事終わりにお酒を飲みながら聴くような娯楽としての音楽。

もっと人の生活に密着したことを仕事をしたい!

そう感じるとスパッと気持ちも切り替わり、バンドメンバーへ自分の気持ちを話し、バンドも休止することになった。解散ではなく休止になったのはまた違った形で一緒に音楽をやりたくなったらその時はやればいいね!となったから。

バンドの話がまとまると、ファイナンシャルプランナーの資格を取って人生の伴走をしていきたいなと思い、毎日勉強をすることになった。

周回遅れで始まった就職への道

個人で新たな道に向けて進んでいたら、バイトしている保険会社のコールセンターの管理者の人から声をかけられた。

「管理者やってみない?来月から!というか決まってるからw」と言われ管理者をやることになった。

急遽スーパーバイザー(SV)として10人ほどのチームの管理者になったのだ。

僕がSVになるには推薦者以外の他の管理者全員が反対したということを後から聞いた。

当時の僕はといえば、コールセンターなのに電話もしない、当日欠勤はするなど勤務態度が最悪だったから。他の管理者が全力で阻止しようしたことも当たり前。

ただ、推薦した人が「あいつは力はあるし、教えるのも上手いと思うし、よく教えているのも見る、だから向いてると思う」と押し切ってくれたと聞いた。

やれると思った管理者、初月は手痛い失敗

不良オペレーターだったので、まわりからの白い目はあるなと感じつつもやるからには絶対やってやると決めていた。その日から僕の勤務態度は180度変わった。やれると自信もあった。

しかし、SVになった初月僕は目標に対して95%という未達で終わった。全力を出し切って未達になって悔しさが拭いきれなかった。

僕は落ちぶれていたものの営業力には自信があった。だからこそ「オレのやり方」を押し付けてしまっていた。素直な人はその通りにやってくれたけど、当時の僕は20代中盤。年上の部下の人もたくさんいて、急にSVになって生意気に頭ごなしに言う奴の指示なんて聞くわけがない。

チームビルディングはうまくいかず、月の後半このままだと数字が未達になるという時点で僕は自ら電話をしまくった。プレイヤーになったわけだ。もちろん数字は獲れたがチーム全体の予算を一人で達成するには力及ぼず目標に対して95%の未達に終わった。

この時の反省を生かして、僕は経営、マネジメントやコーチングの本を漁るように読み出した。松下幸之助さんの本、デールカーネギーの「人を動かす」など。本を読んでいくうちに自分がやっていたことがいかに間違っていたことがわかった。

そして僕はチームマネジメントのやり方を変えて、次の月からはどんなに数字が危なくても「絶対に自分で営業はしない」と誓った。自分が電話する時間はゼロにしてチームメンバーのために時間を使う。それでなければ意味がないから。

そして次の月からチームは生まれ変わり連続達成が始まった
その後、アルバイトから契約社員、正社員となり福岡に転勤するまでに1回も数字を落とすことなく目標を達成し続けた。


もう1つ他のチームだと問題児と言われるような管理者が扱えない人が僕のチームに来るようになった。別に問題があるわけではなく、個性があるだけ。彼らは上から頭ごなしで従うのが嫌なだけで腹を割って話すとみんないい人だし可能性もあった。僕のチームでそういう人が再生されていくので、同じようなタイプの人が次から次へとどんどん来るようになった。予算は同じだったのでまぁまぁ大変だったが楽しかった。

会社史上初!月の途中で異動で大混乱

ある日会社でも前代未聞の月の途中で異動という辞令が下った。しかもSVの僕だけではなくチームごと異動。調子の良い新規営業部から組織が崩壊している既契約営業部への異動だった。

自分は最悪良いとして、時給で働くオペレーターの人にとっては昇給や報奨金などがゼロカウントになってしまうので納得できることではなかった。チームメンバーの一人で、元々は不良オペレーターと言われて僕のチームにやってきたメンバーは、その月初めてトップオペレーター入りできる調子で数字を積み上げていた。

僕はみんなを会議室に集めて頭を下げた。

みんなのがんばりが痛いほど感じていただけに僕も胸が痛かった。
同時にチームごと異動で、誰ひとり新しい部署の仕事がわからない中で今後チームメンバーを苦労させてしまうこともわかっていた。

僕はみんなの前で言った。
「1ヶ月だけ時間をください。僕が情報を集めて、勉強をしてなんとかするし、みんなを絶対守るから。他の管理者にも頭を下げてみんなのことフォローしてもらうから。このチームは新しい部署で台風の目になる。だから嫌な思いはするかもしれないけど、1ヶ月だけは耐えてほしい。」と。

オペレーターのみんなはアルバイトで会社に思い入れがあるわけではないのに、最終的に気持ちを切り替えてがんばってくれると約束してくれた。感謝しかない。

そしてわけわからなく始まった新しい部署で、最初はまわりからやや白い目で見られながらも僕らのチームは台風の目になって、部署全体の雰囲気を変えていった。

こちらの部署でも次の異動までは数字を落とすことなく、ずっと達成し続けた。

そして僕は正社員登用となった。
同時に福岡転勤の辞令が出た。

新規のコールセンターの立ち上げだ。

赴任の前にもらった寄せ書き


福岡で鼻を2回へし折られた

管理者になって初月の数字を落とした以外は全て達成、同じSVの中では1番良い数字をずっと出し続けていたこともあり僕は自信に満ちあふれていた。

今まで培ったやり方で福岡の仕事もバッチリだ。そう思っていた。
が、現実は違った。

東京と同じやり方でやっていたらチームが崩壊しかけたのだ。

「本橋さん、全然かまってくれない」
「フォローが少ない」
という声がたくさん上がった。


土地が変われば人も変わる。

比較的ドライな関係性を好む東京の人と違って、福岡の人はウェットな関係性を望む人がほとんどだった。チームの飲み会でも家庭のあるおばちゃんたちから率先して「本橋さん二次会いきましょ〜!」というノリ。

チームメンバー全員と交換日記が始まる

関係性の築き方を見直しつつも、福岡の立ち上げではチームメンバーは20人にもなり、分単位で動くコールセンターで全員のフォローを細やかにするのは現実的に不可能だった。


そこで僕はオペレーター全員と交換日記を始めた。

就業中に時間が取れない分、今の気持ちや困っていることや悩みごとをノートに書いてもらって僕から返事を書いて、翌朝出勤したらノートが机の上に置いてあるようにした。

仕事の営業の悩みから、メンタルの悩みまでノートにはいろいろなことが書かれていた。僕自身も就業中に全部書き終わることできず、仕事後に同僚と飲みに行った時は決まって最初の30〜1時間くらい飲みながら交換日記の返事を書いていた。酔っ払ってくると字がアーティスティックになって読めなくなるのだが、翌朝オペレーターの人がみんなで楽しそうに解読しあっている姿も懐かしい。

毎日交換日記をするのは大変だったが、みんなの気持ちを知れるし、チームも良い雰囲気になって、数字も達成するしやりがいもあった。

半目…

この頃、もう1つ会社でやったことがある。

基本、布陣を組むのはセンター長の仕事で、絶対領域的な感じで下の人が口出しはできない感じだった。

オペレーターは資料送付の係と営業の係がいる。最初は資料送付から始まる。数字を作るのは営業。営業になるのは営業力やコミュニケーション力があったり、営業経験者などいかにも営業向きの人が昇格していった。

ただ管理者として感じることがあってある日センター長に「あの人、営業にしてくれませんか?」と伝えた。今までの会社では営業には上がらないタイプの人で営業未経験のおばちゃんだった。

ただ僕は素直な姿勢の人だったので未経験でも、育てればトッププレイヤーになるんじゃないか?と思っていた。

翌月、その人は営業になってぼくのチームへ配属となった。
そして彼女はトッププレイヤーとなった。

以降、即戦力になる人は他の管理者のチームへ配属になり、僕のチームには未経験の人ばかりが来た。大変だったがチームはいつもトップ争いをする数字を出していた。

2回目の鼻をへし折られる

そんな時に福岡に営業力のあるとして有名な他社でコールセンターの統括をしていた人がアルバイトとして入社した。彼は超異例の飛び級でいきなり課長になった。昨日まで敬語を使っていた彼は課長になったのと同時にまわりにタメ口になり激詰めする管理者となった。

悔しい気持ちもあったが正直、力はある人だった。

自分はSVになってからずっと達成し続けている。
正直ひとつ上のマネージャーやもう1つ上の他の課長よりも自分の方が数字を出せるという自信もあった。

しかし彼には100%自分の力が及ぼないことはすぐにわかった。レベルが違ったのだ。

夕方から始まる会議は日付が変わるまでみんなガン詰めされたり、すべての事柄について数字の根拠を持って話さないと会議が終わらない、話も終わらないので、すごく大変だったとけどすごくおもしろかった!あぁ…これで僕は次のレベルに行けると……

この時は朝、6時、7時くらいに出社してデータ整理や分析をして、仕事が始まるまでにその日絶対数字が出るような準備をして、終わったら日付が変わるくらいまでまたデータ整理などをして次の日に数字が上がる準備をする…とはたから見たらものすごくハードに働いていたけど、自ら進んでやっているのですごく楽しかった。

完璧に数字と体制を整えて、準備をして結果を出すというのが楽しかった。作品を作ってる感覚に近い。自分の描いた通りにチームを動かして結果を出すゲームだった。

働く時間が長いのが良いことではないけど、拠点で圧倒的に1番仕事をしていた自負はある。自分の能力は特に秀でてるわけじゃないけど誰よりも仕事はしていた。

でもって仕事が終わってクタクタになって、その後毎日飲みに行くみたいな生活だった。

比較的、感覚とコミュニケーションでチームの数字を達成をしてきた僕。この時、数字管理を徹底的に叩き込まれた。そのおかげで僕は会社では数字に強い人と言われるまでになった。両方のバランスができたことは今にも通じていて感謝の気持ちでいっぱいだ。

福岡では将来結婚する女性と出会った。
大阪に結婚を前提に連れていくことになった。

大阪異動で初の間接部門へ

福岡勤務が1年11ヶ月となって大阪異動の辞令が出た。
大阪のコールセンターは少し前に立ち上がったばかりだ。

今回僕は営業から外れ、間接部門である営業教育部に配属となった。

営業教育と言っても、営業教育部で営業のことはなく、やっていることは実質コンプライアンス部門だった。そして営業教育部門で、営業一線でやっていた人はいない。

ゆえに大阪に限らず全国のコールセンターでは営業と営業教育部の仲はすこぶる悪い。

営業で大阪も立ち上げに行くのかと思ったから営業教育と聞いて拍子抜けした。攻めるのは得意だけど守りは苦手、事務系の仕事も全くダメ、どっちかというとガサツな自分にコンプライアンス中心の営業教育は適正は全くない。

と思ったが通常業務をしつつ、大阪のコールセンターがうまく立ち上がるように攻めの部分も考え、営業教育部に流れているのっぺりとした空気も変えてやろうと思っていた。

福岡の失敗を踏まえ現場を知ることから始める

まずやったのは営業教育部…ではなく大阪の営業の現場の人と、とにかくコミュニケーションを取った。数字を作っているのは彼らだし、福岡赴任直後の失敗もあるので大阪という土地での仕事におけるポイントや人の特性をしっかりインストールしようと思った。

大阪はやはりラテン系のノリのなかでイケイケドンドンは得意だけどコンプライアンスもゆるゆるなのが他の拠点との違いだった。守りもやりながら、コールセンター全体のオペレーターの営業力向上、配属前の教育カリキュラムなどを営業部と協力して一から作っていった。

時にぶつかることもあったが、福岡時代に一緒に仕事をした人が一人いたのでコミュニケーションはうまくいった。

営業と違い自分では数字は作らないけど、間接的に大阪の数字と基盤を作って組織を動かすことが初めてで楽しかった。自分で数字を作れない分、イケイケドンドンではなく、根回しということを覚えた。

そうしていく中で、大阪のコールセンターは全国でも初となる営業と営業教育が一丸となってやっていると噂になり、大阪を見習え!みたいな声も増えていった。

大阪の拠点はこれで比較的大丈夫だなと思ったので、今度は締まりのない営業教育部のテコ入れをしようと思った。正直1つ上のシニアマネージャーもその上の課長も与えられた仕事をこなすだけで全然仕事をしていない…ように僕には見えた。もちろん僕がやらないような仕事もたくさんあるわけだけど…

ただ何より許せなかったことがあった。役職が上の人がいない東京以外のコールセンター、特に上位役職者がいない青森の営業教育の担当の人が相談できる営業教育の人もいない、相談しても何もしてくれない、拠点の営業とはそんなにうまくいってないということで放置されていたことだった。

自分は西日本管轄だったけど見るに耐えかねて「もう僕がフォローするんで」と課長に言って青森も見ることになった。課長が仕事ができないのは最悪良いんだけど、部下のことを守らないことに関しては自分の中で許せなくて、今ふりかえると非常に失礼な態度で課長に食ってかかったことは1度ではなかった。

ちなみにこの頃、大阪のの拠点の部長から僕についたあだ名は「鬼軍曹」だった。今のイメージから想像できないかもしれないけど、20代最後の年、僕は尖っていた。良い面もあったし、尖っていたからこそできたこともあるけど、悪い面もたくさんあったと思うし傷つけた人もたくさんいた、自分なりの正義があり、それを押し付けていたと思う。正直、今でも時々自分の「義」が出てしまってぶつかったり、誰かを傷つけてしまうことがある。

残業なしになり学びの時間が増えた

大阪時代は営業教育部になったこともあり、残業がなくなり毎日18時に帰社できるようになった。

正社員になった時に1つ決めていたことがあって、会社で登り詰めていくか、将来独立するか、先のことはわからない、だけど会社の看板がなくても通用するビジネスパーソンになると決めていた。

毎日、会社帰りに紀伊國屋書店によって本を買ってカフェで読んでから帰ったり、生まれて初めて自分のお金でビジネス系のセミナーに出るということもやり始めた。

大阪創業会館が無料や1000円くらいでやっているセミナーに通い出した。知らない世界で最初はおもしろいものの、何度か行くとだいたい内容がだらだらしてあまりおもしろくないなと思うようになった。

そこで自分がいいなと思う人のセミナーを行き始めた。2万、3万のセミナーは当時の自分に取っては大きなお金だったけどやはり一線で活躍している人の話は圧倒的におもしろかった。

この時とある業界の第一線で活躍している人の話を聞いた。最初から最後まで話がおもしろくて2時間があっという間だった。

その時「どんな人でも特定のジャンルの本を30冊読んだら専門家になれる。でもそれをやる人はこの会場には一人もいないですけど」と言い放った。

この方はすごいしリスペクトはしているけど、その言葉は正直ムカついた。絶対30冊読んでやると心に誓った。

そして1番興味があったマーケティングの本を読み漁りだした。確かに5冊読むと景色が変わり、30冊読んだ頃には専門家になれる知識はついたと思えた。その話はもう少し後で実践として身を結ぶことになる。


初めての同棲生活は…思えばケンカばかりだった。
当時はどっちも好き勝手言ってるという感覚でぶつかっていたが、今思えば自分の理想をただ相手に求めて押し付けて、そこに反したことにキレて最悪だったと思う。ごめん。


東京転勤、新規事業立ち上げ、入籍

大阪は11ヶ月の赴任で、東京に転勤となった。今度は保険のサービスショップへ副店長として入った。

コールセンターから初めての外回りの営業と20人くらいのメンバーの店舗マネジメント。

店長はお客さま想いであり、現場の人間を守るいい人であった。ただチームマネジメントや数字管理が苦手な人で、クセのある外回りをする営業の人たちが好き勝手やってたり言われたりしていた。

お店がそんな状態だったので僕の役割は数字管理とお父さん役。自分が未経験の中で、崩壊しかかっている店舗を比較的厳しい態度でマネジメントしていった。当時の人からすると、経験もない年下の素人から言われるのはムカついたと思うが、自分に必要な役割としてやっていった。

そんな折、会社としてもこれから柱になるコンサルティング型のショップ運営の立ち上げの企画が走ることが決まりその立ち上げメンバーに選ばれた。ショップ配属はこのための準備期間の配属だったかと思う。

引き続き前店舗の店長のお店の副店長として配属された。全く違うタイプだったのでいいコンビだった思う。基本的には上に人がいて自由にやらせてもらえるNo2ポジションは性に合っていた。

コールセンターから前ショップまでは分刻みのスケジュールで動いていたが、この立ち上げは少人数でお客さま、チームメンバーひとりひとりにもじっくりと向き合いながらできた。

お店のメンバーと地酒にもたくさん向き合いました

営業では店長にもたくさん時間をとっていただき、この時に僕は本当の意味でのヒアリングや相手や相手の家族に思いを馳せる、守るということを向き合っていった時間だった。6人くらいのチームだったのでメンバーのマネジメントや育成にもたくさん時間が取れたし、怒るということは一切なかった。この時のチームメンバーからは「すごくやさしい人」というイメージだったと思う。

僕は特に自分の色はなく、自分の義で動いて、その場所や立場で必要な役割を全うしているだけ。締めないといけければそういう立ち回りをするし、その必要がなければ自然体の穏和な感じ。それは今もそう。発信をしていると目立ちたがり屋みたいな印象をされるけど、必要だからやっているだけという感覚で、できれば自分は裏で糸を引いてるみたいな方が楽しいタイプ。

今は会社の代表をやっているが、自分より想いと適性があって事業を伸ばせる人がいたらいつでも変わっていいと思っている。今のところはないと思うけど。No.2として支えるのでもいいし、自分が会社にとってボトルネックになるのであれば去るべき、そう思って仕事はしている。

さて
プライベートでは30歳までに結婚をするという目標があったが29歳11ヶ月で入籍をした。


人生を見つめ直し始める30歳

30歳を境にして人生についていろいろ考えるようになった。
まず食について気になり始め、添加物や農薬のことなどたくさん本を読んだ。

野菜ソムリエ、オリーブオイルソムリエの資格を取ったりしたのもこの頃。
塩を30種類くらい買って食べ比べたり、同じ野菜を縦に切るのと横に切るのと2つ料理を作って食べ比べたり、とにかくハマると深く追求したくなるのでいろいろやった。

オリーブオイルは特にハマって上級資格の講座までいったり、国内最大のオリーブオイルイベントでオリーブ男子としてレミオロメンのドラムの神宮寺さんとトークショーをやったりした。音楽のステージではないけど、めぐりめぐって第一線で活躍するミュージシャンと同じステージを立ったのは少し感慨深かった。

この頃に読んだ「ダウンシフターズ 減速して生きる」という本が人生観を変えた。

ミュージシャンをやっていて、就職が遅かったぼくは人生の負け組という自己認知。遅れを取り戻すように猛烈に仕事をして結果を出してきた。

しかしこの頃になると、職場の役職が上がる人ほど仕事が楽しくなさそうな顔をしているし、辛そうだし、喫煙率増えるし、、、という感じでこのまま会社で上を目指すことに疑問を感じ始めていた時だった。

そんな時にダウンシフターズは年収半分でも楽しく生きるみたいな本で自分の人生の1つの選択肢に入った。著者の人がやっているバーが池袋にあったので遊びに行ってみたらおもしろい人ばかりでこんな生き方もあるんだ!という人がたくさんいた。ギターが弾けたので幸いすぐに仲良くなれた。音楽はいつでも心の距離をあっという間に縮める。

初めてのコンサルティング

もう1つこの頃に今の仕事につながるようなことを経験する。

少し先輩の友達が、「英語×保育×アート(音楽)」を組み合わせた保育ルームを開業したけど、全然集客できずに困っていた。このままだと事業を畳まないといけないというレベルまで来ていた。やっていることは素敵なことだし、このままだと潰れてしまうのは目に見えていた

そこで「僕はコンサルタントでもないし経験もないけど、マーケティング本をたくさん読んできて力になれることもあると思うから、もしよかったら立て直しをやらせてくれないか?」と聞いてみた。

困っていた友達からは飲み代を奢ってもらうのをフィーとして、ぼくの初めてのコンサルティングが始まった。

英語と保育、アートと保育はあったけど3つ掛け合わせているのはなかったし、この3つは全部大切というのは園長先生のワーホリに行った経験や僕自身ミュージシャンとしての経験からも感じていた。

数少ないお客さまも遠方から来ていたので、勝ち筋は作れると感じていた。

安い金額で提供していたが、改めて競合を全部調べてもらって、それらの平均より高めの値段設定をして勝負することにした。

僕が次の転勤するくらいまでには赤字にならないくらいにはV字回復して、その後は運営は黒字へと変わった。「1つのジャンルを30冊読んだら専門家になれる」、大阪で聞いた話は現実となった。

よく考えたらこの頃は毎日のように入った飲食店でお店の座席数を確認して、客の入りを確認して、平均単価、何回転するか?で売上や損益分岐点を計算するのが趣味としての日課だった


さて、会社のコンサルティング型のショップは接客も育成も毎日本当に楽しかった。チームメンバーもみんないい人ばかりだった。職場が丸の内だったので毎日おいしいお店を昼も夜も探すのも楽しかった。思えば今まで住んだところ、職場のまわりの飲食店は全部制覇するというのはどこでもやっていたなと思う。

楽しいショップ生活だったが、上の人の間には「本橋はぬるま湯に浸かっている」という噂が流れて2年くらいでまたコールセンターに戻された。

2回目の福岡転勤、糸島生活へ

立ち上げた福岡のコールセンターの主力がほぼ抜けて、トップも変わっていた。噂には聞いていたが、布陣もそのトップが好きそうな「返事がよく元気なだけ」みたいな人ばかりが管理者になって部下のことを大切にしないような人が多く、いろんなことが壊れていた。

シニアマネージャとして僕は100人くらいのチームを統括する立場として戻ってきた。鬼軍曹再び……

基本的な営業や数字管理、チームマネジメントを管理者層に教えていく立場でそれなりに厳しくしたが、あえて1つスイッチを入れてすごく怒ったり厳しくしたことがある(内心は冷静にやっている)。

それは管理者が立場が弱い人へ理由もなく頭ごなしに高圧的にしたり、ないがしろにしたりした時。こんな時は烈火の如く怒った。直属の部下の人は大変だったと思うが、自分の管轄で引き上げていった管理者は、下の人に対して誠実な対応し、営業や数字にも強い良い管理者になっていった。

老後に海の近くに住む夢を30年早めてみた

2回目の福岡。今までいろんなところに住んだが、福岡はダントツで1番住みやすかった。老後には海の近くに住みたい…そんなことを思い描いていた頃だった。福岡の糸島なら海の近くの暮らしをしながら、都心とも近いから通えるしと思った。そうだ、田舎暮らしが合うかどうかも含めて試しに住んでみよう!ということで糸島暮らしが始まった。

初めての田舎暮らしは最高だった。
自然が近くにあり、すぐに海に行ける、リゾート地のように海沿いのレストランがあって、夕日を見ながらタイビールを飲んでると東南アジアに来たみたいな気分だった。

自然が近くにある暮らしは僕の肌に合った。硬く尖っていた僕のいろんなものが少しずつゆるみ始め出した。

新築の家を買った翌月に突然会社を辞めた

シニアマネージャーとしては毎日ほとんどの時間を会議と面談にとられ、数字とばかり睨めっこし、現場からは離れて仕事は正直あまり楽しくなかった。極めつけは「更新会議」。

会社人生の中で最も辛かった仕事だ。

オペレーターの契約を更新できるかどうか?の会議。更新の基準は出勤、成績、コンプライアンスの3つの観点から審議される。

最終的に更新できない人は僕が面談をしてその旨を通知する、つまりクビ宣告をする仕事。その場で涙する人もいる。

会社の決まった基準に則りやるのではあるし、本人が頑張れなかったり、違反事項があったりもだが、元を正すとその組織を統括しているのは僕であるから自分の責任、そして守れなかったという申し訳なさ。

全国の拠点とTV会議をする中で、僕はわりと上にも気に入れられていたし、更新会議ではかなり粘るので契約満了は結構阻止はした。だけど上の人も他の人への顔をある手前、全部希望は飲めない。そんな時「そこまでいうなら一人は残してもいいけど、一人は切れ」と言われる。その一人は僕が決めないといけない。自分の責任とは言いつつも「自分の責任なんで代わりに自分のクビを切ってください」…とまでは言い出せない自分も情けなくて嫌だった

自分の甘さもあるが、当時はそんな自分が許せなくて、仕事が無理になり、、、そう思うと自分はリセット癖、全てバシッと切るような幼い頃からの癖が顔を出した。

「もう無理」と思ってから上司に「辞めます」と言うまでに1ヶ月とかからなかった。新築戸建ての家を買った翌月だった。まさか辞めるとは思ってなかった。

最終出社日から1ヶ月は何もしなかった。
人は何もしないと本当に腐っていくんだなと実感した。

有休消化が1ヶ月あったので、ちょうど有給が切れるくらいから就職活動をした。

2つの選択肢があった。
興味があるベースで教育や人事系の仕事をするか?
もう1つは将来の独立を見据えて今の経験ですぐできて適当にこなしてもできそうな保険の仕事をするか?

将来独立をしたかったし新しい仕事をすると、たぶんのめり込んで一生懸命やるので、最終的にゆるくてもできそうな後者を取った。

入社日に頭が割れそうな二日酔いで参加して3年後に辞めると誓った

そんな感じで入社した新しい保険の総合代理店で当時業界でNo.1の会社。東京の本社で入社式があったので久々の東京。

久々の東京だったので、入社式の前日に音楽仲間に会って飲んだ。すごく飲んだので翌日の入社式はひどい二日酔いだった。

二日酔いの中、社長の挨拶を聞きながら「3年以内に独立する」そう心の中で呟いていた。何をするかは決まっていなかったけど…

ゆるくやるつもりが猛烈仕事!新人賞を受賞

保険の仕事は慣れているし、、、とゆるくやるつもりだったが研修を受けていたら思いの外おもしろかった。保険知識というより、営業のプロセスが人の心理なども踏まえてよく研究されていたから。会社のトッププレイヤーに比べて自分のレベルは足元にも及ばないなと感じた。「極めたい…」心に火がついた。

独立を何でするかはわからないけど、人の心理にもとづいた営業は何でも役に立つし、この営業方法を攻略したい、、、そういう気持ちだった。

4月入社ということもあって同期も多く50人くらいいた。

店舗配属になってからお店にも予算があるので新人の僕には最初はなかなかお客さんをまわしてもらえなかった。ただ先輩の横でひたすら接客を聞き、お客さんの質問や会話を聞き、先輩が答える前に自分ならどういうか?模擬接客をしつつ先輩の営業の良いところはどんどん盗んでいった。

少しずつチャンスをもらえるようになってきた。成約率の高い予約のお客様はほとんど回してもらえなかったけど、ふらりと来店したお客様をまわしてもらえるようになった。店舗の成約率が低いの直接来店のお客様を中心に店舗のトッププレイヤーと同じくらいの成績を出すとお客様をまわしていただけるようになった。

新人で経験がない分、準備は徹底的にやった。想定される質問などを全部調べて用意し、どのような展開になってもいいように、そしてどのような順番で何を伝えれば良いか徹底的に準備をした。一人のお客様に4時間、5時間、時には8時間以上かける時もあった。あっという間に残業時間トップになって店長に怒られた。エリアマネージャーにも面談されるくらい残業して準備をした。怒られても「そんなの関係ねえ!」と思っていた。お客様にとっては一生のことを僕に預けるわけだから、最善の準備がしたかった

そんな努力(とは思わないけど)のかいあって、同期のうち10%未満の4人が獲れた新人賞を受賞。

言うことをあまり聞かない僕、エリアマネージャーからは気に食わない空気が出ていた。翌年僕は違うエリアへ異動になった。家が近くでよかった!

離婚

会社で営業として数字も出して、糸島暮らしも最高!となっていったが糸島移住を機に夫婦関係の溝は深くなっていった。

糸島に来てから僕の内面の変化が大きくなって、次第に話が合わないと感じるようになった。

僕は30歳を超えて、生き方をいろいろ考え直す時期。東京出身で基本的に都会に住んできて、会社で上を目指して違和感を感じて、田舎暮らしがすごく合った。ゆったりした空気の流れ、自然を感じて四季を味わい暮らしていくこと、毎日違う雲の動きや、海の色。直感を取り戻し、直感に生きていくとうまくいくし心地いい、そんな感覚になっていった

当時の妻は僕より年下で26歳。福岡の田舎出身、年齢もあって都会のキラキラした世界の方が好きだった。

彼女自身は変わらないままだったけど、僕は変わっていき次第に話は合わなくなった。ある日空を見上げながら「毎日違う雲の表情が綺麗だね」と言ったら「あんた頭おかしくなったの?」と言われ、もう無理だなと思った。

「もう一度だけがんばってみよう」をお互いに何度か繰り返したけど、やっぱりまた喧嘩をしてしまい無理だなとなった。相手のご両親、自分の親にも申し訳ない気持ちでいっぱいだった。僕が変わったし、悪いところがたくさんあった。それはしょうがないけどあの時、寄り添ってくれたのはおばあちゃんだけで心が少しチクリと痛かった。


月に50本ブログを書いても全く結果が出なかった糸島ブログ

糸島に移住して1年経って糸島が好きになりすぎて、facebookで「糸島が好き!」というグループを立ち上げた。今もゆるくあって5000人くらいのグループだ。

その後facebookだけでは情報が薄いなと思ってブログを始めた。
当時はイケダハヤトさんが高知に移住をしてプロブロガーとしてブイブイ言わせていた頃。ブログブームでもあった。

今でこそわりと有名な糸島も、当時は糸島に移住をしたというと「どこの島?」と言われたり(糸島は福岡市の隣で陸続きの半島。)全国的にはまだマイナーだった。

また田舎暮らしの雑誌に出ている人はみんな自分で仕事を作れる人とかすでに独立をしている人。でも現実は移住したい人の9割以上は僕も含めて普通の会社員。ニーズと世の中に出ている情報にギャップがある、そんなところを解決したくて糸島情報と会社員のための移住をテーマにブログ「愛しの糸島ライフ」が始まった

気合いを入れて月に50本ブログを書いた。1日1記事以上。
これだけやれば結果は出るだろうと思ったけど、全くアクセスは増えなかった。


「愛しの糸島ライフ」がブレイクしてローカル有名人に

全く結果が出なかったブログ。SNSを見ても量はやっている方だったからやり方が違うのでは?と思い、有料noteを片っ端から書い、ブログの本を買い、ブログセミナーを受講し、オンラインサロンに4つ一気に入った

学んだことを実践をしたらキレイにアクセスが伸びてローカルブログにも関わらず1年で月間13万PVのブログに成長。グルメ記事では食べログやRettyなどの大手サイトを押さえて1位も取った。

ブログがブレイクして地元のTVや新聞に掲載されたり、田舎暮らしの雑誌の取材を受けるようになったり、糸島市の移住イベントに登壇するようになった

田舎暮らしの取材の時に「なんで僕に取材を決めたんですか?」と聞くと、「会社員のための田舎暮らしの情報って今までなかったから」と言われて、狙っていた通りになった!と心の中でガッツポーズをした。

アクセスを増やすだけでは意味がないと思ったし、糸島に関わる検索ワードだけでいくら1位を獲っても糸島を知っている人にしか届かない、そう思って僕は「地方移住」や糸島に関係ない検索ワードで上位表示させて糸島を知ってもらうWEB上の導線も作っていった

ブログからリアルで移住相談をして直接会った人だけでも今まで100人以上が糸島に移住をしている

ブログがブレイクすると、当時の流れだとプロブロガーになっていく人が多かったけど僕はならなかった。プロブロガーというのはブログの広告収入で生計を立てる。だけど僕は他人の商品を広告してお金を得ることに全く面白みを感じなかった。

どうやって独立しよう….と答えが出ないままだった。

しかしブロガーとして有名になってくると、ブログ集客に困っている個人事業主から相談される機会が増えてきた。人に教えるのは好きだし、得意だったので、これだったら仕事になるかもしれない…そう思ってWEBコンサルタントとして独立を目指すようになる。

副業禁止の会社でフリーランスで独立する方法を模索

保険業界は金融業界に属するのでコンプライアンス等厳しく、副業も禁止な会社が多い(当時)。

そんな中でどうやって独立を目指すか?

発信をして自分の名前は出すけど、仕事は出さないという方法を取った。

顔と名前を出さないと仕事は取れない、かと言って副業規定には引っかかりたくない。

ゲスト出演という形で出たり、お金はもらわないで登壇するなど。
このような形での活動回数の頻度で、実際お金をもらうようになったとしたらどれくらい仕事があるかな、稼げるかなと想像しつつ、経験を積んでいった。

ノウハウは出すけど仕事的な内容は出さない。
SNSにコメント入った人に直接DMでやり取りをしてクローズドな場所で仕事の話をするという方法。

この方法だと会社にバレない。
会社側も名前で検索して副業チェックするので、検索対策として表示名を「本橋へいすけ」とした。本当は下の名前も漢字だけど。
もう1つ別の理由は、ひらがな表記だとイベントなど登壇一覧に並んだときに目立つので。

案の定、だいぶ昔に本名でオリーブオイルソムリエとしてやっていた活動を「副業してるのか?」と突っ込まれたけど、今の活動は大丈夫だった。TVとか出てるけど….w

例え見つかっても副業規定には引っかからないようにWEB上の露出の範囲は考えていた。

20代に貧乏ミュージシャンをしていた時はマジでお金がなかった。30歳を過ぎてからもう一度あの生活をしろと言われたら絶対に嫌だった。この頃にはまわりにフリーランスの知り合いも増えてきた。独立をしたばかりの人が言っていたのは「今月は稼げたけど来月はどうなるかわからない」とか「独立はしたものの収入が安定しない」「仕事がない」という人も多かった。

絶対にそうはなりたくなかったので、僕は毎月の収入が見込めるコミュニティ形態をビジネスとして育てていくことに決めた。

ちなみに離婚してから最初に付き合った人には「このまま独立をして稼げるのは見えない」と言われた。本人も独立したいけどアルバイトをしている人。アートセンスのある素敵な感性の持ち主だったけど、その彼女はネットワークビジネスが辞められないとのことで別れた。

その次に付き合った彼女は個人事業主として2足のわらじを履いている人。僕の不安をよそに「へいすけさんなら絶対大丈夫、さっさと独立しろ!」とけしかけられた(笑)

糸島で一人で暮らすのは田舎ということもあって20万もあれば大丈夫だった。生活費の半分くらいの10万が稼げるようになった時点で、貯金額と合わせると全く収入が増えなくても2年は持ちそうだからと独立を決意した。マジで怖かった……

1年以内に毎月20万稼げたらいいかなと思っていたが、独立して情報解禁もできるようになって自由にセミナーもできるようになったら、独立初月から売上は30万を超えた

独立した当初の久留米市役所での講演

翌月からも毎月売上は増えていった。売上を増やしていくゲームも楽しかった

WEBコンサルタントとしてSNSを極めていく

独立した当初、世間の流れはブログからSNS、とりわけInstagramがブレイクしていた。「インスタ映え」なんて言葉も流行った頃だ。

僕自身もブログコンサルからインスタコンサルへ軸を動かしていく。当初は映え系をスマホカメラで取れる方法を伝えたりしていた。

が、この頃一部の主婦アカウントや節約アカウントで密かにブレイクしていたのが文字投稿だった。写真が主流のインスタで文字投稿は目立つこと、競合がいないためアルゴリズム的に優遇されてバズりまくっていた。当時はリールがない頃なのでインスタでバズを起こすのは不可能と言われていた。


これをビジネスアカウントに応用した。個人事業主向けに文字投稿をビジネス利用を導入。日本で初めてだった思う。他にやっている人がいなかったので希少性と文字投稿ならではの滞在時間と保存数の多さでバズりまくって、自分もコンサル生もすぐにフォロワーが増えた。

僕も名前を隠してコンテンツだけで勝負したアカウントで52投稿で1万フォロワーいったり、別のアカウントでは1ヶ月ガチって7000人フォロワーを増やした。

話は少し離れるがこの頃、昔から目標にしてコツコツ積み上げていた「旅で47都道府県を制覇する!」を達成した。47都道府県制覇していると誰と会っても初対面で出身を聞けば行ったことあるので「いいところですね〜!」と言えるのが良かったし、地方自治体系の仕事が多かったので全ての都道府県をコンプリートしているのは強みにもなった。


日本酒の一般社団法人の立ち上げと離脱

ある日、知人の仕事の仲間とMTGをしている時にずっと日本酒が好きなのになぜ仕事にしていないんだろう…とふと思い、日本酒を仕事にしようと決める。そこから半年で500種類以上の日本酒を飲んだり、日本酒ペアリングの名店や燗酒の名手のお店に行ったり、利き酒師の資格を取得した。

日本酒好きの知人を誘って、一般社団法人を立ち上げた。日本酒コミュニティと、酒蔵さんや飲食店さんの発信まわりのサポートの仕事を始めた。いろんな人にうまくいかないよと言われた共同代表が結局うまくいかなくなった。意見が割れる新規事業をやるかの議論になった。どちらも自分の意見は変えられなかったので、最終的に取引先が関東に多く、迷惑はかけられないということで、糸島に住む僕が退任することで折り合いをつけた。ただあのまま日本酒の仕事を続けていたら試飲や研究のしすぎて確実に体を壊していたから少しホッとした自分もいた。

1つのお酒を5℃単位で温度を変えて記録をつけて、その後ペアリングを試したりでとにかく飲酒量が多かった。酒造りの現場を見て大変さがわかるだけに、試飲のお酒を吐くことなんてできなかった。

コロナをきっかけにYouTubeに本腰を入れた

インスタに飽きた頃にビジネス界隈でもYouTubeの波がやってきた。当時はエンタメ系の後にビジネス系YouTuberが出てきたがビジネス利用のYouTube チャンネルはほとんどなかった。ビジネス系というのは当時だったらマコなり社長、マナブさん、イケハヤさんなど自分の事業に対してのYouTubeではなくYouTubeでビジネスのことを発信してマネタイズをする手法。僕がやったのは自分の事業のためのチャンネル運営をするビジネスチャンネルだった。

まずはコンサルしている人のYouTubeの攻略方法を先に対応して、ひと段落した頃にやってきたのがコロナだった
オンラインに強い多くの同業がfacebookのライブ配信で無料で情報公開をしてオンライン化に困っている人の助けをしていた。

僕はライブ配信のダラダラしたコンテンツが好きではなく、完成された良いコンテンツという作品を作る方が好きだった


自分が今プロとして世の中にできることは何だろう?
と考えて、今まで有料セミナーで話をしていたことも全部無料で公開しようと思ってYouTubeを始めた

とはいえプロがやるので決めていたことが2つある。
3ヶ月以内にチャンネル登録1000人を超えること、1万人まではブランディング的にもやる。

最初は2日1回投稿。毎日ずっとYouTubeのことを考え、数字分析をして、プラットホームをリサーチしまくった。YouTubeにブログ運営で培ったSEO(検索上位表示のテクニック)も応用して取り入れて、なんとか2ヶ月半ちょいで1000人達成!

そこからは少しペースを落として更新。半年で5000人くらいいった。この時月間500〜1000人くらいチャンネル登録が増えていた。もう何もしなくても1万人いくなと思って、そこから現在に至るまで特にリサーチなしで適当にアップしている。そろそろ貯金が尽きる…

YouTubeはチャンネル登録1.6万人へ

独立してから絶対にやりたかった出版。独立して1年半後にMdN社から『KPI・目標必達の動画マーケティング 成功の最新メソッド 』を出版した。すごく嬉しかった。独立も遅かったから引け目に感じていたけど1つ形になって自信にもなった。だけど出版がゴールがになっていて、たいして売れなかったから次出す時は売れる本を作ろうと思った。


ノウハウだけでは解決されない問題

コミュニティ運営やセミナー、コンサルティングをする中でSNSをやっていくだけでもダメ。そう感じるようになっていった。悩みベスト1はSNSが直結する集客だったが多くの場合、根本の原因は商品設計だった。SNSコンサルをしながら、ほとんどケースでビジネスコンサルをしていた。

ビジネスコンサルの経験が増えていくと、こうやったらうまくいくという正解は見えているのにうまくいく人、いかない人がいることが課題だった。

この課題解決はノウハウではなく、人間の心や脳のしくみからアプローチしないとダメだなと思ってコーチングが気になるようになる。

会社員時代にもコーチングは少しかじったり、研修も受けたことがあったのでなんとなくは知っている、できるつもりであった。

そこでいろんなコーチングスクールの内容を見てみた。どれも興味はあるが、なんとなく自分でもできそうだし、めっちゃ刺さるか?と言われるとそうではない。どうしようかなぁ…と思っていた。

コーチングスクールとの出会い

そんな話を会社経営をしている友人に話をしたら「受けるなら一流の人から習わないとダメだよ、この人の動画を見てみたら?」と言われてみたのがmindset coaching school(現 mindset coaching academy)の李さんの動画だった。

衝撃的だった

ここで語られているコーチングができたらめちゃめちゃ最高だ!そしてこの人すごい!という気持ちとこのコーチングは絶対に独学ではできない!無理!という気持ちが同時にやってきた

もしここで語られているコーチングが自分でできたとすると…と思うとワクワクが止まらなかった。次のスクールの開講はすぐで、僕が動画を見たのは締め切り2日前。少し悩んだけど、そのまま画面の購入ボタンを押してスクールに申し込んだ。

ワクワクと絶望が交差し続けたコーチングスクール

そんな感じで入学したコーチングスクールだったが、入ってみたものの毎回の授業についていけなくて大変だった。まず講義の内容が外国語か!?というくらいわからない言葉だらけだった。授業を受けながらググって…という感じで授業を受けていた。

落ちこぼれて脱落しそうになっていた僕はコーチングによって変革し始めた

このコーチングができたら最高という気持ちと、自分の至らなさの絶望、その両方抱えて複雑な感情が入り混じる。毎月課題もあって、やるべきことはわかってはいるが自分のできてない具合もわかるので、気持ち的に課題に取り組めなくて締め切りギリギリまで動けなかった。あと1週間!となって、いよいよ課題をやらなきゃ!と自分にムチを打って取り組んでなんとか提出というスクール前半の毎月だった。

スクールの人と交流することもなく一人孤独にやっていた。運営の人から絶妙なタイミングで来る「へいすけさん大丈夫ですか?」のメッセージに救われて心折れずになんとか続けていた

そんなこんなで同期80人くらいの中で一切存在感がないままに4ヶ月以上が過ぎた。このままでは絶対ダメだ…なんとか変わらなきゃと思っていたところ、スクール5ヶ月目に同期の人が公開セッション受けたい人を募集します!と投稿をしていて、ここだと思って勇気を振り絞って手を上げた。

この時の公開コーチングが間違いなく僕の転機になった

「現状の外にゴール設定」をする時のワクワクが止まらない感じと、ドキドキして怖いなという気持ちが混じり合ったあの不思議な感触を初めて身を持って体感した。体温が上がる感じや、ゴール設定をした後の自分のマインドの変化も含めてまさにコーチングを体感した。

この日を境に僕は変化が加速していく。
スクールでは1つ現状の外へゴール設定ができたり、ゴール達成すると他の領域でもうまくいくと言われていたが、まさにその階段を登り始めたようだった。

スクールの講義内容が入りやすくなってきた。

自己適用がハマっていくとクライアントへのセッションもうまくいき始めた。まさに「とにもかくにも自己適用!」とスクールで言われ続けていたことを身を持って感じた。


水の中のマインドフルネス「フリーダイビング」の世界へ

今でこそ僕の代名詞の1つになっている「海に潜る」。これも実はスクールの最終月で設定した趣味のゴール。

ある日知人が「フリーダイビングは水の中のマインドフルネスだ」って書いてあって「めっちゃいいな!やりたい」と思った。

小さい頃から耳が弱く耳抜きができない

でも僕は小さい頃から耳が弱く、中耳炎と外耳炎を繰り返していた。移動が多いくせに飛行機に乗れば3回に一回は耳が痛くすぎて辛い思いをしていた。耳に抜きが陸でも全くできないから。

そんなこともあって海の潜るのは諦めていた。が、スクール期間中ということもあって、ワーケーションで訪れていた宮古島でふと思い立ってその場で予約!タンクを背負わず素潜りをするスキンダイビングに挑戦してみた。まさに現状の外だった。

案の定、最初のスキンダイビング講習では耳抜きが全然できなかった。インストラクターからも「陸でできなかったら水の中では絶対できない」と言われた。

耳抜きはできなかったけど、初めてのスキンダイビングはめちゃめちゃ気持ちよかった。身体1つ、息1つで潜る、、、 スキューバダイビングはハマらかったけどスキンダイビングはハマった。


現状の外のゴール設定として「スキンダイビングで10m潜る」をゴール設定とした。

糸島に戻ってから鬼門の耳抜きはGoogleやYouTubeであらゆる方法を見た。しかし、いろいろやっても一向に耳は抜けなかった。

とある動画でAmazonで買えるオトヴェントという医療用の風船があるとのことで買ってやってみた。そしたら耳がスパスパ抜けてびっくりした。

なんだ!最初からやればよかった!と思った。
これで耳抜きはクリアや!

陸でできたと思ったら海でできない耳抜き

しかし、海に行って潜ったら全然耳が抜けなかった。


なぜか?

素潜りで潜る時は頭を逆さにするからだ。
つまり頭が上だと抜けるけど、頭が下だと耳抜きができなかったのだ。

頭が上だと抜けるので、顔を上げて耳を抜いて、また潜るという非効率スイムではあるが10mは潜れるようになった。

ただ非効率過ぎるのとかっこ悪い。

タンクを背負って深く潜るスキューバーダイバーでも、頭を下にすると潜れない人がいると知った。

また振り出しか…


悔しかったが、また家で頭を下にして耳抜きの練習を始めた。
めっちゃかっこ悪い。

大きな声では言えないが、温浴施設で深めのお風呂で誰もいない時を見計らって練習をしたりしていた。やはり陸でやるのと水の中でやるのは水圧がかかる分難しいのだ。

その後も、耳抜きに常に苦戦するが少しずつ深度は伸びていった。


スキンダイバーからフリーダイバーへ

当初は、いつかは海中宮殿を素潜りで潜りたかった。当時やっているのはスキンダイビングというは遊びで潜るだけだった。


遊びで潜るのを楽しむためには技術が必要だと思って、潜る深さや息を止める長さを競うスポーツであるフリーダイビングのライセンスを取りに行った。


そしたら、フリーダイビングにどハマりしてしまった。

フリーダイビングはメンタルスポーツ。
呼吸、メンタルの安定、身体の使い方が1つになってはじめて良い潜りができる。リラックスが何よりも大事だ。仕事にも通じるところもあり、自分との対話のようで、遊びで潜るスキンダイビングへの興味がなくなり、フリーダイビングに傾倒していくようになる。

ライセンスを取得して20m、30m潜れるようになり、最上位ライセンスでマスタフリーダイバーのAida4まで取得した。


身の安全より達成欲が勝り鼓膜を破る

その後の40mの壁がなかなか超えられなかった。絶対無理をしてはいけないフリーダイビング。8月の長崎県の壱岐島でのトレーニング最終日、耳が抜けなかったがあとちょっとで40mの自己ベストが出せると思って、達成欲が勝り無理をしたら鼓膜を破ってしまった。耳からは血が流れていた。


これがもっと深い深度だったら危なかった。初めて海で痛い目に遭い、もう2度無理はしないでおこうと思った。


2度目の過ち、生死の危険が迫るなかでワクワクしていた

それからは耳が抜けない時はいったん引き返すことを徹底していた。

しかし、翌年初めて出場したフリーダイビングの大会。本番で自己ベストに挑戦した。緊張のあまり耳が抜けなかった。しかしボトムまではあと2mくらい。大会本番ということもあって僕は再び無理をしてしまった。


そしたら左耳が「プスッ」という音を立てた。反射的に「やばい!鼓膜破れた」と思ってすぐに引き返す。この時は身体の平衡感覚がなくなった。上から真下に垂れているのロープが真横に伸びているように見えた。

「あ、、、これはいよいよヤバイかも…」と思った。初めて死を意識しつつ、その一方で「あぁ…これが鼓膜が破れて平衡感覚がなくなるというアレなのか…」と好奇心が満たされていく体験をして少しニヤついた

僕は頭おかしいかもと思いながら、平衡感覚がないため競技を捨ててロープを手で掴みながら浮上していった。そして、最後はセーフティダイバーにレスキューされて浮上した。僕の初めての大会はほろ苦いデビューとなった。

次は必ずリベンジする。

今のゴールはフリーダイビングで日本代表になることだ。
純粋にそこまではやると決めている。日本記録も狙っていきたい。

もう1つ、40歳から始めた新しい挑戦であるフリーダイビンング日本代表になったらなんかかっこいいし、コーチとしていつからだって挑戦していいんだよ!と誰かの勇気にもなればと思っている。


コーチングのメソッドをプロダクトにしたらたくさんの人の変容に関われるのでは?

コーチングスクールではコーチングノウハウの前に徹底的な自己適用が求められた。本人が変革していないのに他人にコーチングなんて絶対にできないから。

スクールの前半は全くダメダメだった自分だったが最後の2ヶ月でようやく自己適用ができてきて自分の人生も大きく変わり始めていた。モニターセッションも自己適用が進むと並行して、クライアントには小さな変化ではなく大きな変化を起こせるようになっていった。

「コーチングってほんといいな」

生き様に触れるコーチングは「いいな」を超えて「尊い」そう感じていた。


手帳『pure life diary』が生まれた瞬間

コーチング自体はすばらしいと感じつつ、別の気持ちも生まれていた。

「自分が直接コーチングできるのってせいぜい1回数十人だな…」

これでは世の中を大きく変えることはできない。でももし、この素晴らしいメソッドをプロダクトに落とし込むことができたら1万人、10万人と多くの人の人生の変容に関われるのではないか?と思うようになった。

当時、コーチングとは関係なくオリジナル手帳を作ろうと動いていた。元々使っていた手帳が販売されなくなって、いろいろ探したけどしっくりくるのがなかったので「自分で作っちゃおう!」と思ったのがきっかけ。
ただ僕は手帳に詳しくなかったので、手帳好きな井上ゆかりさんを誘って手帳を作ろうと動いてた。途中までは進んでいたが、方向性が見えずに1ヶ月以上まったく動きがなかった。

そんな時だ。

「あ、、、コーチングのメソッドを手帳に落とし込んだら、手帳だから自動的に習慣にもなるしいいのでは?」と閃いた。


手帳はまだなかったが「手帳を作ります!」とSNSで宣言して、コミュニティを作った。いわゆる作る過程も共有していくプロセスエコノミー。

開発者ふたりとも今まで無形ビジネスしかやったことがなかったし、まわりの事業主の知人もほとんど無形ビジネスなので、わからないことだらけだったが、2021年の下半期verとしてプロトタイプを200冊作った。予想を超えて反響があり即完売だった。

業界初のユーザーサポート全て無料で行う

僕たちは手帳を売って終わりにはしたくなかった。人生が変化することにコミットしたかった。業界として初となるユーザーサポート(動画コンテンツ、作業会、ワークショップ、セミナー)を毎月全て無料で行った。テーマは誰も取り残さないユーザーサポートだ。

僕は異業種から手帳業界に来たから1つ怒りにも近い大きな疑問があった。自己啓発系の手帳を作っている人たちは手帳を使うための講座を有料でやっていたこと。手帳自体は数千円で、原価もかかるし1年に1回しか買われないから儲からないビジネス。だからこそ他でマネタイズする必要がある、気持ちはわかる。しかし、例えばトヨタの車を買って、車の使い方講座を有料でやったらユーザーは大クレームになるよね?手帳業界ではそういうことが当たり前に行われていた。

僕たちは手帳を使いこなすことに関しては全て無料でやろうと決めた。
届けて終わりではなく、「変わる」まで責任を持ってやる

最近では他の手帳もpure life diaryほどではないが無料サポートをつけているところが増えてきた。マネされることで業界全体が良くなるのはうれしいことだ。

手帳事業を本気でやっていく腹も決まってフリーランスから法人登記をした。会社名はfeppiness株式会社。英語の「feel+happiness」を足した造語で「しあわせを感じられる社会をつくる」というVISIONにもなっている。

課題だらけのpure life diary

さて、肝心の手帳。今では笑い話だが、プロト版は使っているうちに中身がどんどん取れてくるとか商品にはいろいろ問題があった。

2022年版を制作にあたりプロト版発売から1ヶ月しか猶予がなかったので、爆速で買ってくれた人の声を集めて、ユーザー向けのセミナーをやって商品をブラッシュアップをして本リリース。1000冊を販売した。在庫を抱えるビジネスも初めてだし、1000人と多くの人にサービスを届けるのも初めてだったので、発注を決める時は手が震えた。

SNSのプロとしてInstagramを育てていたかいもあって、自分たちもびっくりの1000冊は即完売だった。

数字だけ見たら好調だが、使いきれない人、途中で辞めてしまう人、リピートが少ないなど課題は山積みだった。


取り残されている人の存在に気づく

そんな時、コーチング同期でスタートアップマーケッターとして活躍している大塚祐子さんが手を差し伸べてくれた。

2泊3日でコンセプトをもう1度練り直す合宿を福岡県の八女で行った。合宿開催にあたり、僕らは手帳購入者のインタビューを改めて行い、アンケートを取った。たくさん集まったお客さまの声を整理していくと僕らはあることに気づいた。

当初想定していたいわゆる「現状の外へチャレンジしていく!」というコーチング的な使い方をしている人はあまりいなかったことだ。

反対に特に愛用してくれて刺さっているお客さまの中に内向型、HSPの人が多いことに気づいた

日々生きづらさを抱えて生きていたり、完璧主義、正しくやらなきゃ、「べき」「ねば」思考が強い人がpure life diaryを使うことで、最初はよくわからなかったけど、気づいたら自分にやさしくなれるようになっていた、自分のペースで人生が変化していった、初めて手帳が続いた、、、そんな声が多かったのだ。

そこで改めて、内向型やHSP向けのサービスを調べてみると新事実に気づいた。

HSPはベストセラーの本があったり発信をしている人は多い。しかしHSPや内向型の人を助けるのはカウンセリングくらいで、他のサービスがなかった。カウンセリングは日本だとカウンセリングそのものに抵抗がある人が多いから一般的はではない。経済的な事情で受けられない人もいる。
「自己理解」という言葉も世の中に浸透してきていて「わかる」はあるが「かわる」をサポートするサービスがない

共同開発者のゆかりさんは内向型カウンセラーでもあり、内向型本の著者でもある。僕は内向型と外向型が半々くらいのアンビバートと言われる属性。HSPではないが、内向型やHSPの人はゆかりさんのサービスを手伝ったこともあって何に悩んでいるかはすごくよくわかる。

僕たちが守るべき人たちはこの人たちだ

そう結論づけた。
ただ内向型とHSPと言うと届く人が限られてしまうし、社会全体の中では自分が内向型、HSPと認識していなかったり、言葉自体を知らない人もいる。

どんな言葉だと彼女、彼らが「私のことだ!」と思うか?と議論を重ねて「まじめながんばり屋さん」という言葉が降りてきた

お客さまのインタビューやアンケートからたびたび「やさしい」という言葉が出てきていた。自分にやさしくなれたとか、手帳のデザインや運営の人も含めてみんなやさしいと。

そしてpure life diaryの新しいコンセプト
「まじめながんばり屋さんが感性をみがいて自分にやさしくなれる手帳」
が生まれた。


同時に手帳がSNSで人気となったこともあって出版社の目に止まり2023年版は全国の書店や文具店で取り扱いが始まる。発行した5000部は即完売になった。初めてエントリーした100冊の手帳を書き比べして順位を決める手帳総選挙では2位になり、NHKあさイチでも取り上げられた。

同時に手帳のメソッドをまとめた『人生の純度が上がる手帳術』という本が出版された。前の出版は出すことが目的だったので今回はちゃんと届けたかった。発売1ヶ月で増刷して発行部数が1万部となった。書籍は台湾でも翻訳された。

2024年のpure life diaryの発行部数は1万部とした。

今でも定期的にお客様へインタビューをして、アンケートを取り、顧客の変化を起こせるように商品開発をしている。

この年ウェルビーイングアワードに2024年もエントリー。誰もが知るような会社が並ぶなか糸島の小さな会社がファイナリストに選出された。自分の会社名を英語の feel + happiness を足してfeppinessで「しあわせ感じられる社会をつくる」というビジョンにしたくらいなのでうれしい!

抹茶の会社を設立

知り合いで英語コーチング事業をやっている代表・新条正恵さんと宇治茶の生産地である京都の和束へお茶摘み体験に行く機会があった。正恵さんの生まれ育った地域でもある。

和束のお茶の美味しさを体験しつつも、人口3500人くらいの町は毎年200人ずつ人口が減っていると聞いた。単純計算すると20年後に町はなくなってしまうかもしれない。日本が世界に誇るMATCHAが消えてしまうかもしれない。

そんな危機感と正恵さんのいろんな想いがあって株式会社抹茶ツーリズムを立ち上げることになり、僕も取締役としてジョインすることになった。他にもすでに事業をしている仲間たちがチームとして集まった。僕が参加した理由はシンプルに事業内容とメンバーがおもしろそう!と「取り残されている課題解決」は僕の人生で大事なキーになっているから。


本当に社会に必要なことをしているときはこんなにもトントン拍子で進むのか?と感じるほど、抹茶ツーリズムはスピーディーにいろんなご縁が広がった。

代表の正恵さんは経産省がやっている女性起業家プログラムのJstarX
のメンバーとしても選ばられてこのブログを書いている今、渡米している。

抹茶ツーリズムはインバウンド事業を中心にMATCHAで世界を紡いでいく。

WEBコンサルタントの肩書きを外した

コーチングスクールに通うと前の自分が思い出せなくなるくらい人生が変わると言われていた。本当にそうなのかな…と思っていたけど、僕は他人から1番認知されていた肩書きであるWEBコンサルタントの肩書きを全てのSNSプロフィールから外した。

ビジネスコミュニティやプロデュース業は違う思いもあってやっているが、SNSだけの仕事は全て辞めた。1番のアイデンティがなくなるのは自分の価値がなくなるような気も少しあったが未練はなかった


まじめながんばり屋さんを守る会社として進むと決めた

幸いSNSはトレンドやプラットホームが変わるからよかったけど、今まで飽きっぽい人生、仕事も攻略するまでゾーンに入っては飽きるをくり返していた。今ならその原因がわかる。

自分は仕事を通して誰を守るのか?
何の課題解決をするか?
が決まっていなかったから

僕たちfeppiness株式会社のpure life diaryは何十年とかけてやっていく仕事。まだまだありたい姿の1%くらいしかできていない。
この手帳を届けるべき人はたくさんいる。もちろん国境も超えていきたい思っている。

なぜか?
国境を越えると、例えば日本で悩んでいることが、違う国の人から見たら「なんでそんなことで悩んでいるの?むしろかっこいいじゃん!」みたいなことが起きると思うから。pure life diaryを通じて国を超えたコミュニティを作っていけたら最高だなって思っている。

もう1つ、活動をしていくなかで手帳を届けていく以外に、まじめながんばり屋さんのために、手帳の「前後」のサポートが必要だと感じている。

まだ手帳を使うという前向きなエネルギーが出ない人、心に傷を抱えている人のモヤモヤを外していくこと。手帳を使うことで変化してきた人がもっと大きな変化を起こしたい、個別のサポート。

そんな課題を解決するべく、手帳の「前」の課題である人生のモヤモヤを解決するセルフケア講座を、手帳の「後」の飛躍に必要な個別に合わせたサポートとしてpure lifeコーチングを始めた。

今後feppinessは「まじめながんばり屋さんを守る世界一の会社」として必要なサービスをつくり、届けていき、変化をつくっていく。

いろんな人と手を取り合って実現していく。
これを読んでいるあなたもその一人になってくれたら嬉しいなと思います。

長い文章だったけど最後まで読んでくれてありがとう!

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