玄奘三蔵の印象
映画『ドラえもん のび太のパラレル西遊記』(1988年)に出てくる玄奘三蔵は、どちらかというと、いかつい「おっさん」です。1988年公開当時(実在の玄奘三蔵ではなく『西遊記』の)、「三蔵法師」といえば夏目雅子氏でした。あの『西遊記』は1978年放送開始です。私も80年代、再放送を毎夕見ていました。ですから、『パラレル西遊記』のこの「おっさん」が三蔵法師のモデルになった実在の玄奘三蔵だといわれても、違和感をおぼえた子たちはいたかもしれません。
『パラレル西遊記』の玄奘三蔵は、タイムマシンで唐の時代へ行ったのび太くんたちと西域で出会います。日焼けして、体格がよく、頑丈そうです。インドへの大変な旅の途中だからか、髪は伸び、無精ひげ。
史実では、玄奘が長安を出たのは貞観元年(627)8月で数え26歳です。トルファン(高昌国)に1~2か月滞在したあとタクラマカン砂漠の北縁を西進して天山山脈を北に越え、サマルカンドを経て南に進み、北西インドに入ったのが貞観3年(629)4月で28歳ですから、のび太くんと出会ったときの玄奘三蔵は27~28歳ということになります。
20代にしては貫禄ゆたかなので、つい「おっさん」といいたくなりますが、現代ではなく「7世紀のアラサー」であり、修行を積んできた抜群の唐僧です。仏教僧ではありますが、時代なりの生活も考慮しつつ早い円熟を加味するのも、娯楽フィクションとして許されるところでしょう。
玄奘三蔵の姿は、弟子たちが『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』に記しています。高僧の伝記における定型的要素や多少の誇張はあるかもしれませんが、見た目も動作も立派な人だったようです。
身長「七尺余り」は、唐の小尺(1尺=約24.6cm)であれば172.2cm以上です。「余り」が具体的にどれくらいかわかりませんが、「七尺余り」であって「八尺近く」ではないとすれば、175cm~184.5cm(=7.5尺)の範囲と想像していいでしょうか。
すると、今の日本の30代・40代男性の平均身長(171.5cm)より、けっこう大きいです。中国ですと、国土広大で多民族ですから全体を見てもあまり意味がないかもしれませんが、大雑把に見て、黄河以南より黄河以北のほうが平均身長は高い。統計によると、今、山東省、北京市、黒龍江省、遼寧省の男性の平均身長は175cmを超えているそうですが、生活した地域は違いますが、玄奘三蔵はそれくらいか、もっと背が高かったのかもしれません。
では、唐の時代はどうだったのでしょう。玄奘は大柄だったのでしょうか。あるいはただ、「七尺余り」だったから「七尺余り」と事実が書かれただけなのでしょうか。
手がかりを調べたところ、河南省の鄭州市や滎陽市の遺跡で発見された成人の遺骨から漢・唐・宋代の平均身長を推定した研究がありました。孫蕾氏・朱泓氏著「鄭州地区漢唐宋成年居民的身高研究」という論文です(『人類学学報』第34巻、第3期、pp.377-389、2015年8月、中国科学院古脊椎動物与古人類研究所)。
この研究によると、男性の平均身長は、漢代が169.52cm、唐代が167.03cm、宋代が164.49cm。女性は漢代が159.11cm、唐代が158.39cm、宋代が156.17cmだったそうです。調べた遺骨は漢代55人、唐代22人、宋代39人で、唐代男性の身長の範囲は、162.40~173.40cmだったということです。
鄭州市や滎陽市は、西安市(かつての長安)から少し東にずれますが、玄奘三蔵が175cm~184.5cm(=7.5尺)の範囲だったと仮定できるなら、同時代の中原・華北平原にいた人々の平均身長からすると、周囲に比べるとかなり背が高かったことが想像できます。
ところで、玄奘三蔵の見た目は、興味深いことに、インドの人が見ても魅力的だったのか、インドでは、そのせいで盗賊にさらわれ、女神ドゥルガーの生贄にされそうになったことがあり、その顛末が『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』に書かれています。
後半部分は、底本ではこう書かれています。
玄奘三蔵を見た盗賊の「今此沙門形貌淑美」というセリフを、長澤先生は「この坊さんはなかなかハンサムではないか」と訳されています。
長澤先生は「形貌淑美」をなぜ「ハンサム」と訳されたのでしょう。ぴったり合う日本語がなかったからかもしれません。英語の「ハンサム」は、容姿以外にも徳性や態度を評する概念で、辞書によれば女性にも使われる言葉だそうですが、日本語としての「ハンサム」は少し違い、一般的には男性に対して使われる言葉になっています。
しかし私は、原文の「淑美」が気になっています。
「今此沙門形貌淑美」はインドの盗賊のセリフですが、高僧伝などでは、立派な(男性)僧侶を評するとき、「淑美」という言葉を使っているケースはないような気がします。「淑美」をキーワードに大蔵経のデータベースを検索しても、そういう使われ方はヒットしません。
そもそも「淑」とは何なのでしょうか。
手元の『新字源』によれば、もとは「清くたたえた水」をあらわしたが、「俶」と通じて「善良」の意に用いられるようになった、とのことです。たしかに、西暦100年頃に後漢の許慎が著した中国最古の部首別字書『説文解字』には「清湛也。従水叔声」と書かれていますから、「善良」の意味は、それよりのちに生まれた意味なのでしょう。
また、『新字源』によると、「淑」は、「清くたたえた水」「きよい」「うつくしい」「よい」「善良である」「しとやか」、また、「婦人の美徳のあるさまをいう」とのこと。熟語も淑婉(美しくあでやか)、淑媛(才徳すぐれた婦人)、淑訓(よい教訓、女の正しい教え、女訓)、淑人(善良で説くのある人、美人)、淑範(正しい手本、婦人の正しい模範)など、「女性」にかんする/対するものが多いです。
現代の中国語でも、淑は「温和善良、美好」で、淑静は「(女子)温柔文静」、淑女は「賢良美好的女子:窈窕~」(『現代漢語詞典』第七版)。「窈窕」は美しくしとやかなことで、『詩経』国風・周南の第一詩、関雎「窈窕淑女 君子好逑」(窈窕たる淑女は君子の好逑)、すなわち「美しくしとやかである淑女は、君子のよい妻である」が、後世儒教が重視したこともあり有名です。日本でも「君が延岡に赴任されたら、その地の淑女にして、君子の好逑となるべき資格あるものを択んで一日も早く円満なる家庭をかたち作って」(夏目漱石『坊っちゃん』)という具合。
脱線しましたが、「淑美」は「賢淑美麗」、つまり「女性としての徳性」にすぐれ、さらに今の言葉でいう「ハオカン」(好看)、かっこいい、見た目がキレイというニュアンスがあるように思いますが、どうでしょう。
玄奘三蔵の関係文献では、探したところ、『大唐西域記』(玄奘口述、辯機撰)巻11、僧伽羅国の建国伝説が記された部分に「淑美」の語が使われていました。
水谷真成氏は、ここを次のように訳されています。
また脱線しますが、これはどういうことかというと、この僧伽羅国は(今のセイロン島らしいですが)、建国以前、鬼神の住む地だったそうです。
あるときこの島に、僧伽羅という人物と500人の商人が漂着します。女性(正体は羅刹女)たちの歓待を受け、それぞれ夫婦となり皆一子を得る。しかし女たちは夫らを疎ましく思うようになります。そんなある日、僧伽羅は、ある建物で牢に囚われている男を見つけ、女たちの正体を知ってしまいました。
そこで男たちは海岸にいる天馬につかまって逃亡を図るのですが、子どもを連れて追ってきた羅刹女たちに惑わされ、僧伽羅以外は皆戻ってしまいました。
最終的には、軍隊を率いて戻った僧伽羅に羅刹女たちが退き、僧伽羅国が建国されます。そしてこの僧伽羅こそは、過去世のブッダ釈尊であったといいます。
この話は日本にも伝わり、平安時代末期の『今昔物語集』巻5第1話「僧迦羅、五百人の商人と共に羅刹国に至る語」や、鎌倉時代前期の『宇治拾遺物語』91「僧伽多、羅刹の国の事」という話が生まれています。
ちなみに『大唐西域記』では、僧伽羅は牢にいた男から白馬のことを聞くのですが、『宇治拾遺物語』では、「はるかに補陀落世界の方へむかひて、もとろもに声をあげて、観音を念じけるに、沖の方より、大きなる白馬、波の上を游ぎて、商人らが前に来て、うつぶしに伏しぬ」(大島建彦校注『宇治拾遺物語』新潮社、2019年)となっています。
これは、『妙法蓮華経』「観世音菩薩普門品」(『観音経』)にある、暴風に遭い、船が羅刹鬼の国に漂着したとしても、誰か一人でも観世音菩薩の名をとなえたなら皆羅刹の害から逃れられる、という部分を思わせます。そもそも「補陀落」は、海の彼方にあるとされる観音菩薩の浄土です。『大唐西域記』の話が、平安時代から鎌倉時代にかけての「浄土信仰」の影響を受け、そのようにな話になったのでしょう。
長い脱線になりましたが、下記の部分の「淑美」のこと。
結局この王は、羅刹女が「淑美」であることに魅惑され、妻としてしまいます。羅刹女は、それこそ『詩経』国風・周南の「窈窕たる淑女は君子の好逑」を思わせるような淑女のふりをしてまんまと騙しおおせたということでしょう。
と、ここまで書いてきましたが、『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』において、玄奘三蔵を誘拐して女神の生贄にしようとした盗賊がいった「形貌淑美」は、やはり「ハンサム」とは別の訳し方が成り立つ可能性はあるのではないかと思えてなりません。
つまり、「インドの盗賊たちから見たら」、玄奘三蔵は、美男は美男でも、ちょっと女性的な美をも感じさせる部分があった、という含みはないものでしょうか。
また、インドの盗賊のセリフとして「今此沙門形貌淑美」としたのは、玄奘三蔵の謦咳に接した弟子たちにほかなりません。写真のない時代です。足かけ19年もの西域・インド大旅行を終え44歳で帰国を果たした玄奘三蔵の面立ちを見ながら、弟子たちは過酷な旅の前半の、「アラサー」だった頃の玄奘三蔵を想像し、そこにふと「淑美」を思わせるものを見出すことがあったのかもしれないと、さまざまな憶測ばかりがふくらむのです。