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『西遊記』と『般若心経』

先日、玄奘三蔵げんじょうさんぞう(602-664)が『般若心経』をとなえて砂漠の悪魔を退けたという話に触れました。日本の『今昔物語集こんじゃくものがたりしゅう』(1120年頃成立)といった説話集だけでなく、玄奘三蔵の弟子が師の遷化24年後に完成させた伝記『大唐大慈恩寺三蔵法師伝だいとうだいじおんじさんぞうほうしでん』(688年完成)にもみられるエピソードです。
しかし、玄奘三蔵の西天取経さいていしゅけい(きょう)物語に着想を得た小説『西遊記』では、『般若心経』(おもに『多心経』とか『心経』という名で出てきます)は妖怪に対してまったく通用しないのですよね。
このことは、かねて興味深いとは思っていました。

例えば『西遊記』第20回、「三蔵法師」がインドに向けて中国を出て1年目の夏のことです。
黄風嶺こうふうれいという険しい山の黄風洞に黄風大王なる魔物がいて、その配下である「猛虎」が三蔵法師一行に襲いかかります。まず猪八戒が戦い、孫悟空が加勢。一方、三蔵法師はうろたえて路傍に隠れますが、坐りなおして震えながら『多心経』をとなえていました。しかし猛虎は、妖術で自身を一陣の狂風と化し、『多心経』をとなえている三蔵を見つけるや、さっとつかんで飛び去ってしまうのです。
悟空はこのあと黄風大王に敗北を喫しますが、「霊吉りょうきつ菩薩」の助力で最後は勝利し、三蔵法師は救い出されます。

『多心経』が効かないなど、三蔵法師にしてみれば「話がちがう!」といいたくなりそうな事態です。

というのも三蔵法師は、この事件の直前、第19回で「烏巣禅師うそうぜんじ」という不思議な人物から『般若心経』を授かるのですが、烏巣禅師はその際、「わしがもっておる『多心経』一巻、五十四句、計二百七十字をば、魔障にぶつかったときに念ずるがよかろう。おのずから、危害も消えるであろう」(中野美代子氏訳『西遊記』(2)、2005年、岩波文庫)といっていました。「魔障」とは、仏道を歩むのを妨げる悪魔の障害のことです。
しかも、明の時代の『西遊記』にも清の時代の『西遊記』にも、『摩訶般若波羅蜜多心経』(『般若心経』)全文が載っています。
それなのに、かくのごとき始末。

ちなみに一行が烏巣禅師に会うのは、時期的には猪八戒を弟子にしたあと、沙悟浄と出会う前です(烏巣禅師は沙悟浄との出会いを予言します)。三蔵法師一行が烏斯蔵うしぞう(中央チベットの昔の呼び名)の国境を過ぎ、浮屠山ふとせん(浮屠はブッダのこと)という高山に至り、それを登ると烏巣禅師がいます。烏巣禅師はヒノキの木の上に柴草でこしらえた巣におり、そこから飛び降りてきます。
三蔵法師は烏巣禅師に礼拝し、お釈迦様がいるインドの大雷音寺だいらいおんじの場所を尋ねます。すると烏巣禅師は、「道のりは遠くとも、いつかは到着する日がやってくるものですじゃ。とはいえ、妖魔による障害は除き難い」と述べ、先に引用したようにいって『多心経』一巻を三蔵法師に授けたのでした。

ところが、『西遊記』の古形とされる『|大唐三蔵取経詩話』では、『多心経』は、天地をもゆるがす強い力を持つお経とされています。
『大唐三蔵取経詩話』は、三蔵法師の西天取経が「小説」的にまとまっている最古の文献です。宋代(960-1279)に出版されたもので、中国には現存せず、日本の高山寺(京都府)に伝わっていました。発見は1743年。しかも(欠損があり不完全ですが)2冊。現在は大倉集古館の所蔵で、国の重要文化財です。

さて、その『大唐三蔵取経詩話』は『西遊記』と違い、インドに着いても釈迦如来に直接まみえることがありません。釈迦如来がいる「鶏足山」山頂は、怒涛の谷川や岩壁に阻まれ、鳥さえも近づけない場所だったからです。
そこで三蔵法師一行は、香を焚き、鶏足山を望んで祈りを捧げ、「慟哭」します(ちなみに『大唐三蔵取経詩話』には猪八戒や沙悟浄は登場せず、孫悟空の原型と思われる猴行者、三蔵法師、他の同行者の計7人が一行です)。

すると「天地は暗闇となり、雷の音が鳴りきわたり、何万とも知れない白光がひらめき、耳もとで鐃鈸(シンバル)のひびきが聞こえる。元の明るさに戻ると、坐具の上に一蔵の経文が積まれてあった」(太田辰夫・鳥居久靖訳『西遊記』下巻、平凡社、1960年所収)ということです。
かくして5048巻のお経を授かりますが、なぜか『多心経』だけなく、それは帰途、授かることになります。

帰途のある夜、三蔵法師の夢に「神のような人」が現れ、「あす一人の人が汝に心経を授け、都に帰るのを助けるであろう」(前掲書)と告げます。すると翌日、彼方に沸いた雲の中に仏が姿を現しました。15歳ほどで容貌は端正。その仏が金鐶杖を手にした袖口から『多心経』を出し、三蔵法師にこう伝えます。
「汝に心経を授けるにより、大事に守って都に帰られよ。この経は、上は天宮に達し、下は地府を統べ、陰陽も測りがたいものであるから、ゆめおろそかに他人に伝えてはならぬ。縁うすき衆生には授けるわけにいはまいらぬのじゃ」(前掲書)

ですが三蔵法師は、東土の衆生のために旅に出たのです。『多心経』だけなぜ自由に伝えられないのでしょうか。当然、仏に尋ねます。
すると仏は、「この経巻をひらけば、たちまち白光ひらめき、鬼神は慟哭し、風波はしずまり、日月は光を消すのじゃ。どうして、他に伝えることができよう」(前掲書)というのです。
もう何がなんだかわからない、『多心経』の恐るべきパワーです。
三蔵法師が納得すると、仏は「定光仏じょうこうぶつ」を名乗ります。定光仏は燃灯仏ねんとうぶつともいい、ブッダ釈尊が過去世に菩薩として修行していた折、未来にブッダとなることを予言した(授記じゅき)仏です。

このようなパワーを持つ『多心経』の話は、宋代勅撰の物語集『太平広記』(978年成立)巻92にも出てきます。

これによれば、玄奘三蔵は旅の途中、インド北西部の𦋺賓けいひんという国で、険しい道や猛獣に困っていたところ、「頭面瘡痍、身体膿血」、つまり頭や顔に傷を負い、体に膿と血の見られる病気の年老いた僧侶に出会い、「多心経一巻」を口づてに授けられます。
そして玄奘三蔵がこれをとなえると、「遂得山川平易。道路開闢。虎豹蔵形。魔鬼潜跡」(宋李昉等奉勅編『太平広記五百巻』巻10、1755年)、つまり「ついに山川の平易なるを得、道路開闢し、虎豹は形をかくし、魔鬼は跡をひそむ」、という伝承です。

またもう一つ、20世紀前半に敦煌で発見された『唐梵翻対字音般若波羅蜜多心経』(大英図書館所蔵、『大正新脩大蔵経』第8巻)の序文にも、不思議なパワーを持つ『般若心経』のことが書かれています。

これによると、インドへの旅の途中、玄奘三蔵は益州(今の四川省)の空慧寺に泊まったとき、病気の僧侶に出会います(史実では、玄奘三蔵は若い頃、兄とこのお寺で修行しましたが、インドに向かうとき益州は通っていません)。玄奘三蔵の志を聞いたその僧侶は、インドへの遠い道のりには多くの困難があるからと、「三世の諸仏の心要法門」(『般若心経』)を口づてに授けました。夜が明けると、その僧侶の姿はなかったそうです。

その後、「三蔵は旅仕度して、しだいに唐の国境をはなれる。途中、厄難にあい、あるいは食糧が尽きたときには、記憶をたどりつつ心経を四十九遍、誦する。道に迷ったときは、人があらわれて教えてくれ、ひもじいときには、美味な食べ物が出現する。誠意をこめて祈れば、いつも神仏の佑助が得られた」(太田辰夫『西遊記の研究』研文出版、1984年)といいます。
『般若心経』が、まるで魔法です。となえると、おいしいご飯まで出してくれるなんて、まるでわけがわかりません。

そしてインドのナーランダー僧院に到着すると、あの病気の僧侶がいます。彼は玄奘三蔵を褒め、『般若心経』の「力により、汝の行途を護ってやれたのじゃ。経を受けてのあかつきには、早々と帰国し、汝の心願を満たすがよい。われは観音菩薩なるぞ」(前掲書)と告げ、空へ昇ってしまいます。
ゆえに『唐梵翻対字音般若波羅蜜多心経』の経題には「観自在菩薩与三蔵法師玄奘親教授梵本不潤色」、つまり、このお経は観自在菩薩(観世音菩薩)が玄奘三蔵に直接教授したサンスクリット語本を潤色することなく忠実に漢字に置き換えたもの(音訳したもの)である、と書かれています。

ちなみにこの音訳者は、父はインド人、母はサマルカンドの人といわれる西域涼州出身の訳経僧である不空三蔵(705-774)とあり、また、この序文は、玄奘三蔵の弟子である基(慈恩大師、632-682)によるものと書かれています。
基は17歳で玄奘三蔵の弟子となり訳経にも参加し、のちに玄奘三蔵を鼻祖とする法相宗の祖となった人です。序文は長安の「西京大興善寺石壁」(どのような建物か、外壁か内壁かなどは不明)にあったものを写したと書かれていますが、不空三蔵も慈恩大師も、本当にこのお経にそのようなかかわりがあるのか、真偽はわからないようです。

さて、文献の年代を整理しておきますと――

【唐の時代】
●『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』全10巻

玄奘三蔵示寂24年後の688年成立。「慧立えりゅう本、彦悰げんそう箋」といわれ、玄奘三蔵の弟子である慧立がもとの原稿を著し、のちに彦悰が諸資料を補うなどして完成させたものとされます。玄奘三蔵の伝記はいくつもありますが、玄奘三蔵本人の謦咳に接した弟子たちの手になる本書が最も正確で詳しい文献とみられています。

【宋の時代】
●『大唐三蔵取経詩話』

先述のとおり、日本だけに現存。『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』とも、平安末期の説話集『今昔物語集』(1120頃成立)の「玄奘三蔵天竺に渡り、法を伝え受けて帰って来る語 第六」とも、ぜんぜん違う内容です。太田辰夫氏・鳥居久靖氏訳『西遊記』下巻(平凡社、1960年)に現代語訳が収められています。

【明の時代のなかば】
●『新刻出像官板大字西遊記』(20冊100回)

現存最古の小説『西遊記』で、金陵(今の南京)の世徳堂という書店が1592年に初版を刊行しました。「世徳堂本」と呼ばれ、一般に『西遊記』はこれをもって「完成した」といわれます。登場人物、ストーリー、話の順番が、以降ほぼ変わらなくなるためです。
また、多数の詩を含むなどで長大なため「繁本はんぽん」と呼ばれ、これをもとに簡略化した「簡本かんぽん」が多数つくられていきました。

【明の時代の末】
●『李卓吾先生批評西遊記』(10冊100回)

明末に今の江蘇省の蘇州で刊行されました。中野美代子先生によると、内容は世徳堂本とほぼ同一だそうです。日本では国立公文書館(内閣文庫)にあり、パブリックドメインとして公開・提供されています。なお、この完訳本が中野美代子先生訳『西遊記』全10冊(岩波文庫、1998年全巻結)です。

【清の時代の末】
●『西遊真詮』(100回)

清の康煕こうき年間(1662-1722)に刊行された『西遊記』小説です。繁本と同じ全100回ですが、詩を割愛し、細部を整理した「簡本」の代表的作品といわれます。この完訳本が、太田辰夫氏・鳥居久靖氏訳『西遊記』上下巻(平凡社、1960年)であり、これが日本初の完訳『西遊記』です。
なお、『西遊真詮』には、世徳堂本にはない三蔵法師の出生譚(第9回 陳光蕋 任に赴いて災いに会い 江流の僧 讐を復して本に報ず)が含まれています。三蔵法師の出生譚は、宋代にはあったものが明代に省かれ、清の時代に復活した、という見方もあるようです。

――と、並べてみるものの、『西遊記』の起源は、はっきりしません。そもそも『西遊記』は、『水滸伝』や『三国志演義』と同じく、「語り物」に源流があるらしいためです。

例えば、中国文学者の小川環樹先生によると、『大唐三蔵取経詩話』は、瓦子がしという都市の盛り場(寄席のような娯楽施設や飲食店などさまざな店が軒を連ねた)で、日本でいう講談師のような「説話人」が演じる際に用いる底本のようなものだったのではないかということです。

小川先生曰く、『大唐三蔵取経詩話』は「俗語をまじえた平易な文体でつづられていて、おそらくそれら講談師の話と同じような内容をもつであろうと考えられるからであり、あるいは講談師はもっとくだいて話していたかも知れない。ともかく、これが教養ある人々のよむ書物でなく、あまり多くの文字の知識のない人のためのものであることは明らかである。しかもその版本が二種もつたわっていることは、この物語が流行していたことをおもわせる」(「『西遊記』原本とその改作」『中国小説史の研究』第3章、岩波書店、1968年)。

『西遊記』は、より人を楽しませるため次々に要素が追加され、改変されながら繰り返し語られてきたようです。そして形態が分岐し、小説が生まれ、詩や演劇が生まれ、元の時代に発達した雑劇(元曲)の題材にもなり、いつしか全100回という、今私たちが読んでいる大長編になった、ということのようです。

とはいえ、失われた『西遊記』はおそらく多く、刊本同士の関係はきわめて複雑。明本や清本ですら、冒頭の詩の結び「すべからくよ、『西遊釈厄伝』を」にある『西遊釈厄伝』が何であるか不明です。祖本(もとになった異本)の題でしょうけれども、実在は確かめられていません。また、詩話と明本の間である元代は刊本の『西遊記』が現存しないため、ほかの資料にみられる引用などを手がかりに研究がされてきたようです。

さて、そのような状況であっても、唐、宋、明、清と文献を比べてみると、『西遊記』小説における『般若心経』は、時代を下るにつれ、超常的なパワーを失っていっているようにみえます。
しかし一方では、『般若心経』は、不安や恐怖といった人の心の状態に対し、プラスのはたらきをするものとして語られるようになっていったようにみえます。

例えば清代の『西遊記』、『西遊真詮』第30回では、道が山に阻まれているのを見た三蔵法師が「弟子たち、よく気をつけよ」というと、孫悟空はこう返します。
「お師匠さま、出家の人が在家の人のようなことを言いますな。あの烏巣禅師の心経にも、心に罜碍さわりなければ方に恐怖なしとあるではありませんか。ただ心の垢を掃き清め、耳の塵を洗い落としさえすれば、憂慮されることはありません。あとはわたくしにお任せ下さい」(太田辰夫氏・鳥居久靖氏訳『西遊記』上下巻、平凡社、1960年)

また、第43回では、ふと水の音が聞こえ、三蔵法師が「またどこかで水の音がする」と不安がるのですが、悟空は笑って、「お師匠さん、あなたはやっぱし苦労性だ。われわれ一行四人のうち、あなただけに水の音が聞こえるなんてことはありませんよ。例の多心経の文句をまた忘れちゃったんですね」といいます。
すると、三蔵法師は「多心経は、烏巣禅師から口授されたもの。今でもしょっちゅうとなえている。お前、わたしがどこを忘れたと言うのだい?」と返すのですが、悟空は三蔵法師に向かって、「『無限耳鼻舌身意』ということをお忘れですよ。われわれ出家人は、眼に色を見ず、耳に声を聞かず、鼻に香をかがず、舌に味をあじわわず、身に寒暑を知らず、心に妄想を抱かない――これを六賊を退けると申します。あなたは今は経を求めることだけに専念すべきです。妖魔をおそれて命を惜しみ、斎を求めて舌を動かし、うまき香りを好んで鼻をぴくつかせ、音を聞いて耳を驚かし、事物を見ようとひとみをこらす――つまり、六賊を招いて、その跳梁にまかせるようなことで、どうして西天に仏を拝すことができましょう」と諭すのです。

第93回でも、悟空は三蔵法師に『般若心経』を忘れないよう諭します。
三蔵法師は高い山を恐れ、「弟子よ、前の山は薄暗いようだから、用心しないといけないよ」というのですが、悟空は「烏巣禅師の心経」をお忘れではないかと返します。
すると、「般若心経なら誦まない日とてない。さかさからでも誦めるくらいだ。どうして忘れるはずがろうか」と三蔵法師。
悟空は「お師匠さまは誦めるだけでしょう。講義をしていただいたことはないようですね」とさらにいいます。
三蔵法師は「この猿め、どうしてわしに講義ができないことがあるものか。して、おまえはできると言うのか」と逆に問うのですが、悟空は「できますとも」、と。
そして、二人はそれっきり黙ってしまいます。
そこで猪八戒と沙悟浄は、悟空ができもしないのに出鱈目をいっていると馬鹿にしだすのですが、三蔵法師は、「悟能も悟浄もいいかげんなことを言うのはやめなさい。悟空のは無言の講義だ、これが真の講義なのだ」と叱りました。
通じ合っていく三蔵法師と孫悟空の心、旅の中で成長していく悟空の心が示唆されているように感じられます。

『西遊記』は、失われたものも含め、数多く存在しましたので、一概にいえることかは私にはわからないのですが、『西遊記』をより楽しくおもしろいものにしていこうという意図のもと、妖怪を打倒するパワーは孫悟空に集中させ、『般若心経』は(仏教における理解や位置づけはさておき)惑わされず動じない心をもたらし、人生を支えるようなものとして位置づけが次第に変えられていったのではなかろうかと想像するのです。