精霊馬と陰陽師
タイトル画像は、息子の初盆のときの写真である。つい先頃のことのように思えるけれども、もう何年も前のことだ。
キュウリとナスのこれは、わたしの実家ではつくる習わしがなかったが、こういうものがあるのは知っていたから、妻にききながら、このとき初めてつくってみたのだった。「向こう」で困らないようにと、棺にはあれだけいろんなものを入れてあげておきながら、一方では、息子は今も家に一緒にいるように思っていたから、彼がどこかから帰ってきて、またどこかへ帰っていくというようなことは、まるで受け入れがたい話だった。それにもかかわらず、こうして、キュウリとナスで馬だか牛だかをつくる。何かしてあげられずにいられないという気持ちがあったのだろうと思う。
また一方で、こういうことをすることで、わたしの中で知らず知らず、息子がだんだんと遠いところの人になっていってしまうのではないかと心配になった。亡くなった人には亡くなった人のいるべき所があるのだから、それでいいのだ、という人もいるだろう。しかし、今もこういうものを、おもに妻がつくってくれてはいるが、わたしは依然、息子がどこかから帰ってきてどこかから帰っていくようには感じることがない。
ホウズキも飾った。帰ってくる人が目印にできるように出す盆提灯に見立ててこれを飾る風習があるのだと妻は言っていた。どの地域でも、ホウズキは飾るのだろうか。
キュウリとナスのあれは「精霊馬」と呼ぶのだとか。うちは割り箸で足をつけるが、イモガラを刺したり、ワラを束ねてつくる地方もあるそうだ。むかしは割り箸などなかったろうから、そちらのほうが伝統的なのかもしれない。呼び名も地域によって違うのだろうか。
お盆は、7月か8月かという時期のことだけでなく、行事の仕方が地域によっていろいろと違うのだと聞く。だから、もし「お盆の心はわかったとして、行事の『正式な』やり方を知りたい」ときかれたとしても、せいぜい盆棚の祀り方の「一例」を紹介し、各地域・各家庭それぞれの慣習に従いましょう、と応じるのが穏当だということになるのだろう。
そもそもお盆は、仏教だけでなく、いろいろな思想や信仰の混淆したものだそうだ。たしかに、そのようだ。キュウリとナスの精霊馬は、菩提寺の盆棚にもあったが、かといって、仏教由来であるような感じがしない。亡くなった人の乗り物なら、一種の「依代」である。あれは仏教というより、神道か陰陽道の術に着想を得たか、少なくとも何らかの関係はあるのだろう。精霊馬とは、もともと疱瘡神(天然痘をつかさどる神)など災厄の元凶である鬼神のたぐいを乗せてそのまま追い払ってしまうための依代が原型ではないかとする見解をどこかで読んだ。
平安時代、安倍晴明(921~1005)の師であった陰陽家・賀茂忠行(生没年不詳)の息子で、晴明の師か、もしくは兄弟子であったといわれる有能な陰陽家に賀茂保憲(917~977)という人がいた。晴明は母親が狐であったとか、幼い頃から人ではないものを見ることができたとか、いろいろと伝説があるが、賀茂保憲もまた天性の「見鬼」であったのかもしれない。10歳にして鬼を見て、父・忠行を驚かせたことが、『今昔物語集』巻24の第15「賀茂忠行道伝子保憲語」(賀茂忠行、道を子・保憲に伝ふること)に書かれている。
保憲が10歳のとき、父につきしたがって祓えを行うための殿舎に行く。その帰途、車の中で保憲は父に尋ねた。
「祓えの所で、私は見ました。見た目が恐ろしい姿で、人ではないけれども人の形をしたものどもが、20~30人ほど出てきて、お供えものを取って食べて、つくり置かれていた船や車や馬に乗って、ばらばらに帰りました。あれは何ですか、お父様」(拙訳)
これを聞き忠行は驚いた。
「わたしは陰陽道に関しては達人だが、幼い時は、そのように鬼神を見ることはなかった。陰陽道を習ってから、ようやく目に見えるようになったのである」(拙訳)
保憲は将来並外れた能力を持つ者になると思った忠行は、その後、自分が知っている陰陽道のすべてを保憲に伝授したという。
話がすこし脇道にそれたが、どこが精霊馬に関係するのかというと、祓の所に現れた鬼神たちが「造り置きたる船・車・馬などに乗て」帰ったというところである。何を材料にしてつくったのだろうか。その船・車・馬は、依代である。鬼神に食べ物をごちそうし、乗り物を用意し、それに乗ってもらったところで、乗り物ごとその場から去ってもらう。
亡くなった人のための乗り物といえばこのイメージがあるものだから、キュウリやナスの精霊馬を見ると、このような陰陽師の話が思い出されて、狩衣に烏帽子で笑う野村萬斎さんが頭に浮かぶのである。