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意見と感想のはざまで。

映画を観る
音楽を聴く
漫画を読む…

人はなにかに触れると感想を抱く。

おもしろかった
かっこよかった
つまらなかった…

それは感想であり、その人の意見でもある。

言葉の意味はきれいに線引きできないから、「感想であり意見でもある」というのは何もおかしくない。

だけど…

「それってただの感想ですよね」という状態で、「意見を伝えた」と勘違いしてしまうのは問題だ。感想や気持ちは、「意見」ではない。

こどもがスポーツの上達方法で悩んでいる。
その様子を見て声をかける。

君には可能性がある。
大丈夫!やればできるよ!

悪いことではない。
それで頑張れることもあるだろう。

が…

それは所詮、その人の期待を言語化しただけ。
その人の意見ではない。

意見とは「自分がその人の立場ならどう振る舞うか」という思索の結果だ。たとえば…

そうか、試合で活躍できなかったのか…。
俺なら筋トレからやり直すかな。

あー、わかるよ。俺もそういう時あったわ。
ちなみに俺のときはまず自分のプレーを録画して見直してみたよ。

しんどいよなぁ。一旦気分転換してみてもいいかもね。
俺なら3日くらい練習休むかも…。

みたいな話。

自分ならどうする…
かつての自分はどうした…

そういう思索の末に紡ぎ出される具体的な話が、その場における「意見」であって、「がんばれ」や「やればできる」なんてのはただの感想・期待にすぎない。

学校の先生も、保護者も、そこを見落としてることが多いように感じている。

アドバイスを求めてきた子に、何のヒントも与えず、ヒントにたどり着く手段すら示さずに精神論で激励する先生。

学校でトラブルを起こしたわが子の話を聴き、先生の対応に文句を言うだけの保護者。

あなたがその子なら、その場面でどう振る舞ったんですか?

その思索の結果を伝えてあげてくださいよ。

それが「自分の意見を言う」ということなんです。批判も期待も等しく無責任。何の思索もなくその場で吐けるただの感想に過ぎない。

自分の意見を言いましょう。

放デイのスタッフをしながら、わが子の非行に悩む保護者からの相談に応じたり、教員等への研修などを行っています。記事をご覧いただき、誠にありがとうございます。