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3月26日:結果と原因のあいだに確かに存在しているもの。

おはようございます。

最近、仕事とは少し違ういろんな依頼と相談が矢継ぎばやに舞い込んできて何が起きてるのかよくわかってないへいなかです。

周りが僕の人生を進めようとしてくれてるようです。

#世界に感謝

さて今日は、昨日受けていた相談の最中に自分の中で結晶化した感覚について。自分のためにも少しまとめて書いておきます。

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昨今は障害も特性と呼び、生きる環境を選ぶことが推奨される世の中になりました。

合わないならほかへ移る

それが当然の選択肢になったことは喜ばしい。

ただ

やっぱりそうした風潮の中で、重大な見落としが発生していると僕は思っています。社会に適合できずに生きづらさを抱えた人たちと、それを支援する心理屋や教育者の中で起きている勘違いです。

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「ブラック企業」に代表されるように、人が環境の過酷さに耐えきれずに壊れた時、その環境の理不尽さを糾弾する声は年々大きくなっている。

それ自体はやっぱり喜ばしいこと。正しいと僕は思う。

でも

学校や会社で人が壊れた時、その被害者となった人に対して「合わなかった」とか「あなたは悪くない」という寄り添いの中で「実力不足」を見落としていないかなと。

そこを見落としたままの寄り添いは「ありのまま」を「今のまま」にすげ替えて、ただの現状肯定と強固な停滞を生むのではないか。

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法務教官は公安職です。夜間巡回や制圧も仕事。逃走事故に対しては走って追いかけることも当然、仕事です。手錠も扱うし片道3時間、護送のために運転することもある。

それは体力的に決して楽とは言えず、職場の人間関係以前にそうした勤務体制自体に合わせられずに体調を崩す人も、毎年一定数いるように思う。

朝から普通に働いて、翌日の朝や昼まで仮眠3時間で勤務するなど、過酷な労働環境であることは間違いない。しかもその中で複数の非行少年たちと向き合い続けるわけだから心身ともに負荷の高い仕事なのは事実だろうと思う。

もしある法務教官がその負荷に耐えきれずに心身を壊したとしたら、それは、とにもかくにもスタミナ不足を中心とした実力不足というのが、厳然とした事実だ。

なぜその人がその程度の実力(スタミナ等)なのか…には様々な理由があるだろう。繰り返しになるが勤務体制自体が過酷なのも間違いない。

けれど…

それが求められてる現場で、自分にそれができなかったのなら、その要因がいかなるものだろうと結果として「実力不足」なのは事実だ。

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実力不足自体は悪いことではない。

そこにはもしかしたら持病などの本人にはどうしようもない背景もあるだろうし、センスや生い立ちの影響だってきっとある。

でも

過酷さに耐えられず心身を壊した

という現実に対して、実力不足という側面を無視して「大変でしたね」「あなたは悪くありませんよ」「大丈夫、ありのままのあなたでいいのよ」と居心地のいい言葉だけを並べるのは明らかにまちがっている。

僕は今、朝と夜に分けて合計100回の腕立て伏せが習慣になっているけれど、最近は100回やっても筋肉痛にならなくなってきた。昨年腕立てに目覚めた時には20回ずつやっても60回にたどり着けなかったというのに。

腕立て100回はたぶん結構過酷だ。
できない人の方が多いだろう。

でも

今の僕にとってそれは過酷ではない。
やればできる普通のことになってきた。

それは、「腕立て100回」というタスクに対して僕の筋力などの対応力の方が大きくなってきているということだ。

別に100回できなくたって何にも悪くない。でも100回できる実力があればできるのも事実だ。

遺伝だろうとトレーニングの結果だろうと、今の自分に100回をやりきれる実力(筋力など)があるからやれる。かつてそれができなかったのは、理由はどうあれその時点で僕に100回やりきるだけの実力がなかったってことだ。

人の実力(能力や技術、知識、人格、気質、価値観などなど)には、本人の意志だけではどうにもならない部分だってもちろんある。身体能力などは特に、遺伝の影響も少なくないからだ。

ただ

遺伝だろうとトレーニング不足だろうと実力不足は実力不足なんだ。だから対応しきれず壊れた。

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実力不足は悪ではない。
そこは間違ってはいけない。

実力不足は断じてダメではない。

でも

実力不足を認識せずに背景(遺伝や家庭環境など)にばかり目を向けても、何も生まれない。

学校がしんどい
就活がしんどい
職場がしんどい

息苦しくなりその場に耐えられなくなる…

そこにあなた自身の責任はもしかしたらないこともある。理不尽な上司の病的な要求が理由のこともあるだろう。

そんな理不尽な要求に応える実力なんて、なくて普通で、これからもなくていいのかもしれない。

けれど

もし何らかの理由で自分にそれを受けきって黙らせる実力があったとしたら…息苦しさなんて感じなくて済む。その背景がセンスだろうと不遇な生い立ちだろうと、またその実力自体が必ずしも必要なものでなくても…

その時点でアホな上司の病的な要求を平気で受けきって結果を出し、自分の裁量を増やしていけるだけの実力があったなら、少なくとも壊れることはない。

最近の「支援」や「教育」は、原因と結果の間にある「実力」という概念を見落としすぎていないかと思う。

僕には遺伝的な運動性能はない。

でも

今僕は50mを6秒台で走れる。

それは努力の結果であり、それができない人にも否はない。

50m先で誰かが困っていたら、どんな理由があろうと結局足の速い人間の方が駆けつけるのは速い。

結果には自分の実力が大きく関係している。

自分の生い立ちやセンスなんてのは結果ではなく実力に関わっているんだ。

そこを勘違いしてはいけないと僕は思う。

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放デイのスタッフをしながら、わが子の非行に悩む保護者からの相談に応じたり、教員等への研修などを行っています。記事をご覧いただき、誠にありがとうございます。