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自分の甘えと悔しさ

みほです。

あるクローズドなコミュミティの中で
読書会を主催しているのですが

わたしの至らなさで
大切な友人から
愛のムチをいただきました。

情けないことに
最初に出てきたのは
自分を守るための言い訳

これが今のわたしの精一杯
まだまだ練習中の身で
実践の中でうまくなっていけばいい

なんて謙遜に見せかけたと思えば

有料のセミナーをアーカイブで見ることにして
読書会に来てくれたと言ってくれたけど
それならそっちに行ってくれてよかった
「かわいそう」で来てほしくなかった
(素直に喜びに感じればいいのに)

なんて拗ねて

何よりも
情けないのが
全部
「わたしが」
がベースで

どうしたら
最も相手に受け取ってもらえるか?
伝えられるか?伝わるか?

「伝わらなくてもいい」
「理解してもらえなくてもいい」
はそうかもしれないんだけど
それは結果論で

伝えたい人には
理解してほしい人には
その努力を惜しむべきじゃない

しかもその努力は
独りよがりじゃいけない

丁寧に丁寧に
フィードバックをもらって
作り込んでいく
磨いていく
高めていく

その繰り返し

楽しさに甘えていなかったか?

「無料」に
「友人」に
甘えていなかったか?

それは自分の在りたい姿だったか?

わたしと相手は違う人間で
わたしがわたしのまま
わたしの世界を垂れ流していても
伝わらない

それでも
わかりあっていきたいから
わかちあっていきたいから

言葉を紡ぐ
会話を重ねる
表現を磨く

頭ガツンとやられた

悔しかった。
自分の甘さに。
自分の非力に。
自分の慢心に。

慢心するほど
何もやってないのが
恥ずかしかった。

でも、
大切な人が
愛を込めて
伝えてくれたから
(しかも永遠にダメ出しして
 くれるらしい、優しい。笑)

「もうやだ知らない!」
「一生懸命やったんだもん!」

って拗ねずに
(ちょっとは拗ねるけど)

受け取りたい
受け取めたい
次こそは!

って思う、ほんとに。

今言ってもらえたことが
有難い

そうやって
つき合ってもらえることが
心の底から有難い

へたれでも
ぽんこつでも
なんでもいいけれど
あるがままで
いいんだけど

今のままで
いいわけでは
なかった

自分の「与える」MAXを目指すんじゃなくて
相手「受け取り」MAXを目指す

もうわたしは
与える側
もう十分すぎるほど
受け取ってきた

自分がうすっぺらい?
知識も考えも浅い?
「お金の本」で読書会
やろうとしてるけど
お金の器も流れもまだまだ?
批判される?
説得力がない?

それは「わたしの」都合

そんなこと
どうでもいいんだ
本当は

そんなことより
相手が受け取れるMAXを目指して
自分が差し出せるMAXを出す

相手が先
自分があと

与える側に立つってきっと
そういうことかもしれない
と思う

思うだけじゃなくて
日々日々
身にしみこませる



みほ

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