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「GDP」発 「快楽」経由「霊的高次元」行き

「義」とは何か?を知りたいと思ってる。

株価や経済成長率しか社会の進歩が測れないのか?という疑問から「GDP」という指標の替わる指標を探した。それが、GNHだったり「真の進歩指数」だった。

そもそも「貨幣」という相対的な物差しで測定できるか?という話だ。
(貨幣は、付加価値の交換可能性でしかなく、価値そのものでは無い)

なのでGDP自体は「義」とは違う。幸せそのものを定義して、それを極大化するのが「義」であるとするだろうか?

美味しいものを食べれる、好きな異性と温めあったり、ぐっすり眠れたり、快楽が多く、苦痛が少ないという社会の事だ。

ブータンではGNHを個々人への綿密なアンケートで測定しているという話を聞いた(今はそれも失敗か?)。

SF好きで思考実験の好きな僕としては、脳内快楽物質やストレス物質を測定して、科学的に人類の進歩が測れるかもと、空想したものである。

流行りのスマートウォッチみたなものを国民全員が着けてリアルタイムに、脳が感じる快・不快をデータベースにかき集め、そのビックデータからより良い社会を目指すような、、、

でも、思考はネガティブな方向に行って、国民を麻薬漬けにしたって、その社会は幸福度最大のような数値になりそうだと。

この着想から、前後関係とは少しずれてるかもしないけど、そもそも人類は「快楽」を求めて存在してないんじゃないか?と、僕は跳躍してしまった。

だったら、犬や猫も、その生物としての構造に埋め込まれた、快・不快を追っている。その刹那的な快・不快を追うだけの存在として、人類を定義してしまったら、それを「義」と定義してしまったら、、、

これだけ複雑な思考を許された人類は、その叡智をどう使えば良いのか?

「霊長」である我々の生は、何かしら霊格を上げるために使われるべきである。

例えば、旅人を救うために火に飛び込んだ「うさぎ」のように。

つまり、個の「苦痛」を集団の利益に転化できるものの正体が「義」であるのだろうか?

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