表現の自由と財産権の関係。津田大介氏の炎上問題への考察。令和元年8月3日



令和元年8月3日投稿


①前書き

②表現の自由と私有財産権との関係

③表現の自由の委任・代理行為

④表現の自由と公金(共有財産権)との関係

⑤説明責任

⑥政治家と表現の自由(令和元年8月3日23時に追記)

⑦最後に(令和元年8月11日20時頃に追記。青識亜論氏との対話・議論による互いの齟齬の解消)



①前書き



あいちトリエンナーレ2019の企画展「表現の不自由展・その後」で「平和の少女像」が展示され、ネットで炎上し議論が沸き起こっております。


議論の内容は様々ありますが、議論の中核は「表現の自由」について議論されておられるかと思います。


様々な主張があり、みなさん興味深い論を主張されておられますが、私が納得できる論筋が無いので、私も議論に参加するべく小論を提示したいと思います。


私の問題意識は、表現の自由と公金(共有財産権)との関係性です。

あいちトリエンナーレは文部科学省が支援しており、津田大介氏の展示された表現作品に対して、展示から作品を取り下げることを要求することは、表現の自由において正当な行為なのか?不当な行為なのか?です。

表現作品に対する批評は自由です。

問題はやはり展示に対する「政治的なクレーム」です。「政治的なクレーム」は表現の自由を「毀損」する行為なのか?それを小論で見て行きたいと思います。


文部科学省 あいちトリエンナーレに対する支援について - 愛知県(PDF)




②表現の自由と私有財産権との関係


結論から述べます。

表現の自由は財産権無しには成り立たない自由です。財産権と無関係に表現の自由は存在しません。財産権と表現の自由は密接に関わりを持ちます。

まずこれを覚えておいてください。


では今から表現の自由と「私有」財産権との関係について考察していきます。


HPやブログや掲示板などのコメント機能には、非表示機能やブロック機能や削除機能があります。世の中には粘着質で変な人がいますから、変なコメントとかは消したいのが人間の性ですね。


さて、例えばTwitterの凍結機能ですがこれは表現の自由を毀損する行為でしょうか?Twitter社の判断による凍結やアカウントロックなど、これらは表現の自由を毀損しているのでしょうか?


多くの人は、それはTwitter社の自由と判断されることでしょう。なぜでしょうか?


Twitterのサービスは、Twitter社の私有財産権に帰属されております。Twitter社が望まない表現に関して、例えばヘイトスピーチや侮辱的発言などは、Twitter社は私有財産権の自由が毀損されると判断されます。

Twitter社は自己の私有財産権を守るために、これらヘイトスピーチや名誉棄損的発言などを「削除」できる自由があります。


ヘイトスピーチや侮辱的発言などをされる方が「表現の自由を侵害された!」と主張した場合、その主張に正当性は存在するのでしょうか?


彼らの主張に正当性は存在しません。Twitter社の私有財産権を侵害してまで、表現の自由を主張することはできないのです。

ヘイトスピーチや侮辱的発言などをされたいのでしたら、自己の私有財産権に帰属した範囲で、表現すれば良いのです。例えば、自分が所有する家とかですね。


自己が所有する家で何を表現しようが、基本的に自由です。部屋の中で「アベちゃん、死ね!」とか何を表現しようが自由です。


ですが、例えば他人の家で許可も取らずに「アベちゃん、死ね!」なんて表現されても、非常に迷惑ですね。家の壁とかに「アベちゃん、死ね!」と落書きされても大迷惑ですね。



他人の家に許可も取らずに表現する行為は、私有財産権の侵害行為でしかありません。他人の家の壁に落書きをする「表現の自由」なんて存在しません。


落書きをしたいのならば、自己の私有財産権に帰属する範囲で行うのが、表現の自由の本質です。他者の私有財産権を侵害してまで表現をする自由は存在しません。それは「表現の自由」では無いのです。


表現の自由は財産権無しには成り立たない自由であり、財産権と無関係に表現の自由は存在しないのです。財産権と表現の自由は密接に関わりを持ち、表現の自由は財産権の行使でもあります。

このことを表現の自由を考える上で理解して頂きたいと思います。



③表現の自由の委任・代理行為


世の中にはクリエイターという優れた表現者がたくさんおられます。私たちは私有財産を自由に使い、彼らクリエイターに表現作品の仕事を依頼しております。


例えば、自分の家の壁に「アベちゃん、死ね!」という表現作品をクリエイターに依頼することができます。もちろんクリエイターが仕事を受注するかは、クリエイターの自由です。


さて、例えば私がクリエイターに「アベちゃん、死ね!」というテーマで表現作品を作って欲しいとクリエイターにお金を出して依頼したとします。

クリエイターがテーマ通りの「アベちゃん、死ね!」という表現作品を納品したのならば、私の私有財産は毀損されず「契約性」に矛盾がありません。


ですが、もしクリエイターがテーマ通りの「アベちゃん、死ね!」という表現作品を納品せずに、「アベちゃん、最高!」という表現作品を納品したのならば、私の払ったお金つまり私有財産は毀損され「契約性」に矛盾がでます。


さて、これはクリエイターの「表現の自由」でしょうか?それとも単なる契約違反の「私有財産権への毀損行為」でしょうか?もちろん「私有財産権への毀損行為」になります。


いくらクリエイターが「表現の自由が毀損された!」と叫ぼうとも、他人の私有財産権を毀損してまで「表現の自由」を主張することはできないのです。「表現の自由」を行使したいのならば、自己の私有財産権に帰属する範囲で行えば良いのです。

他者の私有財産権に帰属する範囲の表現は、あくまでも他者の私有財産権に帰属する範囲に留まらなければならないのです。


このことを表現の自由を考える上で理解して頂きたいと思います。



④表現の自由と公金(共有財産権)との関係


表現の自由と公金(共有財産権)との関係について考察していきます。この問題こそが今回のあいちトリエンナーレ2019の企画展「表現の不自由展・その後」の炎上事件の本質になります。


私有財産権と表現の自由との関係を見れば分かるように、他者の私有財産に対して許可も取らずに「表現の自由」を行使することはできません。あくまでも自己の私有財産権に帰属する範囲にしか「表現の自由」は存在しません。


では公金つまり国民の共有財産に対して、表現の自由はどの様な関係を持っているのか?それを考察して行きたいと思います。


共有財産、例えば市役所で考えてみましょう。

市役所は誰のモノでしょうか?市長のモノでしょうか?市役所に努める公務員のモノでしょうか?税金を払った市民のモノでしょうか?それとも一個人の私有している財産でしょうか?


もちろん税金を払った市民のモノになります。市長でも公務員でも一個人のモノでもありません。市民のモノ、市民の共有財産です。


さて、市民の共有財産である市役所の壁に、一個人の市民が市役所から許可も取らずに「落書き」という表現を行使する自由は存在するのでしょうか?


一個人の市民も税金として共有財産権を持つ資格があります。共有財産権を持つ資格があるのならば、市役所から許可も取らずに「落書き」という表現を行使するのは自由でしょうか?


もちろん、その様な自由は存在しません。もし共有財産に市役所から許可も取らずに「落書き」という表現をしたのならば、それは共有財産に対する「私有化」行為であり、「占有化」行為でもあります。


共有財産権に対して、私有的占有的行為を行使する「表現の自由」は存在しません。私有的占有的行為は共有財産権に対する毀損行為でしかありません。私有的占有的行為は「表現の自由」では無いのです。


市民の共有財産を管理しているのが、行政なのです。私たちが選挙で選ぶ行為の本質は、共有財産を管理者を選挙で選んでいるのです。管理者の下僕が実務を行う公務員です。


共有財産の管理者から許可も取らずに、「私有的占有的」表現の行為は「表現の自由」では無く、「共有財産への毀損行為」でしか無いのです。

このことを表現の自由を考える上で理解して頂きたいと思います。



⑤説明責任


市民の共有財産を管理している行政には「共有財産がどの様に使われ、その使用目的の正当性を説明する」説明責任があります。そもそも説明責任とは何でしょうか?


説明責任とは海外で生まれた考え方で、英語でaccountabilityと言います。。accountabilityとは「ac"count"ability」つまりcount(カウント)のことです。何をカウントするのですか?もちろん「お金」をカウントするのです。

元々はアメリカにおいて1960年代に政府のような公共機関による税金の出資者である国民への会計上の公金の使用説明について生まれた考え方です。


お金、この小論では「公金(税金)」としますが、「公金」がどの様に使われ、使用目的が正当性を持つのか?を「税金を払っている」国民や市民は、共有財産を管理している人間に「説明を求める権利」を持っています。

国民や市民が、共有財産を管理している人間に「説明を求める権利」が無ければ、管理者は共有財産を好き放題に使えることになります。「独裁」とも言います。逆に言いますと、「説明を求める権利」こそ、共有財産に基づく国民や市民による「表現の自由」「言論の自由」でもあり、民主制の根本的な自由権です。


現在、「公金が使われた」あいちトリエンナーレ2019の企画展「表現の不自由展・その後」に対して、抗議活動というか炎上しておりますが、抗議活動をしている人たちこそが共有財産に基づく「表現の自由」「言論の自由」である「説明責任」を管理者(政治家)や実行者(公務員)や表現者(津田大介氏)に求めているのです。これは共有財産権に基づく正当性を持つ「表現の自由」です。


逆に「公金が使われた」あいちトリエンナーレ2019の企画展「表現の不自由展・その後」に対して抗議活動している人を「表現の自由の敵」と主張する人たちこそが、共有財産権に基づく正当性を持つ「表現の自由」を抑圧する主張をしているのです。


これは講談社の「はたらくくるま」問題とは次元の違う話なのです。「はたらくくるま」に抗議活動した新日本婦人の会は、私有財産権に基づく「表現の自由」に対して抑圧する抗議活動をしたのです。

これは私有財産権に基づく「表現の自由」に対して、敵対的言動です。ですから、私有財産権の自由から新日本婦人の会は批判されるべきです。


「はたらくくるま」問題で批判するのならば、「はたらくくるま」を購入した人が「はたらくくるま」を「返品・返金」するのが私有財産権に基づく正当な抗議活動です。

「タイトルと中身が違う、詐欺じゃないか?」と返品・返金を要求する権利を持ちます。しかし、「はたらくくるま」それ自体を販売する自由に対して抗議活動するのは、私有財産権に基づく「表現の自由」への侵害的行為でしか無いのです。


「私有財産権に基づく表現の自由」と「共有財産に基づく表現の自由」は、同じ表現の自由という言葉でも、中身が全然違うのです。

このことを表現の自由を考える上で理解して頂きたいと思います。

⑥政治家と表現の自由(令和元年8月3日23時に追記)

政治家が表現の自由に対して、何かを追及する問題について考察します。

このnoteの論筋は「私有財産権に基づく表現の自由」と「共有財産権に基づく表現の自由」の2つの「表現の自由」を論考しております。

ですから、政治家と表現の自由の関係もまた「私有財産権に基づく表現の自由」と「共有財産権に基づく表現の自由」の2つを論考しなければなりません。

政治家と私有財産権の表現の自由について。考えるまでも無く、一発アウトです。

私有財産権に基づく表現の自由に対して、政治家や公務員などの「公権力」が批判することは「民主制」においても、また自由社会においてもしては為らない行為です。

それは「公権力」による私有財産権への「私有化」「占有化」を招くからです。私有財産権は、あくまでも私有者に帰属する権利でなければなりません。

では、共有財産権に基づく表現の自由に対して、政治家が抗議することは「表現の自由」を毀損する行為でしょうか?

共有財産権に基づく表現の自由を毀損しません。政治家とは「選挙により民衆から選ばれた代表」でもあります。

政治家は共有財産権を「正当」に管理する義務があります。「正当」という言葉を「公平」という言葉に置き換えても良いです。

政治家は、他の政治家に対して「共有財産を正当に公平に扱っているのか?」を問うことができます。

簡単な話をするなら、与党と野党が正にこの話になります。野党の仕事は与党が「正当」に「公平」に共有財産を使用しているのか?を問うことです。

もちろん与党内でも問われます。政治家は政治家に対して「共有財産権の管理の正当性を問える」のです。私たちが選挙で選んだ民衆の代表ですからね。政治家は共有財産の管理者であり、また管理者の政治家に管理の正当性を問える資格を持つのです。

このことを表現の自由を考える上で理解して頂きたいと思います。

⑦最後に


最後に簡単にまとめますね。


「表現の自由」は財産権なしには成り立たない自由であり、財産権には「私有財産権」と「共有財産権」の2種類がある。

私有財産権に基づく「表現の自由」は、私有者が自由に表現を行使できる自由権であり、共有財産権に基づく「表現の自由」は「説明責任」を求められる「表現の自由」である。

そして共有財産権を持つ国民・市民は、共有財産に基づく表現作品に対して管理者・実務者・表現者に説明責任という「表現の自由」「言論の自由」を行使する自由権がある。

この自由権を抑圧する主張こそが「共有財産に基づく表現の自由への敵」である。なぜなら共有財産権を管理する人間・実務する人間・表現する人間の「独裁」を招くからである。

民主制に生きる私たちは、共有財産を管理する人間・実務する人間・表現する人間の「独裁」を許してはならない。それは共有財産に対する「私有化」「占有化」でしかないのだから。

ちなみに、私から見まして「私有財産権の表現の自由」と「共有財産権の表現の自由」の違いを理解しているのかな?と思われる、表現の自由派のアルファさんたち。

令和元年8月11日20時頃に追記。

青識亜論氏とは議論・対話により、互いの認識に齟齬が無いことを確認しました。下記の青識亜論氏の画像は議論・対話する前の私の認識です。互いの認識を確認したなら本来は削除するべきかと思いますが、私自身の最初の認識も残すべきと考えます。現在、私は青識亜論氏へは上記の様には考えておりません。青識亜論さん、不愉快かと思いますが先に謝罪致します。


以上です!



さて、ノートの内容は如何でしたでしょうか?喜捨するだけ満足された内容でしたら、喜捨を是非ともお願いします!

喜捨するだけの内容じゃないし満足じゃないが、まぁ少しは満足はしたよ、でしたら「いいね」とか「RT」とか「宣伝」をお願いします!

全然内容に満足しなかった、時間の無駄だったな、でしたら本当に申し訳なかったです。次、頑張ります!


最後までお読み頂き、誠に感謝致します。



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