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波のない海があるとしたらきっと物足りなく感じる

この世は残酷なのだが、あらゆるものが押し並べて残酷なのだと思えばどうということはない。あらゆることを、悲観しようと思えば悲観できるし、幸福を感じようと思えば感じられるように思える。毎分毎秒、心臓を動かして、呼吸をせねば生きて行けないことをひどく情けないように思うこともできるし、人体の仕組みを歓ぼうとすればそうとも。
きっと、落ち込んでばかりではいられないが、幸福ばかりでもいられない性分なのだ。誰しもがそうであるように見えるし、そうでないようにも見える。少なくとも自分はそうであり、スイッチを入れたり消したりを繰り返している。この世のすべては波だというがなるほど確かに、波のない世界を想像できないのは、自分自身が波だからか。
波といえば、海を眺めるのが好きだ。意思のないようにみえるものが、延々と、それでも動いているさまを見るのが。波がなければ、いつまでも眺めようとは思わないだろうか?変化があるから、この目に焼き付けようと目を凝らすことができるのだろうか?それとも案外、目を引くものだろうか。動いてるとか動いてないとか関係なく好きなんだろうか。わからないな。わかんないけど、別ものだな。
ところで、疲れる世の中である。疲れることが義務であるかのようである。そんなわけはないのにな。そもそも社会のあらゆることや決まりには、一切こちらが迎合してやってるのである。上手く機能しないのであれば、付き合ってやる義理なぞないのや。やというのに、それを知ってか知らずか、随分と好き勝手にやってくれるものだ、世は。ジェンダーとか、国境とか、環境とか、やたらと変化していくように見える中にあっても、あらゆるものにとってあらゆるものが最適な形になるには、波が岩を削るみたいな、途方もない年月の果てにあるのかもしれないなと思う。海といわず、地球とかも、微妙に軌道を変えて動いてるし。それは人によったら諦観ともいうかもしれないし現実逃避というかもしれないが、私にとったらただの摂理だ。

どれだけ大きな波の中にあっても、自己の感覚が世界のすべてのように思えるのは、残酷というほかないが、救いといえなくもない。というか、自分の感覚しか無いのに他者を慮れるの、すごい。それだけでも人類はよくやったほうなんじゃない?長い年月を経て獲得したもののひとつじゃない?ありがたいね。
さて、何の話だったかな。取るに足らない話なのは確かか。読まされる方の身にもなってほしいね。かわいそうに。俺は寝るけどね。ぐぅ


読んでくれてうれしいです。