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旧劇エヴァを観たからには何か書かなきゃいけないと思って

はじめに

 新宿ピカデリーで『REVIVAL OF EVANGELION 新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH(TRUE)²/Air/まごころを、君に』(1998年)を観てきました。

 中学生の時に旧エヴァにハマってから同作品は何十回と観ています。ですので、内容は全て知っているのですが、『あの旧エヴァが映画館で観られるなんて!』という謎の興奮により上映30分前から緊張してしまいました。旧劇エヴァが最初に劇場公開となった1997年といえば私がまだ小学二年生の頃ですから、当時は映画館でエヴァを観に行くことすら考えもしませんでした。

本当は『Q:3.333』が気になっていた

 そもそも昨日まで、映画館で旧劇場版がやることすら知らなかったんですよ。

 世間的にアナウンスされていたのは『ヱヴァンゲリヲン新劇場版 Q:3.333』でした。映画館の上映スケジュールを調べてみたら、なんと旧劇場版も上映することが分かり、どちらを観に行くか真剣に悩んでしまいました。

 『Q』公開時にも私は映画館で観ています。今回手が入った『Q:3.333』は何が違うのでしょうか?公式サイトの【緊急解説】によれば、IMAX®︎対応した点が見所だそうです。以前の『Q』は1280×544で撮影されたものが上映されていましたが、今回の『Q:3.333』は2048×870で撮影されたものが上映されるそうです。

 『Q:3.333』ではディテールが変更になっているということで、『これはもう観に行くしかない!』と思っていました。しかし、公開当日(今日)になって急遽上映見合わせになってしまいました。音声トラック処理に不備が見つかったようです。

迷う選択肢がなくなった

 『Q:3.333』と旧劇場版の両方が公開されることを知り、どちらを観るか真剣になやんでいましたが、『Q:3.333』が上映見合わせになってしまったので、そもそも迷う選択肢がなくなってしまいました。早起きしてウェブでチケットを予約して劇場に向かいました。

 とはいえ旧劇エヴァは私にとってすでに何十回も観た作品です。サントラも何十回も聴いています。しかも私はNetflixを開けば同作品をすぐに再生して観ることができます。道中『わざわざ映画館に足を運んで観る価値があるのか?』と何度も反芻しました。

 しかし、「その劇場作品を観たことがあること」と「その作品を映画館で観たことがあること」との間には決定的な違いがあるのではないかと私は考えました。しかもその違いは映画館で観てみないと分からない。だから私はその違いを確かめるために観に行きました。

旧劇エヴァを映画館で観る意義はあるか

 上映が始まって最初に思ったことは、『あ、いつものやつだ』ということでした。

 『DEATH(TRUE)²』は劇場用カットも多数追加されていますが、そのほとんどはTVシリーズを16:9に転用したものですので、全体的に解像度が低く、ノイズが多めです。後半の『Air/まごころを、君に』に入ってからは大幅に画質が向上します。実写パート以外のフィルムグレインもかなり低減されていました。これらの点から、我々が何らかの媒体を通じて家庭で観ることができる旧劇エヴァと何ら変わらないと思いました。少なくともデータ上では、の話です。

 しかし、初号機が使徒と戦っているときのビリビリとした音響や、スクリーンに表されるグラデーションは、家庭用の視聴環境(液晶のディスプレイやサラウンドスピーカー)とは大きく異なるものであったように思いました。『ああ、劇場で観るとこうなんだ』ということがはっきりと理解できます。

 特に『まごころを、君に』の中にある実写パートにおいて、その意味するところを映画館で観ずに理解するのは難しかったことがようやく理解できました。しかもこのことは、すでに過去の批評雑誌でさんざん言われていることとして知っているにもかかわらず、エヴァに熱狂して映画館に観に来ているオタクたちに対する庵野秀明からのメッセージとして受け取るには、やはり映画館であれを観て体験するしかないのです。

結局、旧劇エヴァとは何だったのか

 今回改めて旧劇エヴァを観て、旧劇エヴァとは一体何だったのか述べたいと思います。過去二十数年に渡って様々な考察が生まれているのを知りつつも、私なりに書きたいと思います。

 まず「エヴァンゲリオン(Evangelion)」は「福音」の意を持っています。「エヴァンゲリオン」は人類にとっていかなる「福音」をもたらすのでしょうか。

 これは、作中で「福音」として目指されているもの(目的)と、実際にもたらされた「福音」(結末)とが異なっていることに注意が必要です。

 「福音」として目指されていた目的は、私なりに言い換えると、人類の純粋な統一性(reine Einheit)です。純粋な統一性へと向かうシナリオが、作中ではゼーレの『人類補完計画』と呼ばれています。人類の純粋な統一性とは、人々が他者との区別を一切なくす抽象的なあり方です。

 他者との区別がある状態というのは、常に潜在的なコンフリクトを含みます。それは他者に拒絶されるかもしれない、他者に嫌われるかもしれないという可能性です。旧エヴァの登場人物はこの恐怖を抱いており、そうした悩みを解消するためのものとして『人類補完計画』による純粋な統一性が志向されます。

 初号機がトリガーとなって人類の純粋な統一性は果たされたのでしょうか。純粋な統一性という抽象態に至るためには、もはや人の形(Form)をとることはできません。旧劇では人々がL.C.L.(液状)へと転化することによってこのことを表現しています。しかしながら、主人公である碇シンジは、純粋な統一性というあり方をも結局拒絶することになります。シンジは綾波レイと一体になるも、純粋な統一性には結局至らなかったのです。そしてもとの現実である他者と区別の状態、潜在的なコンフリクトの状態へと戻りました。これが旧劇エヴァの終局です。シンジが惣流・アスカ・ラングレーの首に手をかけるのも、アスカが最後の台詞で「気持ち悪い」と言うことも、自己と他者との間に区別がある状態に戻ったことの証左です。

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(『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』1997年、劇場ポスター)
「溶け合う心が、を、壊す。」——このフレーズのうちに、庵野秀明監督のメッセージが暗に含まれている。

 旧劇エヴァにおける庵野秀明監督のメッセージは明瞭すぎるほどです。——人々が熱狂しているそのアニメの中でさえ人々は融け合うような純粋な一体性にはなれない。そして現実において人類は一人一人他者と異なり、常に拒絶される可能性がある。だが、夢はこの厳しい現実の中で実現されるべきものである。——『DEATH(TRUE)²』の冒頭に《これが、EVANGELION:DEATHの本来の姿です。》という但し書きが置かれているのは、まさに人が他者から拒絶される可能性の観点からTVシリーズが再編集されているからなのだ、と私は思いました。


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