笠原弘子「遠い夏の休日」は寝ながら泣いていたのです
笠原弘子「遠い夏の休日」(作詞作曲:保立稔)は同名ミニアルバムの収録曲なのです。
💛
上から順に見ていくのです。
西風がすがすがしいのだから、雨は降っていないのです。
あとで出てくるが、自分は「僕」なのでたぶん男の子、「君」は女の子なのです。二人はつきあっていたのです。
しかしどうやら別れたようなのです。
仰向けに寝ていたのです。深呼吸で落ち着き、立体感が増すのは科学的事実なのです。ということは深呼吸するまでは落ち着いていなかったのです。
あとでわかるが「僕」が来ていたのは「Tシャツ」なので、これは「君」の姿のなのです。「さわやかな少年ぶって」だから「さわやか」か「少年」のどちらかは事実ではないのです。「君」は「少年」ではないが、おそらく「さわやか」でもないでしょう。女の子には珍しいくらいのベリーショートでしょうか。パイナップル模様のシャツもおそらく男性向けを着ていたのです。これも立派な「だまし」なのです。
「ここ」は最初の「街」でしょう。何度もデートした場所なのです。「戻ってこない」だから復縁するつもりもないのです。「街」が「西風がすがすがしい」ことを知っているのだから、物理的には戻ったことがあるのです。
「におい」は後述なのです。
「雨」はケンカの隠喩なのです。デートのたびに二人はケンカしていたのです。「遠い夏の休日」の「遠い」は遠い過去のことではないのです。暑さがひいて「すがすがし」くなった、つまり秋なのです。「夏」からはそう経っていないのです。「遠い」は心理的なものなのです。
アツアツだったのです。「ひとつの傘で歩いたり」は、一緒に雨=ケンカをしのぐのだから、仲直りなのです。「雨」は涙の隠喩でもあるのです。ケンカしても別れても、「思い出」は流れないのです。あえて思い出とことわるほどだから、キスしたのは「僕」ではなく「君」なのです。やっぱり「情熱的な女の子」であり「さわやかな少年」ではないのです。
「におい」は普通は雨で流れるのです。なのでこれは隠喩なのですが、「におい」はしばしばくっきりとした記憶を呼び起こすのです。街に本物のにおいが残っているわけがないので、比喩的に「ここに戻ると現実感が呼び起こされる」という意味なのです。
「僕」は「シャツ」ではなく「Tシャツ」なのです。「乾ききらない」「駆け出して」だから、ケンカしたのでデートをさぼろうと思っていたが、やはり行くことにしたのです。「君」は「僕」よりケロッと機嫌を直していたということでしょう。
「にわか雨」は激しいがすぐに止むのです。フラれてベッドで泣いていたが泣き止んだという話なのです。「遠い夏の休日」もなにも、涼しくなった頃に別れ、その直後なのです。
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結局この歌は
深呼吸して泣き止んで、「君」のことを嫌ったり忘れたりするかわりに思い出にしたのです。
ケンカばかりしていたメ気分屋の彼女も、今となっては愛着だけが残ったのです。「僕」は「ここ」をノスタルジーの対象にしたのでしょう。失った祖国や戻れない場所ほどノスタルジーを感じるものですが、その代償が「淋しく」なのです。
もとは「君=愛着+行為」だったのですが、行為が「心」の「思い出=イメージ」と「場所」の「におい=現実感」に分割されてしまい、「君=愛着+イメージ」「場所=愛着+現実感」になったのです。「君」がいるのが「場所」という現実から「心」という夢の中になったのですが、現実感は夢には持ち込めないから「場所」に置いてこざるをえず、それが「淋しく」の原因なのです。「君」が去ったのが原因ではないのです。また愛着=「一番好き」なので、最初に戻すと「一番好きな女の子と行為をした」になるのです。「休日」のデートがキス止まりのわけがないのです。「心地よいほどに 淋しくさせてく」「でもここを一番 好きな場所にする」とかいろいろあるけど、もういいよね?
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