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ジョン・スチュアート・ミル『自由論』は「女王様と豚野郎の弁証法」なのです

ジョン・スチュアート・ミルは19世紀中ごろ、ヴィクトリア朝時代、大英帝国の全盛期の人です。産業革命が完了した後の科学万能主義の時代ですが、都市労働者が激増して問題になっていました。『自由論』は1859年の著作ですが、このすこし前の1848年には欧州のあちこちで革命が流行っており、マルクスも同時代人です。イギリスとフランスは戦争ばっかりしていたので、相手をほめているときは裏があると思えばいいです。ナチスもソ連もない時代なので、ルソーとフランス革命が邪悪の代表です。

えみるとルールーなのです

薬袋善郎『ミル「自由論」原書精読への序説』は、予備校教師だった著者が『自由論』のはじめのほうの原文を逐一解説しながら訳していくものです。類を見ないほど非常に詳細に筋道立てて論じていて好感が持てるのですが、問題もあるのです。

(順次追加していきます)

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説明の都合により1-02-01と1-02-02はあとまわしなのです。

(1-02-03) By liberty, was meant protection against the tyranny of the political rulers.

自由とは政治的支配者の圧制から身を守ることを意味していた。

the political rulersは初出なので、あらゆる政治的支配者のことです。the tyrannyも同様なのです。

By liberty, was meant …はProtection against the tyranny of the political rulers was meant by liberty. が倒置した形です。能動態で書き直すとLiberty meant protection against the tyranny of the political rulers. [自由とは政治的支配者の圧制から身を守ることを意味していた]となります。

英文解釈としては間違いではないが自由の範囲が狭すぎるのです。正しくは

By liberty, protection was meant against the tyranny of the political rulers.

「政治的支配者の圧制に抗して、自由により身を守ることが意図された」です。倒置しているのはひっかけのためです。

自由を武器に、政治的支配者の圧制から身を守ろうとしていた。(犬っち訳)

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(1-02-04) The rulers were conceived (except in some of the popular governments of Greece) as in a necessarily antagonistic position to the people whom they ruled.

支配者たちは(ギリシャの民衆政府の一部を除けば)支配する民衆に対して必然的に敵対する立場に立つものと考えられていた。

どこもおかしくなさそうですが、よく見ると変なのです。まずruleですが

国・国を〉治める統治する 《★【類語】 govern は権力のある政治なって支配する; rule権力行使して直接的に完全に支配する; reign帝王としての地位を占める》.

weblio「govern

「直接的に完全に支配する」のだから民衆が支配者に敵対することは不可能です。antagonisticには幅広い意味があり

反対の敵対する; 相反する矛盾する対立する.

weblio「antagonistic

ここでは「敵対する」以外の「相反する」「矛盾する」「対立する」あたりでしょう。a necessarily antagonistic positionは不定冠詞がついているので、読み手がすぐ思いつくような立場ではありません。またnecessarilyが「必然的にそうなる」のか「そうなる必要性がある」のかは、ここだけでは判断できません。

except in some of the popular governments of Greece

ギリシャの民衆政府の一部を除けば

popular governments[民衆政府]はgovernments by the peopleすなわちdemocratic governments[民主制の政府]のことです。

民主制と支配者は相容れません。conceivedは「考えられた」ではなく「生まれた」なのです。ギリシャの民主制の一部にはそもそも支配者がいなかったのです。結論を先取りしてnecessarilyを「なければならない」として

支配者たちは生まれつき、彼らが支配する民衆と相反しなければならないある立ち位置にいた(ギリシャの民衆政府の一部には支配者は生まれなかったが)。(犬っち訳)

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(1-02-05) They consisted of a governing One, or a governing tribe or caste, who derived their authority from inheritance or conquest, who, at all events, did not hold it at the pleasure of the governed, and whose supremacy men did not venture, perhaps did not desire, to contest, whatever precautions might be taken against its oppressive exercise.

彼らは支配権をもつ一個人のこともあれば、支配権をもつ一種族ないし階級のこともあった。彼らの権力は世襲または征服によって得たものであり、他の何があろうとも、彼らの権力の保持が被支配者の意思に基づくいうことだけは決してなかった。また、彼らが最高権力をもっていることに対して民衆があえて異議を唱えたことはなかったし、おそらく唱えたいともおもわなかったであろう。最高権力の圧政的行使に対してどのような予防措置が取られようとも、それと最高権力そのものに意義を唱えることとは別なのである。

ここも微妙に変です。

They consisted of a governing One, or a governing tribe or caste

彼らは支配権をもつ一個人のこともあれば、支配権をもつ一種族ないし階級のこともあった。

a governing OneのOneが大文字になっているのは、人間集団ではなく一個人であることを強調するためです。

oneに不定冠詞がつくのは数字の「1」のときだけです。「個人」であれば不定冠詞はつきません。この大文字のOneは「なんらかの含みのある1」です。主語がTheyと複数形なので、具体的には「一つにまとまった集団」といったところでしょう。そうするとor a governing tribe or casteは言い替えであり、One=tribe or casteだとわかります。このtribeやcasteはそのものでも比喩でもありえますが、職能集団のことです。「支配者たちは一つの部族やカーストのようにまとまった統治政体だった」といったところで、1-02-04の

in a necessarily antagonistic position to the people whom they ruled

にいるのがOneなのです。ミルにおいては絶対君主はただの暴君であり支配者とすら呼べないのです。consist ofは「~から成る」だから、支配者とはいえその実は統治者であり絶対君主とは相容れません。

自由を武器に、政治的支配者の圧制から身を守ろうとしていた。(犬っち訳)

きちんと機能していた統治がいつのまにか暴走するのを防ぐという意味なのです。ミルの関心は政治体制を作ることではなく腐敗を防ぎ維持することにあるのです。ところで、ruleとgovernの違いを先に述べましたが、力を制限されるとgovernはできてもruleはできないのです。悪いルール―がキュアアムールになるようなものなのです。

これこそがミルの目論見なのですが、薬袋訳はどちらも「支配」です。まあ、既訳は全滅なわけですが。

21世紀に入ってからの邦訳でもruleとgovernが混同されており、指摘がないということは現在の英語圏でも混同されているのは間違いないでしょう。

(a governing One,) who derived their authority from inheritance or conquest

彼らの権力は世襲または征服によって得たものであり、

〈…を〉〔他のもの本源から〕引き出す得る.

weblio「derive

たんなる「得る」ではありません。

(a governing One,) who derived their authority from inheritance or conquest

もしauthorityを直接inheritするなら、authorityをderiveすることは重複になります。authorityは「政治的権威」なのです。民衆が統治者の正統性を認めなければ暴力でねじ伏せるしかないが、それは政治権力とは到底言えるものではないからです。正統性がもたらす権威がないと力ずくの支配はできても民衆が自発的に従う統治はできません。ここに統治の本質があるのです。or conquestはauthority from inheritanceを言い換えています。権威者にであれ征服者にであれ服従するのは自発的ですが、政治的権威の源泉は征服した相手からinheritした「王の証」のような象徴や降伏文書などの言葉などです。

(a governing One,) who, at all events, did not hold it at the pleasure of the governed

他の何があろうとも、彼らの権力の保持が被支配者の意思に基づくいうことだけは決してなかった。

pleasureは「意思」という意味です。したがって、at the pleasure of the governedは「被支配者の意思で」となります。

これでは「被支配者」が権力を支持しなかったことになります。しかし世襲権力を支持する民衆などいくらでもいるのです。また「被支配者の意思」ならpleasureに定冠詞をつけてはいけません。民衆がthe意思を持っているなら、それは全体主義というものです。ここはあきらかに宿敵ルソーの「一般意思」を意識しています。ルソーはまた何度か触れます。

戻って、deriveしたものをholdすると考えられるので、it=authorityです。the governedの定冠詞はa governing Oneから一意に決まるからですが、the pleasureは曲者です。pleasureには「意思」以外に「楽しみ」という意味もありますが、両方の意味を活かしつつtheがつくとなると「選挙」がふさわしいでしょう。

そうするとat all eventsは「とにかく」という慣用句ではなく、字句通り解釈して「あらゆるeventにおいて」といったところです。「統治政体はいかなるときにも権威を投票にかけることはしなかった」世襲や征服ときれいにつながります。

(a governing One,) whose supremacy men did not venture, perhaps did not desire, to contest

また、彼らが最高権力をもっていることに対して民衆があえて異議を唱えたことはなかったし、おそらく唱えたいともおもわなかったであろう。

薬袋訳ではmenは「被支配者」で、ventureやdesireの主語になっています。ventureの目的語はsupremacyで、desireはto contest (supremacy)です。「支配者」が狂暴だと思い込んでいるかぎりはこう解釈するしかありませんが、民衆が奪われた政治権力を取り戻すことはdesireはありえず、willが適当です。

(a governing One,) whose supremacy men did not venture, perhaps did not desire

ここはこう区切るのが正しく、whose supremacy menが主語です。「統治政体の最高位の男たちは(権威を手に入れるための)危険を冒さなかったし、おそらく欲しもしなかった」支配者たちはtyranny僭主ではなかったのです。

whatever precautions might be taken against its oppressive exercise

最高権力の圧政的行使に対してどのような予防措置が取られようとも、

支配されている民衆には力がないのに予防措置など取りようがありません。

それと最高権力そのものに意義を唱えることとは別なのである。

こちらは原文にはなく、薬袋氏が自分で考えて追加したものです。

whatever節に対する主節は、構造上(=表面上)はwhose supremacy men did not venture, perhaps did not desire, to contestですが、意味上はthat does not mean that men are contesting their supremacy itself[それは支配者が最高権力をもっていることそのものに対して異議を唱えていることを意味しない]なのです。ミルは、この「意味上の主節」を省略し「意味上の主節」に対する「譲歩の副詞節」だけを書いたのです(簡潔で引き締まった文体です)。

さすがにここまでくると捏造レベルなのです。なんでこんなことになるのかというと、小さな無理を重ねた薬袋訳が最終的につじつまが合わなくなったからです。

正しくはこうです。

(They consisted of a governing One,) to contest, whatever precautions might be taken against its oppressive exercise

to contestはThey consistedの理由です。whatever節はcontestの目的語です。itsは単数形だからrulersではなくgoverning Oneです。「支配者たちは、政体による圧制を防ぐいかなる方策がありえるかを(被統治者と)論議することで、(正統性を持つ)統治政体となった」要するに「力に縛りをかけるという約束」をして両者が従うわけです。contestなのは支配者と被統治者が対立しているからです。論議ができるためには支配者は絶対君主ではなく職能集団でなければならず、被統治者と対立している必要があるのです。また支配がつづけばいつかは論議することになります。これで1-02-04のnecessarilyは「必要」「必然」の両方だとわかったのです。

まとめると
・支配者が圧制を防ぐ(力を縛る)論議を被統治者とすることで、支配者は正統性を得て統治者となる
・正統性は権威を生み、民衆は自発的に権威に従い被支配者から脱出する

彼ら(支配者たち)はその実、一つの部族やカーストのようにまとまった統治政体だった。政体は世襲や征服を源流に自らの権威を手に入れたが、いかなるときにも権威を投票にかけたりはしなかった。とはいえ政体の最高位の男たちは権威を手に入れるための危険は冒さなかったし、おそらく欲しもしなかった。支配者たちは、政体による圧制を防ぐいかなる方策がありえるかを被統治者と論議することで、正統性を持つ統治政体となった。(犬っち訳)

薬袋氏の本からの孫引きです。

被治者は、その権力の圧倒的な行使に対して、いかなる予防策が講じられてあったにせよ、彼らの主権を得ようとはあえてしなかったし、また恐らくは得ようと欲してもいなかった(岩波文庫 塩尻公明、木村健康訳 岩波書店 1971)

人々も、たとえその抑圧的行使に対してはどのような警戒策をとろうとも、支配者たちの覇権にあえて挑もうとはしなかったし、またおそらくそうしたいとも思わなかった(世界の名著38 早坂忠訳 中央公論社 1967)

かれらの至上性を、それの抑圧的行使にたいしてどんな予防措置をおこなったにしても、人びとはあえてあらそいはしなかったし、おそらくそうすることをのぞまなかった(世界の大思想II-6 水田洋訳 河出書房 1967)

民衆はその地位に挑戦しようとしなかったし、おそらく挑戦したいと考えてもいなかった。支配者が権力を行使して民衆を抑圧しないように、予防策がとられることがあるだけであった(日経BPクラシックス 山岡洋一訳 日経BP社 2011)

しかし民衆は、支配者の圧制にひたすら警戒はしても、誰一人としてその覇権に挑戦しようとせず、またおそらくその意欲もなかった(光文社古典新訳文庫 斎藤悦則訳 光文社 2012)

犬っち訳では統治者も被統治者も賢明ですが、薬袋訳(や既訳すべて)はずいぶん負け犬な感じなのです。現代人は昔の人をバカだと思っているからなのです。事実はその正反対なのですが。偶然こんな正反対の解釈になるわけがないので、ミルが仕込んだトリックだと考えるしかないのです。この文の要はruleとgovernの違いなので、原文中でも最大級に重要な箇所です。そこに気づけばわりとアッサリわかるのですが、英語のできるやつほど辞書を引かないのです。またこの手の「だまし」のテクストにはたいていは大小の無理や矛盾が意図的に挿入されています。この文ならthe pleasure of the governedが大物です。ネイティブや英語上級者などは英文が「わかってしまう」ので、こういった細部をかえって見落としがちで、読解が「自分が予測した意味を確認する」作業になってしまうのです。自明に見えてもあらゆる可能性を検討することが読書には必要なのです。意味がわかるのは最後の最後なのです。

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すこし触れたルソーですが、別の箇所にこんな文があります。

(1-03-07) What was now wanted was, that the rulers should be identified with the people; that their interest and will should be the interest and will of the nation.

今求められていることは、統治者が人民と同一になるということである。即ち、国民の利益と意志が統治者の利益と意志になるということである。

peopleの訳語が一定しませんが誤訳の元です。あと時制を勝手に変えてはいけないのです!先ほどと逆にrulersを「統治者」としています。つまり区別が完全に欠落しているのです。「統治者(支配者)が人民と同一になる」はまさにルソーです。さすがにこれはおかしいとは思わなかったのでしょうか。正しくは「支配者を民衆と連携(identified with)させ、両者の利益と意志を国民の利益と意志に止揚する」ということです。力ずくの支配者と民衆はつねに対立するものだから、連携しなければ国民国家は成り立たず、また対立するからこそ多分にフィクショナルな国民国家を築くことができるのです。the nationと定冠詞つきなのは止揚の結果だからですが、nationの構成要素はrulerとpeopleであり概念的に一段高いところにあるので、the interest and will of the nationは全体主義にはならないのです。

整理すると
・支配者と民衆が連携すると国民が生まれる
・支配者と被統治者が「力を縛る」約束をすると政治的正統性(国家)が生まれる
これが国民国家の条件なのです。上は力、下は言葉の世界なのです。力の対決はなにも生まないのです。また対立なき論議は決して正統性を生まないのです。

まさに必要だったことは、支配者は民衆と連携しなければならない、つまり支配者と民衆の利益と意志が国民の利益と意志にならねばならないということだった。(犬っち訳)

古代ギリシャの昔から、相反するリアルとバーチャルを止揚して高みに上げる「弁証法」が知られていました。演劇は役者はリアルですがドラマは作りもの、バーチャルです。しかしこの対立を止揚したとき(つまり演技が上手いとき)、演劇に現実の出来事以上のリアリティが生まれます。人間生活のあらゆる場面にこういった弁証法がありますが、政治と芸術に特に顕著です。民衆はリアル、暴力には「脅し」があるためバーチャルです。論議によって両者を止揚すると「正統性」が生まれます。人は正統性の持つ権威に自発的に従い、無用な暴力をなくせるのです。なぜならそう約束したからなのです。逆に言えば、論議なき選挙は権威を生むことはなく「多数派の専制」をもたらすとミルやトクヴィルは警告しているのです。

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(1-02-01) The struggle between Liberty and Authority is the most conspicuous feature in the portions of history with which we are earliest familiar, particularly in that of Greece, Rome, and England.

自由と権力ないし権威との闘争は、我々が、歴史について、学校の授業で習って、最初に詳しく知る部分、特にギリシャ、ローマ、イギリスの歴史において、多くの特徴の中で、最も顕著な特徴である。

「自由」と「権威」を取り持つ努力は、歴史の運命におけるもっとも顕著な特徴である。人間はその努力、とくにギリシャ、ローマ、英国における努力によってはじめて仲良く暮らせるようになった。(犬っち訳)

withはfeatureにかかり、thatもfeatureを指すのです。仲良きことは美しき哉なのです。ダジャレ野郎は仲良しが好きで闘争はお好みではないのです。民衆は自由を、統治者は権威を持つべきものなのです。大文字は特殊な意味があることを示唆していますが、今はまだ触れません。

(1-02-02) But in old times this contest was between subjects, or some classes of subjects, and the Government.

しかし、昔は、この闘争は、被支配者ないし被支配者の中の一部の階級と政府の間で行われた。

古の時代を除いて、この努力すわなち論議は臣民同士や臣民の一部階級の間で行われた。この論議こそが「統治」だった。(犬っち訳)

ギリシャとローマを除いて英国に限った話なのです。英国には民主制と統治者階級/臣民階級の両方があるのです。参政権のない階級を除くためのsomeなのです

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It is better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied; better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied.

ミルの箴言ですが、これも「だまし」で

itは豚を満足させるより人間を不満にさせるほうが得意だ;愚者を満足させるよりソクラテスを不満にさせるほうが得意だ。(犬っち訳)

先に後半を説明します。ソクラテスは学者一般、愚者は「ダジャレ野郎」なのです。foolがダジャレ野郎なのはシェイクスピアのギャグです。itは「ダジャレ(がわかったひらめき)」なのです。ダジャレがわかるやつは大いに満足しますが、そうでない学者などは無用に難解なテクストを満足に読むことができません。

不満な人間でいるほうが満足した豚でいるより健全だ;不満なソクラテスでいるほうが満足した愚者でいるより健全だ。(犬っち訳)

豚や愚者が不健全だというのは、1-02-05のgoverned=SMの豚野郎とするとthe pleasureが輝きだすのです。これは西洋の伝統なのですが、itやitsはxvideosでおなじみit's comingのキラッ☆とするやつで、脳科学的にもひらめきと非常に近いのです。箴言はSMの話なので、女王様にイカせてもらえないのは豚野郎にはご褒美ですが普通人は満足できないのです。女王様の寵愛を受ける豚野郎が普通人を見下すように、ダジャレ野郎は学者を見下しているのです。「知性が売り物のくせにテクストも読めないバカ」だからです。人類は古代ギリシャの昔からダジャレによる秘密暗号通信ネットワークを維持しており、錚々たる面子から意外な人たちまでが参加しているのですが、どいつもこいつもエロい話ばかりしたがるのです。秘密にする理由はあるのですが、事情が変わりました。

By liberty, was meant protection against the tyranny of the political rulers.

politicsとpoleがかけられており、political rulerは女王様です。ここは非常に多義的なのですが、とりあえずは「イカないように刺激を抑える」取り決めをするのです。

The rulers were conceived (except in some of the popular governments of Greece) as in a necessarily antagonistic position to the people whom they ruled.

女王様とは対面なのです。ギリシャで人気のプレイは別のスタイルなのです。people=ruledだから豚野郎なのです。

They consisted of a governing One, or a governing tribe or caste,

女王様たちは職能集団なのです。

who derived their authority from inheritance or conquest,

女王様は豚野郎を他の女王様から譲り受けるか自分で捕まえるかしてプレイ技術を磨くのです。author-ityは他の作家では「射〇」の隠喩であることが多いのですが、ミルは豚野郎なので違います。

who, at all events, did not hold it at the pleasure of the governed,

女王様は決して豚野郎をイカせてくれないのです。govern=プレイですが、governed=お〇ん〇んなのです。governedはイクのが喜びなので、イカないのが喜びの豚野郎ではないのです。ミルは対面でないとダメなタイプのようです。民主制のギリシャにはruler女王様がいないので同性愛がさかんだったのです。こうしたエッチなダジャレは楽しいだけでなく、ruleとgovernのイキイキとしたイメージで違いを際立たせる意図があるのです。あ、イカないんでした。ここに「敵対」のイメージはないし、government政府が永続することが望ましい(上下が入れ替わる革命には否定的)ことや、the pleasure一般意思が死を連想させることもわかります。

and whose supremacy men did not venture, perhaps did not desire,

豚野郎は女王様の秘所に手を出したりせず、ヤリたいとも思わないのです。

to contest, whatever precautions might be taken against its oppressive exercise.

女王様と豚野郎は刺激の与えすぎがないように取り決めているのです。豚野郎の感度を知らないと決めようがないので話し合いなのです。

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What was now wanted was, that the rulers should be identified with the people;

people=豚野郎なので、女王様が豚野郎と行為を共にするのです。女王様と豚野郎が同一化することなどありえないのです。支配者や民衆といった抽象的なもので考えるから間違えるのです。エロいダジャレで考えると間違えないのです。本を書く時にダジャレを考えるのではなく、普段から何事もエロいダジャレで考えているのです。

that their interest and will should be the interest and will of the nation.

女王様と豚野郎のinterestとwillがnationのinterestとwillになるのです。

可算名詞 [通例 the nation; 集合的に] (政府の下で共通の文化言語などを有する)国民全体》《★【用法】 集合体と考える時には単数構成要素を考える時には複数扱い; 【類語】 ⇒people B》.

weblio「nation

nationは女王様と豚野郎を止揚したものなのです。またnationはgovernment=プレイの下にあるのです。,したがってnationは「プレイ中の女王様と豚野郎」なのです。女王様と豚野郎は別々のinterestとwillを持つが、プレイ中のinterestとwillはそれらを包含しつつさらなる高みを目指すのです。他の作家なら子作りで喩えるところですが、こちらのイメージの喚起力は並大抵のものではないのです。SMの場合のinterestは「趣味」「関心」、willは「気持ち」といったところでしょうか。あきらかに愛のイメージがありますが、絶対的な上下関係があるから恋愛とは一味違うし、家族とも違うのです。上下関係は受け入れられているのなら存在するほうが人間関係や社会は安定するのです。

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政治に話を戻すと、象徴であれ君主的なものがいたほうがいいということになります。しかし君主は国家に君臨してはいけないのです。また君主や民衆が自らを国家や国民と同一化すると破滅に向かうのです。国民であることに喜びを感じ、自らの力以上のものであることを自覚できないようでは長くはないのです。authorityはSMでは「気持ちよくさせる技術」でした。またイカないよう刺激をセーブすることを女王様と豚野郎で取り決めました。政治的な権威も民衆を気持ちよくさせ、革命など起こす気にさせないようにしなければならないのですが、そのためには民衆の政治参加が必須なのです。

満足した豚より不満な人間でいるほうがいい;満足した愚者より不満なソクラテスでいるほうがいい。

よく知られた訳ですが、ここにある教訓は「人間はなんでも与えられて満足すると政治参加しなくなる」なのです。政治参加しないやつは豚で愚者なのです。逆に言えば、政府が国民になんでも与えることで国民国家を破壊し専制国家にすることができます。では人間に最も満足を与えるものはなにか?それがthe pleasure一般意思なのです。

ルソーは個人の自由を主張した思想家であると同時に、個人と国家の絶対的な融合を主張している。この二つの主張を結びつける際、彼の造語である「一般意志」は大きな意味を持つ。
一般意志の概念は国民市民の意志とは何であり、それが政治に反映されるとはどういうことであるかという疑問の解決になった。これを発見するまでの過程は自由討論であり、そこから全ての人にとって自分の問題でもあり全員の問題でもある事項が導き出され、それが一般意志となる。だが、これはあくまで全員に共通する意志であり、個人の事情や利害の総体ではない。全ての人が個人的な特定の事情をこの場限りで捨て去った時こそ共通の意志が明らかとなり、この共通の意志だけを頼りに社会が成立する。この社会の秩序はこの一般意志のみを根拠とした主権の力であり、こうして個人と社会と主権が全く対立することなく重なり合う局面となる。

ウィキペディア「一般意志

今でこそ全体主義の元凶だと周知のルソーですが、「個人の事情や利害の総体ではない」まではミルと同じなのです。違うのは「全ての人が個人的な特定の事情をこの場限りで捨て去った」なのです。ミルにおいては絶対に捨ててはいけないものなのです。個人的な特定の事情を捨てないからこそ不満でいられるのですが、不満があるからこそ捨てるのです。「個を捨てる」ではなく「全体に同一化する」と書けば快感だということがわかるでしょう。

(a governing One,) who, at all events, did not hold it at the pleasure of the governed

(統治政体は)いかなるときも権威を一般意思に置かなかった。(犬っち訳)

「全体主義ではなかった」ということなのです。まあルソー以前の話なのである意味あたりまえなのですが。全体主義者が捨てた「個の事情」が支配者と被統治者の論議を成立させるのです。他人や全体を代弁してはいけないのです。

全体主義においてはruleが消失しgovernだけが残り暴走するのです。governがruleを抑えるという常識的な理解とは真逆なのです。ruleなきgovernが絶滅収容所を生んだのです。ruleと似た単語にlawがあります。ruleには「支配」以外に「律」という意味がありますが、ruleは「神(自然)の法」、lawは「人の法」なのです。神の法に基づいて行動することは、自らを律して(そしてそれ以外に縛られることなく)行動することにほかなりません。その上でlawを守るべきなのです。govern統治は人の法により行います。rulerを他人に対する「支配者」ではなく、自らを支配=律する「自律性」だと考えると、今まで見てきた文に新たな意味が見出せるのです。

(1-02-03) By liberty, was meant protection against the tyranny of the political rulers.

自由を武器に、かの暴虐から政治的自律性を守ろうとしていた。(犬っち訳)

「かの暴虐」は「多数派の圧制」つまり全体主義のことで、犬っちに言わせれば「共感の渦」なのですが、フランス革命が念頭にあると思われるのです。theがついているので政治における本質的な危険はこれだけなのです。

雄々しくも侵略に立ち向かうのです

(1-02-04) The rulers were conceived (except in some of the popular governments of Greece) as in a necessarily antagonistic position to the people whom they ruled.

自律性は、それらが律する民衆と相反せざるをえないある立ち位置に生まれた。(ギリシャの民衆政府の一部には自律性は生まれなかったが)。(犬っち訳)

(1-03-07) What was now wanted was, that the rulers should be identified with the people; that their interest and will should be the interest and will of the nation.

まさに必要だったことは、自律性は民衆と同一化しなければならない、つまり自律性を持つ民衆の利益と意志が国民の利益と意志にならねばならないということだった。(犬っち訳)

完璧に意味が通るのです。国民とは自律的な民衆のことだったのです。絶対に捨ててはいけない「個の事情」とはruler自律性なのです。SMに戻ると自律性は「イカされない」なのです。政府は「イカせない」、つまり国民の自律性を毀損しない統治をしなければならないのです。「相反せざるをえない」と「同一化しなければならない」は矛盾しているように思えますが、欲望を律する自制心を身に着けろということです。

自律しない豚より自律する人間でいるほうがいい;自律しない愚者より自律するソクラテスでいるほうがいい。

自律しない豚ではなく自律する人間になるほうが絶対にいい;自律しない愚者ではなく自律するソクラテスになるほうが絶対いい。

二つ目は絶対比較級なのです。なぜdissatisfiedだと自律していることになるかといえば、「不満があり、自ら政治参加する」からなのです。政治に不満がないのは異常状態なのです。政治参加はむしろ義務的で面倒くさいのは事実ですが、面倒くさがって他人まかせにすると全体主義に一直線なのです。ゆえに政府のやるべきことは政治参加の面倒くささを軽減することなのです。「とてもハッピーだが不満も多少ある、しかし政治参加は容易」が政治が目指すべき目標なのです。SMで言えば「とてもハッピーだがプレイがややマンネリ、しかし女王様が新技を一緒に考えてくれる」なのです。「とてもハッピーでまったく不満ナシ」は全体主義が目指すところですが、行きつく先は最大級の不幸と惨劇なのです。なぜなら「悪」は経済的豊かさが緩和しますが、止められるのは「善=自律性」だけあり、自律性なき社会では経済が弱ると悪が正のフィードバックで暴走するのです。豚野郎は女王様に言葉責めで自分を否定されまくっても平気ですが、自分が否定されることで傷つく人間は、自分自身が社会的強者でなければ嫉妬や憎悪でunsatisfiedなのです。それを解消するには豚になって強者と同一化する以外にはないのです。ニーチェはこれをressentimentルサンチマンと呼びましたが、フランス語の「怨念」と「le sentimentかの感情」のダジャレなのです。定冠詞つきなのであらゆる感情の根源にあるのです。カントでは自己愛ナルシシズム=根源悪なのです。

governは言葉、バーチャルですが、ruleはリアルなのです。governプレイはバーチャルですが、ruler女王様とpeople豚野郎はリアルなのです。つまり「イカせる」は言葉、「イカない」はリアルの弁証法が成り立ち、止揚され豚野郎の幸福となるのです。政治参加も豚野郎でいることと同じくリアルな実践であり、言葉で考えてはいけないものです。論議にはもちろん言葉を使いますが、それは実践により律さなければならないのです。イデオロギーやデータではなく直観で善悪を判断しなければならないのです(反省や計画には言葉を使います)。「エビデンスバカ」は政治的責任を放棄しているのです。ハンナ・アーレントをはじめ、ダジャレ野郎にはどういうわけか共通認識があり、しかも古代ギリシャからまったくなにも変わっていないのです。どうやら動物の本能だと思われるのですが、文明の悪を抑える唯一のはたらきなのです。野性だけが理性の暴走を抑えられるのです。

自由とは政治的支配者の圧制から身を守ることを意味していた。(薬袋訳)

自由とは、かの暴虐から政治的自律性を守ることだった。(犬っち訳)

似ていますが、守るものが「身」と「政治的自律性」という本質的な違いがあるのです。つまり、政治的自律性は命よりも重要であり、あらゆる自由のうちでも本質的なのはこれだけなのです。身体的経済的自由などはたんに「障害のない状態」にすぎず、生命に危険をもたらしかねませんがそれ以上のものにもなりません。暴虐とは「共感」、自由とは「共感から逃れる」ことなのです。「同調圧力」と言い換えればイメージしやすいでしょうか。「同調圧力」は嫌いだが「共感」は好ましく思う人が圧倒的多数だと思いますが、動物本能ではどちらも同じものにしか見えないのです。

同調した豚ではなく同調しない人間になるほうが絶対にいい;同調した愚者ではなく同調しないソクラテスになるほうが絶対にいい。

まあ豚も動物なんですけどね…しかもかなり賢いし。

共感に似たものに「思いやり」があるのです。女の子が泣いていたら、友だちが一緒に泣くのが共感、微笑んで慰めるのが思いやりなのです。共感は鎮痛にはなっても治療にはならないのです。子供が泣いているときにおかあさんはいちいち共感なんてしてられないのです。(ここまででは)ミルが主張しているわけではありませんが、「思いやり」「親切」は政治的自律性であり、しかも中核に位置するのです。政治的自律性の本質は「自発性」「他人に対する行動」「見返りを求めない」で、逆に言えばこれらを満たすものはなんでもpolitical rulerだと言えるのです。ハンナ・アーレントのthoughtは一般的には「思考」と訳されますが、重要なのは「思いやり」の意味のほうなのです。政治といえば権力闘争や利益誘導がイメージされますが、political rulerはその対極にあるのです。それが「神の法」がruleするということなのです。政治的自律性が命より重要だということは、他人を助けに池に飛び込んだり線路に降りたり、義勇軍となって他国に加勢したりをイメージすればわかりやすいでしょう。

自由とは、かの暴虐からお〇ん〇んの自律性を守ることだった。(犬っち訳)

豚野郎にとってはイカされるのは敗北なので、激しい攻めを受けてもイカされないようにするのが自由なのです。豚野郎の持てる自由はこれしかないのです。the tyrannyと定冠詞つきですが、なにかスペシャルな技でもあるのでしょう。「読み手がわからないものにtheがつくのか」と言われそうですが、書き手だけが知っているスペシャルだと察してspecial tyrannyと読み替えろということです。余談ですが、specialはspecies種と同語源なので精〇や射〇の隠喩として非常にポピュラーなのです。tyrannyの語源はtyrantですが

Klein compares Etruscan Turan "mistress, lady" (surname of Venus).

ONLINE ETYMOLOGY DICTIONARY "tyrant"

エトルリア人(ラテン語: Etrusci)は、イタリア半島中部の先住民族。インド・ヨーロッパ語族に属さないエトルリア語を使用していた。エトルリア文化を築いたが、徐々に古代ローマ人と同化し消滅した。
初期のローマ人はエトルリアの高度な文化を模倣したとされ、ローマ建築に特徴的なアーチは元々、エトルリア文化の特徴であったといわれる。また、初期の王制ローマの王はエトルリア人であったとも言われ、異民族の王を追放することによってローマは初期の共和制に移行した。

これでもう決定打なのです。共和制では権威の源泉は民衆だからミルのお好みではないでしょう。

By liberty, was meant protection against the tyranny of the political rulers.

the tyranny of the political rulersを同格のofとすると

女主人様(女神様)がお〇ん〇んの支配者であるのに対し、自由は女主人様の庇護を意味していた。

これはただおもしろいだけでなく、自由はrulers女神様がもたらす、つまり庇護者としての支配者と民衆の証法により自由が成立するという、非常に重要な事柄なのです。統治と同様、国民の自由もまた論議でしか打ち立てられないのです。tyrannyには圧制や僭主の意味しかないので、SMのダジャレでなければこの解釈にはなりえないのです。

たった4+1文でこれだけわかるとは、SMって本当にいいものですね。弁証法は古代ギリシャからありますが、ヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」が有名で、ミルはこれをパクりかつ全否定しています。犬っちはユリ豚ですがミルが本物の豚野郎だったかどうかはわからないのです。

主人と奴隷の弁証法
しゅじんとどれいのべんしょうほう
Dialektik von Herrn und Knecht
ドイツの哲学者 F.ヘーゲルが『精神現象学』のなかで展開した,自由と権威の関係についてのきわめて示唆的な議論。人間が自由で自立的な存在であるためには,他者からの承認が必要である。そこで人々の間で相互承認を求める闘争が生じ,必然的に勝者=主人と敗者=奴隷が生み出され,その結果,奴隷は労働し,主人は享受する。だが奴隷は労働を通して自然を知り,自己を形成することができるが,主人は消費に没頭するだけで労働による自己形成ができない。主人の生活は奴隷に依存するばかりか,奴隷が自由と自立を獲得していくのに対して,主人はそれを喪失していくだけである。そうなると,みずからの意識においては自立していると思っている主人は客観的には自立を喪失しているのであり,逆に奴隷は自立していないという意識のもとで,真理においては自立的なのである。この真理が明らかになるとき,主人と奴隷の立場は入替る。ここに示されているのは,マルクスにも影響を与えたその独自の労働観だけではなく,支配-被支配の関係が本質的に相互承認を前提としたものであること,ならびに自由が本質的に最高の共同の中でしか実現されず,そこにいたる過程が不断に逆転する契機を持った闘争であることである。

コトバンク「主人と奴隷の弁証法

「承認」は「自律」の対極なのです。一口に「弁証法」と言っても根本的に異なるものがあるのです。善いものを生み出せるのは「リアルと言葉の弁証法」「動物脳と人間脳の弁証法」だけなのです。人間脳が動物脳を押さえつけることで動物脳がかえって暴れ出し、ついには逆転するのです。女の子であれば、泣くのは人間脳、微笑みは動物脳なのです。「泣いているからこそ」微笑みがありがたく慰めになるのです。SMであれば、イカない程度の刺激と言葉責めを受けた人間脳が動物脳を押さえつけ、動物脳はマグマをため込み、ついにはイカないまま爆発するのです(たぶん)。これ以外はちょっと気の利いたナルシシズムでしかないのです。ヘーゲルは「言葉と言葉の弁証法」なのです。「労働を通して自然を知り」だの「自己形成」だの「真理においては自立的」だの、学者風情の観念にすぎないのです。「主人と奴隷の立場は入替る」は革命思想なのです。どれもダジャレ野郎なら恥ずかしくて死んでも口にしない自己愛的なセリフなのです。ニーチェが言う「奴隷道徳」なのです。学者を嫌うのはバカだからだけではなく、生理的に気持ち悪いからなのです。まあヘーゲルは「マジ」ではなく「煽り厨」のダジャレ野郎疑念はあるのですが、それにしても趣味が悪いのです。

💛

They consisted of a governing One, or a governing tribe or caste, who derived their authority from inheritance or conquest

governing Oneは統治の職能集団でした。統治の職能が他人に優越しているにすぎない「官僚」なのですが(この意味において政治家もそうです)、多神教の神様が多種多様であるように職能集団内にも個性と多様性が必要なのです。一神教ではダメなのです。リアルな力を行使するには実際に行使する人間が必要だから無茶なことは簡単にはできませんが(最近はロボットもありますが…)、バーチャルな力は言葉だけがあればよいのできわめて無責任なものになりがちです。官僚主義はリアルから離れることでいくらでも無責任になりえ、世界のあらゆるところで実際にそうなりました。ミルは統治の暴走の原因を官僚主義に求めているのです。またリアルな力を行使する人間が無責任になってしまえば暴力や怠慢に歯止めが効かなくなります(ナチズムや共産主義に顕著です)。したがって政治的自律性の本質には「責任」が求められます。「やらなければならないことはやり、やってはいけないことはやらない」なのです。統治者は「職能的な知見」、民衆は「日常生活の常識」が判断の根拠になります。統治者は一般常識で判断してはいけないのです。両者はプレイのような緊張関係になければならず、職能人(バーチャル)の統治者が民衆(リアル)に優越し不相応な権力を持ってしまうのが官僚主義、民衆が統治者に優越し職能(言葉)をないがしろにするのがポピュリズムなのです。これらは論理的には両立しないはずですが、ヘーゲルの弁証法により実現し世界のあらゆるところで見られるのです。そして一段の高みに昇り、職能人が職能をないがしろにすることで民衆と対等になる自殺行為が全体主義なのです。

 一方で、私は日本でも同じような結果がもたらされるとは全くもって考えていません。 ある日、私は祖父ポール・ニザンが書いた政治記事の束を見つけたのです。ポール・ニザンは日本では左派の作家としてよく知られていますが、1930年代の日本のプロレタリアートの闘争について書いた記事があります。それを読んで私が気づいたのは、それぞれの国の文化的側面によって、社会が階級闘争に向かうのか、あるいは別の対立が起きるのか、問題の解決への道は異なるということでした。 フランスでは、伝統的に階級同士の真っ向からの対立が起きます。その中で最終的に、利得あさりをしていた人が断罪され、例えばフランス革命の際には斬首されたわけです。今のフランスでは、エリート層がフランスの大衆と完全に分断した状態を作り出していて、エリート層のフランス人は自らを「(イギリス・アメリカなどの)アングロ・サクソンのエリート層の方がフランスの庶民よりも我々に近い」と言って憚らない。 日本では少し状況が異なると思います。日本でも社会が階級化していることについて論じられていることも知っています。しかしながら、文化的側面から言えばフランスと日本は背景が異なります。日本についてはそこまで詳しくないことを事前にお断りしておきますが、まず、日本は文化的にヒエラルキー、序列を尊重する傾向にあります。以前、文献を読んで気づいた興味深いことがあります。それは戦国時代の日本の農民たちの直訴についてです。農民たちは将軍などに直接訴状を渡す、つまり直訴する人物を選び、その選ばれた人物は死罪のリスクを背負ってまで共同体のために行動したと言います。今の現代社会が全く同じというわけではありませんが、日本というコンセプトが全体をひとまとめにする力を持っているのです。そしてそれは義務や責任感というものを基盤としています。もちろん、日本にも搾取の構造はありますし、名もなき階層に属する人々もいます。しかし、階級間がそのヒエラルキーに基づく関係性を尊重する点も無視できないのです。 これはフランスでは見られない点です。例えば日本では東大卒のホワイトカラーと、農家や漁師たちが罵り合いながら対立するというようなことは考えにくいでしょうが、フランスではそれがありうるのです。各社会にはそれぞれ、その社会における階級同士が対立する時の型があります。それによって階級の対立も異なったものになるのです。

エマニュエル・トッド、「日本では階級闘争が起こりにくい」とフランス人歴史学者が考える理由、ダイヤモンド・オンライン

ちょっとほめすぎな気もしますが、ミルの考えがよくあてはまっているのです。現在のフランスは官僚主義かつポピュリズムですが、この対立が止揚されると全体主義国家になるのです。統治者が政策的に無理筋な迎合を優先すればそうなりますが、階層間対立が解消されるとは限らないのです。すなわち政治目標である「全体」は全体主義の十分条件であっても必要条件ではないのです。もう用語を変えたほうがいいのです。日本では統治者への信頼でも隷属でもある「お上」意識が根強いため階層間の対立は少なめで「いくらかマシ」なのです(もっとも周回遅れなだけですが)。「日本というコンセプト」はカッペ臭い「日本スゴイ」にはなっても、「全体」化する危険は今のところ見られないのです。それが証拠に「日本スゴイ」のは庶民の個人や中小企業の活躍、歴史や過去の偉人、文化や観光といったものばかりであり、政府や経済、大企業、軍事といったパワーは出てこないのです。なぜならそんなものは「日本ぜんぜんスゴクない」ことがとっくにバレているからなのです。したがって「日本スゴイ」の批判者は庶民に階級闘争を仕掛けているのです。まさに「上からの革命」なのです。

本書は、観念論の立場にたって意識から出発し、弁証法によって次々と発展を続けることによって現象の背後にある物自体を認識し、主観と客観が統合された絶対的精神になるまでの過程を段階的に記述したもの。カントの認識と物自体との不一致という思想を超克し、ドイツ観念論の先行者であるフィヒテ、シェリングも批判した上で、ヘーゲル独自の理論を打ち立てた初めての著書である。難解をもって知られ、多くの哲学者に影響を与えた。
序文の中にある「死を避け、荒廃から身を清く保つ生命ではなく、死に耐え、死のなかでおのれを維持する生命こそが精神の生命である。」という言葉が、この著作におけるヘーゲルの立場を端的かつ率直に示した表明として有名である。ただし、この場合の死とは感性的・直観的ないし形式論理的な文脈のなかでの精神の自己喪失状態を表している。

ウィキペディア「精神現象学

なぜヘーゲルの弁証法では「対立から善ではなく悪が生まれる」のかというと、「観念論の立場」から無責任化することで対立を無にしているだけだからなのです。

支配-被支配の関係が本質的に相互承認を前提としたものであること,ならびに自由が本質的に最高の共同の中でしか実現されず,そこにいたる過程が不断に逆転する契機を持った闘争であることである。

支配-被支配の関係に政治参加がないならただの暴君であり無責任なのです。関係が不断に逆転するなら都度政治参加するか政治参加自体がなくなるかのいずれかなのです。ミルなら政治参加は「わたしは何者である」という自発的なものだから都度参加できます。「承認」は「お前は何者である」だから「わたしは何者である」がなくても決めつけることができます。しかし承認は相手を社会に位置づけることだから、「お前は何者である」を相手に飲ませ「わたしは何者である」にさせなくてはなりませんが、それを可能にするのが「闘争」の勝敗にほかなりません。ヘーゲルにおける「わたしは何者である」は自発ではなく強制なのです。なのでミルにおいては「主人と奴隷の弁証法」は政治参加が不可能な無責任にしかなりえず、ヘーゲルは別の責任を発明する必要があります。しかしいかなる責任であれ、自発的でないものに負わせることは搾取や暴虐にほかなりません。たとえ好ましく感じられても、「承認」されることは「わたしは何者である」を強制されることだから、責任を剥ぎ取られることなのです。いわゆる「承認欲求」は自発的な「わたしは何者である」=責任を放棄したいという欲求なのです。自分となにかを同一化すると無責任になりますが、「わたしは何者である」を自発的に放棄することはできず、同一化する時点ですでに無責任なのです。したがって全体主義の前には「相互承認」の段階が必要なのです。

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770年8月27日 - 1831年11月14日[1])は、ドイツの哲学者である。ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、フリードリヒ・シェリングと並んで、ドイツ観念論を代表する思想家である。18世紀後半から19世紀初頭の時代を生き、領邦分立の状態からナポレオンの侵攻を受けてドイツ統一へと向かい始める転換期を歩んだ。

ウィキペディア「ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル

「21世紀の知見で19世紀のヘーゲルを批判するのは不当だ」と思うかもしれないが、古代ギリシャですでによく知られていたことを繰り返しているだけなのです。最新脳科学の知見に照らせば、人が承認や共感を求めるのは「脳が使うカロリーの節約」になるからなのです。物事を自分で決めるにはかなりカロリーが必要なので、他人にまかせる方向に進化したのです。

ミルの言っていることは(4+1文だけですが)、「統治には職能人は不可欠、しかし民衆はまかせきりにしてはいけない」なのです。しかしどういうわけか世間にはその認識がないのです。職能の本質は「懐疑」であり、職能人の責任は懐疑をやめないことです。なぜならバーチャルは腐りやすいのです。学問において「懐疑」はもっとも重要だから、統治者は学問を専門的でなく修める、つまり教養を身に着けるのがもっとも効率がいいのです。もっとも今や大学で教養が身に着くことはありませんが。政治家は民衆の代表ではあってもあくまで統治者なのです。それなりの政党であれば訓練はするでしょう。役人は投票で選ばれないが訓練を受けており、rulerのイメージはこちらに近いでしょう。もっともそこから「懐疑」が抜けていればなんの意味もないのですが。全体主義は統治の実務の問題であって思想や価値観の問題ではないのです。一般意思に従うことは定義上懐疑を放棄することなのです。逆に常識は「自明に正しい」ことで、その正しさを示す「責任」が必要なのです。なぜならリアルは腐らないがバーチャルに乗っ取られやすいのです。つまり民衆は「これが正しい」と言い、統治者は「その通り」「いや違う」と言うわけです。「権力をチェック」は「やっぱりこれが正しいだろJK」と言うことなのです。大雑把には統治者は実現可能性、民衆は価値判断の担当なのです。統治者が価値判断に踏み込む(上からの押しつけ)と官僚主義、民衆が実現可能性に踏み込む(無理筋のゴリ押し)とポピュリズムなのです。統治者が実現可能性を考えなくなると真珠湾、無理筋を通すようになると特攻なのです。

著者が技術官僚と名付けた彼らは、全面戦争を前にして国力の定義を変えることで国民の説得に取りかかった。経済力は国力の一要素に過ぎず、人間の労働力と精神力を最大限に導入すれば、物資の量や資金力の差などはどうにでもなると説いた。今も昔も、政治家が選挙の折りなどに、国力や国策について演説するのは普通の光景だ。だが、高級官僚が自らのラジオ番組を持ち、そこで国力や国策を熱く論ずることは現代では想像しにくい。これが昭和戦中期に実際に起こっていたことだった。

加藤陽子評『帝国の計画とファシズム』、毎日新聞2022年2月5日朝刊

まさに統治者が価値判断に踏み込み、実現可能性を考えなくなったのです。

本書は戦時日本において、国策の企画立案者として登場したテクノ=ビューロクラットがなぜ権力を掌握できたのかをも明らかにする。関東軍や支那派遣軍などの出先が軍事力で叩き出した傀儡国家・政権の統治機構に参入し、その政治・経済を運営したのが彼ら技術官僚だった。資源の欠乏を克服するため、テクノロジーと国民精神を接着させるファシズムの発想に学んだ技術官僚らが、軍部・財界・汎アジア主義者をつなぐ環の役割を果たし、多数派を形成していったとの理解である。

今度は多数派工作により無理筋を通したのです。

本書の独創性はここにある。かつて丸山眞男はファシズムの政治的機能を分析し、20世紀における反革命の最も戦闘的な形態だと定義した。対して著者は、戦時日本の経済的実態や政治制度の分析に注力し、技術官僚の理念や戦略を解明した。ファシズムの本質と機能を問題とせず実態と制度を一点突破で描いたのは見事だ。

「ファシズムの本質と機能」など、バーチャルですらない幻にすぎないのです。どうでもいいものだからこそ技術官僚が借りてくることができたのです。「実態と制度」が全体主義のすべてであり、学者はこのような実証研究にもっと注力すべきなのです。本質論なんてやっても新型の全体主義には無効なのです。

思考回路が異なるものが論議することが本質なので、統治集団だけでなく民衆内にも個性と多様性が必要なのです。多数派工作はそれを破壊するのです。

なぜならば、ミルによれば文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならない。

ウィキペディア「自由論 (ミル)

「天才」はもちろん教養ダダ漏れのダジャレ野郎のことなのです。個性と多様性があるということは、統治集団や民衆内における統治も必要だということです。前者は職能集団だから統治体制があるのは当然ですが、後者の統治体制は「自治的共同体」なのです。統治が緩むと無責任化する(逆もまた然り)ので、統治者の官僚主義は全体主義「体制」を招き、民衆の政治不参加は共同体の崩壊と全体主義「社会」を招きます。ナチスやソ連は前者でしたが現代では後者が問題なのです。「上からの革命」は民衆の政治責任を奪うので、「日本スゴイ」の批判者は全体主義を批判しているつもりで招来しているのです。

――全体主義と聞くと、20世紀のナチス・ドイツや大日本帝国のことが思い浮かんできますが、ただ21世紀の世界にはナチスのような体制はほとんど見られません。新型コロナウイルスに対応するため、国家による統制は強まっていても、それはナチスとは違うようにも思えます。それで、全体主義が再来したと言っていいものでしょうか。
中島隆博氏(以下、中島): 今、静かに忍び寄っている21世紀型の全体主義は、20世紀型のものとは性質が異なるというのが、ガブリエルさんとわたしの理解です。
 ナチスのような20世紀型の全体主義では、強力な官僚制によって支えられたカリスマ的な独裁者が民衆を一つに束ねていきました。ナチスが行ったユダヤ人大量虐殺も、組織化された官僚制なしには実行できなかったことです。「官僚主義的な悪」に支えられた全体主義だったと言えるでしょう。
 これに対して、21世紀型の全体主義では、明確な独裁者や強力な官僚制が再び登場することがあるかもしれませんが、それらがなくても、あるいは十分になくても成立してしまうのではないか。このように捉え返してみようとしたわけです。
 では、21世紀型の全体主義を形作りうるものは、何なのでしょうか。ガブリエルさんが強調するのは、特定の国家やカリスマ政治家というよりも、デジタル・テクノロジーとそれを操るプラットフォーマー企業群がもたらしかねない危険性です。これをガブリエルさんは、テクノロジーによる全体主義的な「超帝国」と呼んでいます。
 最近TikTokが話題になっていますが、そもそもGAFA(*Google・Amazon・Facebook・Appleの4社を指すことば)と呼ばれるプラットフォーマーのアルゴリズムは、わたしたちには開示されていませんし、デモクラシー的な仕方でそれに関与することもできません。しかも、デモクラシーの空間を担保する適切な競争も困難な状況です。
 インターネットの草創期には、ここにこそ新たなデモクラシーのチャンスがあると考えられたこともありますが、実際は期待通りにはなりませんでした。「デジタル全体主義」とガブリエルさんは概念化しましたが、デジタル化が非デモクラシー的さらには反デモクラシー的な方向に進んでいく危険性が21世紀型の全体主義の核心なのです。
―― この本では、全体主義は「公と私の垣根」を壊そうとする運動だとガブリエルさんは言っていましたね。
中島:20世紀型の全体主義の特徴は、人々の内面という私的な領域を支配することにありました。特別警察による思想信条の調査や密告の奨励などが典型です。公的な権力が私的な領域に浸透していったのです。ところが、今日では、わたしたちは自発的に私的な領域をさらしています。世界中の人々が、SNSを通じて、自分のプライベートな事柄をネット空間に直接的かつ瞬時に(immediately)アップしています。そこには、様々な意味での媒介(mediation)が欠けています。戦前の日本の特高(特別高等警察)関係者がこの状況を見たら、どう思うでしょうか。
 20世紀型の全体主義の時代には、「市民的不服従」という仕方で権力に抵抗しました。ところが、現在のテクノロジーの「超帝国」で起きていることは、ガブリエルさんによれば、その逆の「市民的服従」です。それが、21世紀型の全体主義を可能にしているのです。
 つまり、わたしたち市民が自ら疑似独裁を生み出しているということです。デモクラシーを破壊しているのはわたしたち自身ではないのか。これがガブリエルさんとわたしからの問いです。

中村友哉、便利で快適な生活の裏で忍び寄る「21世紀の全体主義」と、それらに抗う術とは? 哲学者・中島隆博氏に聞く、ハーバー・ビジネス・オンライン

「公」は統治技術がなければ存在できないものです。「私的な領域の支配」はgovernmentの真逆であるtyrannyの技術なのです。どちらも体制の維持を目的としていますが、その手段が「約束」と「脅し」という違いがあるのです。どちらも言葉であり、約束は双方が守る責任を負いますが、脅しは一方的な強制だから自分も相手も無責任化するのです。暴力や利益をチラつかせるだけでなく、「お前を承認しないぞ」も承認を人質にした脅しなのです。無責任化された人間は行動に歯止めが効かなくなりますが、「利益や承認の拒絶」を含む「市民的不服従」により無責任化を拒否することはできます。であれば、暴力の脅威にはさらされていない「市民的服従」は「利益や承認の希求」つまり「快」の希求にほかならず、現実はまさにそうなっているのです。ガブ公はあまり頭はよくありませんが、これくらいの知性は備えているのです。

―― 最近ではSNSに自らの考えを投稿したところ、それが「炎上」してしまい、それを苦に自殺する人もいます。若者たちの日常を映したテレビ番組が炎上し、出演者が自殺してしまう事件も起こっています。それでも人々はSNSに自らの内面をさらけ出すことをやめようとしません。これはなぜでしょうか。
中島:自己への関与の仕方に問題があるように思います。ガブリエルさんは公と私の垣根の破壊を全体主義の特徴として取り上げていましたが、わたしはもうひとつ、私的な領域それ自体の破壊を感じています。
 ネット上に公開している自分のプライベートなものは、多くは他愛のないものです。何を食べたとか、何を着たとか、どこに行ったとかですね。しかし、その背後にあるのは強烈な承認欲求です。誰かに自分のことを認めてもらいたいがために、SNSで「いいね」を集めて、自分が何者かを確認したいわけです。これはまるで、他人を通じてではありますが、自分で自分をすみずみまで監視しているかのようです。自分のことが気になって仕方がないために、SNSを通じて自分自身を管理し、支配しようとしていると言ってもいいかもしれません。
 とはいえ、それは自己を破壊しかねません。なぜなら、私的な領域がプライベートなものに覆い尽くされてしまい、もうひとつ重要なパーソナルなものが消されていくからです。パーソナルなものは、所有や消費とは異なり、他者とともに形成される自らの経験とその変容からなるものです。さきほど媒介の意義を強調しましたが、それはこうした意味での他者に関わるものです。「いいね」を押してくれることを期待する他者のことではありません。その次元が消され、自己が自分によって管理する対象になっているのです。
 ガブリエルさんが指摘するように、スマートフォンなどを通じて人々の行動をスコアリングするアルゴリズムがいたるところに普及しています。公共交通機関の利用、レストランでの食事、実家を訪ねる頻度などをデジタルシステムにフィードバックし、点数をつけてもらうのです。これもまた、スコアリングによって自分自身の位置づけを確かめる作業です。それだけ現代人は自分の存在根拠を見失っている、もしくは、存在根拠を求めてはいけないところに求めているということです。

中村友哉、便利で快適な生活の裏で忍び寄る「21世紀の全体主義」と、それらに抗う術とは? 哲学者・中島隆博氏に聞く、ハーバー・ビジネス・オンライン

中島氏はガブ公より知見に富んでいます。「パーソナルなもの」はまさに「責任」のことなのです。彼らは統治者の官僚主義を指摘していますが、民衆側では「プライベート」「パーソナル」と表現してしまったため、統治者と民衆の「責任」のありようを比較考察できなくなりました。統治者もまた責任ある個人の集団であることを忘れていたのです(ミルはさすがなのです)。かように言葉選びは重要であり、文学のセンスが要求されるのです。

―― 新型コロナウイルスはいずれどこかのタイミングで終息すると思います。しかし、SNSやテクノロジーを通じた全体主義が止まる姿は想像もつきません。どうすればデジタル全体主義を克服できるでしょうか。
中島:20世紀型の全体主義であれ21世紀型の全体主義であれ、全体主義の社会では人々は単なる「群れ」として扱われます。わたしたち一人ひとりがどのような人間であるかは無視され、「その人」としては扱われないのです。パーソナルなものを避けているのです。
 そうだとすれば、全体主義を克服するには、デモスである民衆一人ひとりに開かれたデモクラシーが必要だということになります。これは字義通りの「パン・デミック」です。「パン・デミック」という言葉は「全(パン)・民衆(デモス)」を意味しています。これこそわたしたちが追求すべきものだと思います。
 その際、ナチス・ドイツからアメリカに亡命したユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントの議論が参考になります。ずいぶん前になりますが、ハンナ・アーレントの研究会に参加したとき、ある研究者から「アーレントの思想のポイントはDon’t feel at homeだ」と言われたことがあります。Don’t feel at homeとは「家にいるようにくつろいではならない」という意味です。つまり、快適さに甘えて思考停止してはならないということです。
 これは非常に重要な視点です。テクノロジーが進歩し、デジタル化が進んだことで、わたしたちの暮らしがある面で快適になったことは間違いありません。ハラリの描く未来は、まさにこの快適さに貫かれています。しかしその結果、わたしたちの生活はアルゴリズムによって完全にコントロールされることを許すのです。
 こうした事態を打開しようと思えば、快適さから距離をとって、スペースをあけるしかありません。このスペースこそがデジタル全体主義の及ばない場所であり、ここにこそ人間の居場所があります。そのためには、対抗アルゴリズムのような発想を、テクノロジーに関わる人々に持ってもらう必要がありますし、それが切に望まれているのだと思います。こうしたスペースをあけなければ、パン・デミックなデモクラシーは成り立たないと思います。

中村友哉、便利で快適な生活の裏で忍び寄る「21世紀の全体主義」と、それらに抗う術とは? 哲学者・中島隆博氏に聞く、ハーバー・ビジネス・オンライン

どうでもいいですが、Don’t feel at homeは「家でカンジてはいけない」なのです。国家には統治者と被統治者がいますが、社会では民衆みずからが統治しなければなりません。「民衆一人ひとりに開かれたデモクラシー」なんて共同体としてとっくに存在しているのです。むしろ民主主義国家が「国際社会における巨大な自治体」であり、自治体がプチ国家なのではありません。国家は自治体よりはるかに巨大なため統治技術も異なってくるだけなのです(なので小国でうまくいっている体制を大国に輸入することはできません)。足りないのは民衆の政治参加なのです。これを理解していないと「ワンクリック電子投票による直接民主制」といったトンチキが出てくるのです。民主主義国家では国民に主権があるため「民衆の力を制限する」必要があります。これは職能人にして対立者である統治者の力を制限することよりもはるかに難しく、全体主義化する危険性がずっと高いのです。民衆は統治の職能的な知見に乏しいため、自分たちの力を制限するには言葉による約束よりも「信頼」や「道徳」などのリアルな生活実感が基本になります。「快適さに甘えて思考停止してはならない」はいいことを言っているのですが、求められているのは「思考」より責任ある「行動」なのです。しかし生活実感は距離的にはあまり広がらないため、国民国家といった「止揚された」フィクションが必要になるのです。これに対し、ルソーの一般意思やヘーゲルの絶対精神のような「全体」は「バーチャルな」フィクションなのです。たとえ明るい全体主義国家であってもすぐに腐る運命なのです。消費社会や情報社会では企業と消費者の両方がrulerでありruledなのです。企業がrulerで消費者がruledではないのです。しかも経済は利益で回るため対立も論議も起きにくく、市場の自己統治が成り立ちにくいので政府が規制するのです。それでも商品が生活必需品や地産品であればリアルの担保があるのですが、嗜好品や贅沢品、情報、承認、共感といったものががメインになればそれもなくなります。安定した資本主義が健全な民主主義だとすると、暴走したグローバル資本主義は全体主義にほかならないのです。ハイエクは商品の性質が変わることで市場も変わることまでは知らなかったのです。「対抗アルゴリズムのような発想を、テクノロジーに関わる人々に持ってもらう」はないものねだりなのです。消費者を不快にするためのテクノロジーをどうやって企業が開発できるのでしょう?無論「ナッジ」のような誘導テクノロジーは消費者をますます無責任にするだけなのです。

現代科学の知見に照らすと、人間関係には感情を強める正と負のフィードバックがありますが、「似た者同士の間には強い正のフィードバックがはたらく」ので、そういった人間が集まると正のフィードバックが優位になり、状態が安定せずどこに行くのかわからなくなるのです。ここで重要なのは、共感や承認だけでなく「憎悪」や「拒絶」も正のフィードバックだということです。憎み合っているのは似た者同士だけなのです。社会が分断されているのも一体になっているのも、ロクなことにならないのは同じなのです。「ほどよくバラけている」にしないといけないのですが、そのために必要なのは共感や承認に対抗しうる自律性すなわち「個性」にほかならないのです。しかし予測不能な個性は「共感的」な人間に脅威を与えます。したがって全体主義がもっとも嫌うものも個性であり、diversity, inclusion, equalityの正体は「承認、搾取、同一化」なのです。社会にもっとも必要なものがもっとも嫌われている以上、人類に未来はありえません。

💛

実際のSMは知りませんが、文学でも政治でも幸福をもたらすのは弁証法なのです。弁証法には矛盾や対立が必要ですが(泣いている女の子と微笑んで慰める友だちも弁証法なのでした)、共感や全体主義はそれらを無にするのです。「個人主義」は定義はそのままに、自律的な個人が他律的なアトムにすり替わってしまいました。リベラリズムの価値観は古代に弁証法がもたらした「徳」に基づいていましたが、論理的整合性を重視するあまり弁証法を捨ててしまいました。もはや個人主義にもリベラリズムにも政治的自律性は皆無で、全体主義と同義語なのです。なので「政治的自律性」と聞いてもピンとこないはずです。政治的自律性の領域である道徳や倫理は本質的に矛盾をはらんでいるため、恐ろしいことに言葉で「思考」するほど死んでいきます。

(1-02-01) The struggle between Liberty and Authority is the most conspicuous feature in the portions of history with which we are earliest familiar, particularly in that of Greece, Rome, and England.

「ダジャレ」と「多数派の力」の闘争は、歴史の運命におけるもっとも顕著な特徴である。ダジャレ野郎にはその運命、とくにギリシャ、ローマ、英国における運命がまっさきに身に染みた。(犬っち訳)

ダジャレは「言葉と思考の自由」なのです。

(1-02-02) But in old times this contest was between subjects, or some classes of subjects, and the Government.

古の時代を除いて、この闘争はダジャレ野郎、あるいはその卓越と多数派の左右の間で行われた。(犬っち訳)

多数派のgovernは他人を同調させることなのです。

(1-02-03) By liberty, was meant protection against the tyranny of the political rulers.

ダジャレを武器に、多数派の圧制から身を守ろうとしていた。(犬っち訳)

市民の.
political rights 市民の権利.

weblio「political

市民のruler=多数派なのです。ダジャレは多数派の圧制、すなわち迫害から大切なものを守る武器なのです。レオ・シュトラウス「迫害と著述の技法」も同じことです。

(1-02-04) The rulers were conceived (except in some of the popular governments of Greece) as in a necessarily antagonistic position to the people whom they ruled.

多数派は(ギリシャの民衆政府の一部を例外として)必然的にダジャレ野郎に敵対する立場にあるものとして生まれざるをえなかった。(犬っち訳)

多数派はpeopleではなくpigsなのです。古代ギリシャにはダジャレ野郎はたくさんいたのです。

(1-02-05) They consisted of a governing One, or a governing tribe or caste, who derived their authority from inheritance or conquest, who, at all events, did not hold it at the pleasure of the governed, and whose supremacy men did not venture, perhaps did not desire, to contest, whatever precautions might be taken against its oppressive exercise.

多数派は部族やカーストのように一体化し、世間の人々を左右していた。多数派には迎合した、あるいは打ちのめされた人々が集い勢力を拡大した。多数派はいかなるときもダジャレを世間の人々の楽しみとはしなかった。そして多数派の共感野郎たちは、ダジャレの超めんどくさい解読作業に対応できるいかなる予備知識についても、論議をしてみようともしたいとも思わなかった。(犬っち訳)

governedは「多数派に左右される人々」で、ダジャレ野郎のpeopleとは違うのです。またsupremacy=super-mercyなのです。豚の集まりに至高の存在がいるわけがないのです。super-mercyは超-慈悲すなわち「共感」なのです。

(1-03-07) What was now wanted was, that the rulers should be identified with the people; that their interest and will should be the interest and will of the nation.

まさに望まれていたのは、多数派はダジャレ野郎を取り込まねばならぬ、多数派の利益と意思こそが国民の利益と意思にならねばならぬということだった。(犬っち訳)

しかし守るべき「最も大切なもの」つまり人類の未来は完全に潰えてしまいました。伝えるべき未来の人類がないのだから秘教にしておく意義も薄れました。今はもうその次に大切なものである「個人の幸福」を守ることしかできないのです。「人類の破滅」と「自分の幸福」の弁証法をやってみてはいかがでしょうか。

ダジャレは不幸な豚ではなく幸福な人間にさせるのがとても上手い;不幸な愚者ではなく幸福なソクラテスにさせるのがとても上手い。

動物の幸福はリアルだが人間の自己愛の満足はバーチャルなのです。しかしダジャレは動物脳を鍛え人間を幸福にすることができるのです。幸福を生み出せるのは動物脳だけなのです。ちなみにソクラテスの「産婆法」も幸福をもたらす弁証法なのです。

終末論(しゅうまつろん、英語: eschatology)とは、歴史には終わりがあり、それが歴史そのものの目的でもあるという考え方。目的論という概念の下位概念。
社会が政治的、経済的に不安定で人々が困窮に苦しむような時代に、その困窮の原因や帰趨を、神や絶対者の審判や未来での救済に求めようとするのは、どこの文化でも宗教一般に見られ、ユダヤ教からキリスト教、イスラム教、ゾロアスター教といった一神教においてのみならず、仏教などの宗教などにおいても同様の考え方がある。しかし、終末ということの基準を、個々人の死の意味ではなく、民全体にとっての最後のとき、民全体に対する最後の審判と義人選別救済のとき、とするならば、終末論は本質的に一神教のものである

ウィキペディア「終末論

アニミズムを源流とする多神教はリアル、野性のものですが、一神教は「はじめに言葉があった」というくらいで、かなり言葉、理性に傾いているのです。一神教の終末論は脅しと死後の救済を与えるのです。自分たちだけが天国に行け、嫌な連中は地獄に落ちるので大満足なのです。多神教の終末論は悲惨な現実に生きる力を与え、毎日がウルトラハッピーなのです。

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