こんにちは、君がいない世界

(2017年に書いたものです)

 ある人がいなくなっても人を取り巻く世界は変わらない、ということを信じている人が多いように思える。だが、考えて欲しい。その仮定がもし正しいならば、世界から自分以外の人が全員消えても世界は変わらない、ということも正しいことになる。

 人はどのように個人を特定しているのだろう。最初に思いつくのは名前ではないか。しかし、僕の名前は一般的な名前で、おそらく同姓同名の人もいるように思える。では、その人のしてきたことではないか。確かに一代で大金持ちになったような人物ならば、それで特定することができそうだが、悲しいかな。僕のしてきたことは趣味、勉強、スポーツ、交友関係など凡そにおいて、一般的な二十一歳がするようなことしかしてきていない。はずだった。だが、雲少なめ、青色多めのある朝、気づいたのだ。三雲さん。苗字は覚えている。けれども、まるで子供の頃大事にしていたぬいぐるみに関することを思い出せないように、三雲さんの容姿、三雲さんという人物像、三雲さんと過ごしていた日々と言った三雲さんに関することを思い出せない。ただ、名前と思い出せないという事実だけがわかる。僕は正月の駅伝を見ている時を除いてはほとんど泣かない人物であると自己評価をしていたのに、どうしてだろう。このとき、僕は泣いていた。

 どうして泣いてしまったのかはわからない。いや、普通に考えて、朝いきなり泣くということは起きないだろうし、どうもこの名前以外を思い出せない三雲さんという人物が関わっているような気がする。けれども、泣いたところで世界は変わらないし、とりあえず前日にコンビニで買って冷蔵庫に入れておいた昆布のおにぎりを食べることにした。冷えていてご飯が死んでいたが、昆布は生きていた。どうやら昆布の方が長生きするらしい。荷物をまとめて、外に出る。晴れているなんでもない日だった。なんでもない、ということはそれだけで素晴らしい。しかし、なんでもないが故に、今日も大学はきちんと存在しているはずである。ということで、大学へ向かうために駅へと歩を進めることを決めたはずなのだが、やはりこれまたいつも通り足取りが重い。


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