感染経路不明のウイルステロリストたち
まるで、テロではない。
テロそのものである。
感染経路不明のウイルステロリストたち
問題になるのは、この国の規律、実行、そしてルールを守れない人口の割合。
日本人は、本当に規律正しいのか?
飛沫感染が、発話2m、咳3m、大声・くしゃみ5m、シャンパンコールや歌唱10m、そして、エアロゾルと呼ばれる空気感染が新たに恐れられる状況においては、ホストクラブなどの接客クラブやライブなどにおいては、演者と客、客と客、少なくとも5〜10m以上のソーシャルディスタンスが必要になって来る。快楽を求め、感染可能性の高い三密の場所にのこのこ出かける生活行動が変えられない反社会性由来のスーパー・スプレッダーたち。
「悪意には向き合わないのが一番」
という、いかにももっともらしい考え方が最も危険である。
確かにライブ参加者には自由がある。素晴らしい音楽を聴きたいのも「自由」だし、ウイルスに感染するのも「自由」である。だが、ライブの参加者やホスト客は、「自由」という自然権を乱用している。
確かにホストクラブ、キャバクラ、風俗、ライブ演奏にも、参加者には「自由」がある。若い異性の肉体に触れたいのも、素晴らしい音楽を聴きたいのも「自由」だし、ウイルスに感染するのも「自由」である。
「自由」とは恐ろしい概念である。だからこそ「権」で戒めなければならない。
ライブ参加者やホストクラブの客たちは、全ての人間にはその「自由」を戒めるために自然権としての「人権」が存在することを全く理解していない。
パラドキシカルに言えば、この国の全ての人間は、ライブ参加者やホスト客の「人権」を制御する自然権としての「自由」を持ち合わせている。
それは、人間が、自然状態(政府ができる以前の状態、法律が制定される以前の状態)の段階より、保持している生命・自由・財産・健康に関する不可譲の権利であり、「人権」と「自由」は、自然権の代表的なものとされている。
つまり、民主主義とはこうした背信的悪意者の「自由」を徹底的に追いつめて戒めなければ、この国の「人権」という概念はいつまでも浮かび上がってこない。この国のコロナ禍の時間性は、「自由」と「人権」の概念を明確に規程しなければならない、重要なフェーズ局面に突入していると言えるのである。
「背信的悪意者」を非道徳な人間、また、反社会と呼ぶべきなのか。誰かが「詩的な表現」で明言しなければならない。
私はコロナウイルス禍においては、ウイルステロリストと呼ぶのが、この未知のウイルスとの戦争における、「戦線の拡大」において最も戦略的で有効な表現だと思う。まるでテロではない、テロそのものなのである。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?