「コロナ均衡」ー新型コロナは一つの「理念」である。❺「コロナ均衡」から、「環境均衡」へ


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         「コロナ均衡」ー新型コロナは一つの「理念」である。


❺「コロナ均衡」から、「環境均衡」へ


「環境均衡」とは、自然との共生のことである。「共生」は、本来は、自分たちも「自然の一部」と考えるべきであるが、この国では「自然」と「人間」それぞれが並び立っている。

ヒトの 体は約 60 兆個の細胞より成るが、一方、我々の腸管、口腔、体表などには 100〜1000兆個 もの共生微生物が生息し、我々に利益を与えてくれている。数の上では共生微生物の数がヒトの細胞数を圧倒してい る。人間をヒトと共生微生物から構成されている超生物と見なせば、この超生物、即ち、人間の体は 9 割が細菌ということになる。

こうした体内微生物が、免疫系など人体の仕組みと密接な相互作用をしていることを考えると、人間とは、ヒトの細胞と微生物とが高度に絡み合った「集合的有機体」とみるのが適切だ。人間の体内に存在する細胞のかなりの部分は、人間自身のものではない。それどころか、それは細菌(バクテリア)の細胞なのだ。そういう意味では、人間は歩く「超有機体」であり、ヒトの細胞と菌類、細菌、ウイルスが高度に絡み合った存在とみるのが、最も適切なとらえ方だと言える。

ウイルスの「心臓」を狙ってもだめだ。ウイルスには「心臓」がない。肉を切っていくしかない。ウイルスの「石」(黒)をひっくり返して「不活化」する。そうして支配の幻想を消していくしかない。

ウイルスを殺すことなどできない。何故なら、ウイルスは生きていないのだから。
ウイルスは基本的にエネルギーを作りだすことはない。自身では設計図を持っているだけで、宿主の細胞に働きかけて上手にそのシステムを利用しているイメージだと言える。

これらの活動から考えると、ウイルスはまるで生きているかのようだが、ウイルス=生き物かどうかには賛否両論がある。

自分では動けない、しかし自身を増やすことはできる。何をもって“生きている”と定義するかによるが、進化をして、子孫を残すという性質を重視すれば、生きていると考えることもできる。

だが、ウイルスは、菌ではない。細菌は細胞を持ち、栄養を摂取してそこからエネルギーを生産、細胞分裂を繰り返すことで生存、増殖を行っていることから生物とされるが、ウイルスに関しては細胞がなく、栄養を摂取したり、エネルギーを生産することはなく、自力で動くことも、単体で増殖することもできない、生物とも非生物とも言えない概念なのである。

現在の生物という概念は、細胞と遺伝子の両方を持っているが、その遺伝子と細胞と、そのどちらが生物にとって本質的なものか、つまり、ウイルスの存在は、生物の概念において「遺伝子が先か、細胞が先か」という命題でもある。

ウイルスに対しては、そもそも除菌、殺菌、抗菌などという言葉は適切ではない。菌ではないし、生物でないとしたら殺すことはできない。

では、ウイルスに対してはどのような言葉が妥当か。無難な表現としては消毒があり、もっと的確な言葉としては感染力を失わせる、ウイルスの構造を破壊するという意味で不活化という言葉が適切なのかも知れない。


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