「コロナ均衡」ー新型コロナは一つの「理念」である。❽ニューノーマルと呼ばれる、ポスト・コロナ時代のデフォルト


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         「コロナ均衡」ー新型コロナは一つの「理念」である。


❽ニューノーマルと呼ばれる、ポスト・コロナ時代のデフォルト     ヒトの肉体は、どこから来なくて、どこへ行かないのか。



ヒトの命とは一体誰のものであり、誰が、誰のために守るのべきものなのか。このウイルスとの戦いには、人間が当たり前のように、自分のものだと思っている、このヒト肉体は、一体誰のものなのかという壮大な命題が包摂されている。
新型コロナは、私たちが追求する実際の価値の本質を明らかにした。すなわち、「生以上の価値はない」ということである。そして、僕たちの生を維持させるものは「健康のための、きれいな空気と水と大地」に他ならない以上、これらのものの維持、保存、保護こそが価値の原泉であるといわれるのである。

それはコロナ以前の経済学から見ればきわめて素朴な議論であったが、しかし今日の私たちの目にはもっとも新鮮な「定常」であるように映る。もう、以前の社会、生活に戻れることなど決してあり得ない。覚悟を決めるしかないのである。

ポスト・コロナ時代に残るのは、社会的インフラ(上下水道、交通網、通信網、電気ガスなど)、制度資本(学校、医療、司法、行政など)、経済産業(工業、農業、林業、水産業、商業など)人間が集団として生きて行くためになくてはならないものだけだ。それが、ニューノーマルと呼ばれる、ポスト・コロナ時代のデフォルトである。

経済派は、失業率が1%上がるごとに自殺者が1000人増えているとし、「2万人近くの人間が自殺だけで亡くなる可能性がある。
日本のほとんどを占める中小企業の半数が11か月後には倒産の危機に見舞われ、失業率が20%くらいに上がるというシミュレーションを持ち出して、人の命対経済ではなく、人の命対経済で死ぬ命だと対立構造をすり替える。

もちろん、感染症のシミュレーションもやりつつ、経済や人々の精神に影響するところもやっていかないといけないのは当然である。
だが、そもそも倒産や失業と、自殺とは位相が異なる問題である。例え、倒産、失業しようが、自殺など考える必要のない社会や常識を構築することが重要なのである。

もう、以前の社会、生活に戻れることなど決してあり得ない。覚悟を決めるしかない。現在ある企業や産業を、全て守ることはできない。もはや、人間を守るしかないのである。つまり、様々な事業におけるハコのあり方はドラスティックに変容することは避けられない。非情ではあるが、壊すべきものは、壊すしかない。

パンデミックが収まった後も消費が元に戻るとは思えない。「過剰消費」と「莫大な無駄」で成り立つ現代社会、産業革命以降の経済拡大は、壮大な無駄の相乗効果の上に成り立ってきた。
消費の無駄は文明を支える“美徳”だ。と喚き散らしながら、いったいこれまで何を作り上げ、何を壊して来たのか、その一つ一つについて冷静な点検を行うべき時が来ている。

そして、私たち自身もエシカルな「貧困」について、そも覚悟を示さなければならないのである。エシカルな「貧困」とは、「限界生産性曲線」と「生存限界賃金水準」の合意形成についてである。

重要なのはコロナ危機によって、ドラスティックな行動変容が起こっており、自粛解除の後も、社会のプラットフォームが根本的に転換されることになるということである。私たちは、そろそろ、問題の全体像と先端を議論する必要がある。


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