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日本人にとって「人権」は、右左がよくわからない左右失認

こうした場合、一般的な日本人にとっては、大坂なおみは「少し面倒くさい人間」ということになる。そして、そうしたコメントの際には、必ず、「肌の色とか関係なく」という枕詞をつけるのが特徴だ。

残念ながら、これが日本人の持つ一般的な「人権」感覚である。



日本人にとっては「人権」は、右左がよくわからない左右失認


この国は「人権」概念が獲得できていない。その背景にあるのは「自由」や「環境」などのとの空間の対象概念の定位認知機能が働かないことにある。

つまり、「人権」と「自由」という左右の判別が瞬時に出来ない「左右失認」の状態にある。頭のなかでイメージを回転して操作することができないことにより混乱する。

左右失認とは、病気や障害ではないが、左右が瞬時に判別できない症状だ。しっかりと意識さえすれば左右の判断ができる。普通はそんな意識を持つ必要はない。右左を急に問われると、「右は右手、利き手だ。僕の利き手は右でお箸を持つ、茶碗を持つ方が左」と心で強く想うことで、右が右であるという事実を確認する。

日本人は「人権」という概念の空間知覚が出来ない。この国の人間の最大のパラドクスは、空間の対象概念の定位認知機能の欠如、頭のなかでイメージを回転して操作することができないことにある。
日本人は無理な言語化、定義化、法制化、数値化を繰り返し、感覚器官の一部を偏重するということに加えて、無意識のうちに、言葉、数字、といったものに頼って論理構造を作り上げ、それにとらわれてしまう。

日本人はディープラーニングやエビデンスを好んで使う、科学やコンピューターが絶対正しいと思っているから、肝心な時に直観とイマジネーションが湧き出てこない。まるで初期のAI将棋を盲従しているようだ、これでは藤井聡太棋聖には勝てない。もちろん、新型コロナウイルスにも勝てない。

「人権」とは、あるべき「権利」ではなく、「行為」のことである。国家や個人であろうと、暴れ出す「自由」を制限するのがヒューマンライツの概念である。つまり、「人権」とはあらゆる形態の差別と暴力の撤廃のための、グローバルに闘う権利のことである。新型コロナウイルスでの様々な私権の制限においても、その個別状況においては人命尊重や高度の公益の観点から実定法上の根拠に欠ける措置を行政権が講ずることは「人権」の発動形態の一つと考えるべきなのである。

だが、日本人は瞬時な判断ができない。


「人権」と「自由」という左右の判別が瞬時に出来ない。そもそも「人権」と「自由」は、空間の対象概念において、左右であることの理解に到達していない。

そして、「人権」判断は、様々な状況下においては、右折であったり、左折であったり、バックであったりその空間的位置は変化する。       えーっと、こっち側が「人権」だったかな?、こっち側が「自由」だったかな?だったら、権利はどっち側、義務はどっち側?では、
右折、左折がすぐに出来ないのである。いちいち、その言葉や定義を検証し、法や行政を通さなければハンドルが切れない。
つまり右左をすぐに判断できない。これはゲルストマン症候群における左右失認という症状である。
この国では、左右の方法転換の局面になると、
ほんとうにやっかいである。
「えーっと、右は箸を持つ方」、
「えーっと、左は茶碗を持つ方」
同乗者に同意を求めるときには、
「えーと、箸を持つ側に、
いや、君たちの国ではナイフを持つ側、
でも、それは人によってはフォークを持つ側
えーっと、えーっと」

ブラック・ライヴズ・マターにおいて、大坂なおみはテニスプレイヤーである前に一人の黒人女性だと言って試合を棄権した。瞬時に方向を変えた。それは彼女自身の中でそうすべきだという深層に潜在する意識、直観とイマジネーションがそうさせたのである。

もちろん、それが絶対に正しいと限らないが、新型コロナウイルスにおいては、「人権」や「自由」という右左折が瞬時に求められる交差点の連続である。
この国は、「えーっと」、「えーっと」と言っている間に交差点を通り過ぎてしまっている。

目の前で燃え盛る家事を鎮火させるために、クラスタの破壊消火も出来ず、延焼を食い止められない。誤解ないように言っておくが、決して「人権」を無視せよ、と言っているのではなく、右と言われたらすぐに右手があがるように「人権」概念を獲得しなければ、この未知のウイルスとの厳しい戦いを乗り越えることはできない。

そもそもこの国では、いつまで経っても「人権」や「自由」がよくわからない。厄介なことに「人権」を不可侵な個人の権利だと思っている。周辺環境内において、あるいは自分との位置関係について、視覚による物の相対的位置の識別に関する精神機能.空間の対象物の定位、相互関係、立体構造、座標軸の認知が出来ないからである。

周囲との関係で自分の居場所を知る、また他の物体が自分に対してどの位置にあるかを知る能力や数種の物体のどれが自分から近いか遠いか、あるいは自分と物体との距離を判断する能力、奥行きに対する認知機能や知覚を持ち合わせていない。


こうした問題において多くのコメントは、大坂なおみは「少し面倒くさい人間」ということで、自らのエントロピーを縮減するために、「認知的不協和」を起こし一斉に騒ぎだす。また、政治家や学者コメンテーターも「人権」の局面ではうまく曲がれず、人に聞かれても、その概念を獲得していないからうまく説明出来ない。

交差点で、運転手さんに
「交差点右折ですか、左折ですか?」
と聞かれると自分の手を思い浮かべて、
「左です!」と叫んだつもりが、
口から出たのは、「茶碗の方向です!」というトンチンカンを言うことになる。
そんなことを言っても、茶碗は左手で持つものもいれば、茶碗を使わない国もあれば、茶碗そのものがわからない子供たちや障害者もいる。
「人権」という定義ではなく概念を共有しなければ何の意味も持たない。

この国の「知術」という限られた論理空間においては、左右の概念の失認、左と右が瞬時に判断する直観とイマジネーションが獲得できていない。判断基準を全て定義や法的解釈に置き換えなければ何も判断できない。「右」という概念の共有化するためには「北を向いて東」、「この本を開いて偶数ページのある方」などと、言葉や定義にしなければ概念共有が出来ないのである。概念は書物で学び、必要に応じて使うことができない、そういうやり方では身につかない。現実的な意味での「人権」は習慣の結果として生まれる。実践することによって覚えられる類のものなのである。「人権」を身につける第一歩は実行することだ。それは技能を身につけるのと同じことである。知識よりも肉体感覚やプリミティブな感情を基準に物事を判断することが最も重要なのである。つまり、「習律」である。日常の一つ一つの問題の背景に潜む、「人権」の思想核と向き合うことでしか、ほんとうの概念を手にすることは出来ないのである。

これが概念リテラシーであり、どんな小国、後進国、独裁国家においても「人権」概念は存在する。未だに「人権」概念を獲得していないのは、世界中見渡しても日本だけである。

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