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Chew for the future チューフォーザフューチャー 未来への咀嚼

Chew for the future
チューフォーザフューチャー
未来への咀嚼

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はじめに                              ポビドンヨード発言は、この国の「科学」の限界と絶望を提示した。


ポビドンヨード発言は、人間の科学は、ひょっとして、二千年の迷妄の中にいるのではないかと思わせるような、まさに衝撃的な発言であった。トランプの消毒剤注射や、ルカシェンコのウォッカ飲めば大丈夫、そして吉村知事のポビドンヨード発言。さらに驚くべきは、これらを一定の効果ありと、真顔で評論する専門家やコメンテーターの存在である。


「唾液」の力、傷の治り早くー古くから「唾液」は、免疫の代表選手であった。

「唾液」は、口の中の汚れを洗い流す自浄作用や抗菌作用に加えて、粘液成分のムチンが粘膜の修復作用を進める。最近では、ヒスタチンと呼ばれる唾液中のタンパク質が、血管の新生、細胞同士の接着などに影響し、傷の再生を促進することが解明されている。「唾液」で対応不可なものは口腔内では既に対応できないということである。「唾液」は人間にとっての絶対液である。

どんな状態であろうと、うがいの効果のほとんどは口や喉がさっぱりさせるために、口の中の「唾液」という素晴らしい液体に対して、場合によっては過剰滅菌なるようなことを推奨すること自体狂気の沙汰としか言いようがない。
人間の「免疫」においては、いつなんどきでも、爽やかでサラサラな「唾液」が出る様に訓練トレーニングすることが重要なのである。吉村大阪府知事はこんな単純なことすら理解出来ず、稚拙なサイエンスの断片にすがりついて目先のパフォーマンスに走ってしまったのである。
だが、ここは吉村氏を責めるのではなく、大阪府民は、この愛すべきリーダーの将来のためにも、今すぐドクターストップをかけてあげるべきである。このままだと、吉村知事は壊れてしまう、健康不安の安倍首相の二の舞になる。これ以上この若きリーダーに負荷を与えるべきではない。そもそも、新型コロナウイルスという地球規模の人類危機に対する戦いにおいては、何の経験も臨床も原体験も持たない、一政治家、一弁護士の分際で対応できるはずがない。つまり、この問題は、目先の読みばかり繰り返す、政治、法や科学の知術の問題ではないのである。新型コロナ禍における最大のパラドクスは、ヒトによる原体験なき臨床、治験、そして科学小説のような論文の氾濫であると言える。


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「食」はインテグリティな社会的行為であり、環境リカバリーである。


免疫食の目的が目の前の人間の臨床だけではなく、社会的に感染を防ぐことを目的にしている。社会的検査と社会的食事により、免疫クラスタをトライブ、そしてゲマインシャフトとし、全国、全世界レベルに展開していかねばこの問題の真の解決には到達しない。全世界の新型コロナ禍を救うのは、日本の伝統的な免疫食である。
アメリカで食事革命が始まったのは、1977年に発表された「マクガバン・レポート」が始まりである。当時アメリカは日本と同様に、死亡原因の第1位は悪性新生物(癌)だった。そこで当時のニクソン大統領が癌による死亡率を半減しようと、アポロ計画を削減して癌治療技術の改善に予算を投じたが、癌は減少するどころかますます増加して、1977年にはその治療費が当時の日本円で25兆円にも達してアメリカ経済が破綻しかねない状況になっていた。
その当時の大統領だったフォード氏は、治療より予防対策に重きを置く方針転換をして、副大統領のジョージ・マクガバン上院議員を委員長とする栄養問題特別委員会を設置。医師・薬学研究者など3000人ものスタッフを集め200億円の巨費を投じ、2年間かけて調査した結果を5000ページにものぼる「マクガバン・レポート」に纏めて、議会上院で発表したのである。

マクガバン・レポートででは、5000ページにも及ぶレポートの中で、さも理想的な食習慣は日本食であると結論付けられている。
そして「最も理想的な食事は元禄時代以前の日本人の食事である。」と報告しているのだ。具体的には、精白しない殻類を主食とした季節の野菜や海草や小さな魚介類である、もちろん牛や豚などの肉類は含まない。
だが肝心の現代日本人は、食の娯楽から抜け出すことが出来ない。こういうことを言うと、この国の「焼肉」や「ステーキ」をやめれない人間たちは、自らのエントロピーを縮減するために、「認知的不協和」を起こし一斉に騒ぎだす。だが、いくら騒いでも事実だから仕方がない。彼らに理念は存在しない、ただ「ステーキ」を食べたくて仕方ないだけなのである。だから、この運動は「彼ら」とは議論しない、非ターゲットである。無駄な時間に運動資源を注ぐ必要はないのだ。こうした運動が大きなると、無節操について来るのが彼らの最大の特徴なのである。

社会目的食事の主題は2つある。一つは、臨床医療目的食事として、インターフェロン産出を活性させ、エピジェネティックに自然免疫をトレーニングを行っていく。そして、もう一つは、咀嚼を行うことにより、人数の多少を問わず、「食」の娯楽性を排除し、「食」は咀嚼であるという論理の秩序を転換する。そして、飲食産業を娯楽エンターテインメントから、HECP人権環境コミュニティパブリックのエッセンシャルワークとして、飲食事業の保護及び支援を展開する。

未来の「食」においては、咀嚼による「唾液力」を見直し、新型コロナやインフルエンザなど、目に見えない、ウイルスにも負けない免疫システムのデザインを目指すべきであり、「食」はHECP人権・環境・共同・公共のインテグリティな社会的行為であり、環境リカバリーなのである。
免疫食は、訓練免疫ー自然免疫のエピジェネティックな再プログラム化により、「重症者」は「中等症者」に、「中等症者」は、「軽症者」に、「軽症者」は、「無症状者」に、「無症状者」は非感染者になる可能性を秘めている。

そうやって、迫りくる医療崩壊を防ぎ、社会経済活動を維持するという2つの大きな目的のために免疫食を展開していく。
ゲンマイドトキシンは糠に覆われているが、糠にこそ多くの栄養が含まれている。ただ、この糠が固く消化されにくために必要とされる噛む回数が最低でも100回というわけである。よく噛むのは、糠を細かく砕くため、できるだけ多く咀嚼し、唾液量を増やすためであり、唾液中の酵素が糠を消化し、吸収されやすくなる。
唾液は消化液にとどまらず、風邪やインフルエンザなどの感染症の予防、日本人の死因の上位を占めるがん、脳卒中、肥満や生活習慣病の予防、歯周病や誤嚥性肺炎などの感染症予防、アンチエイジングなどにも深く関わっている。
唾液には“IgA”という成分が含まれており、身体の中に入ろうとする細菌類をシャットアウトし、免疫力の強い身体を作っている。しかし、加齢やさまざまな要因で唾液の力が低下すると、病気になりやすい身体になってしまうのである。ウイルスとの戦いにおいては、「唾液力」をきたえることもポイントになる。                         
唾液中の分泌型免疫グロブリンA(s-IgA)は、病原体の生体侵入に対する第一線の防御機能として働き、粘膜免疫に重要な役割を担っている。s-IgAには、ウイルス中和、細菌凝集、粘膜上皮細胞への細菌付着の阻止、種々の食物アレルゲンとの結合など様々な活性が、みられる。これらの活性によってs-IgAは病原性微生物の粘膜侵入を阻止し、とくに上気道感染に対しては血清抗体その他の免疫システムよりもさらに有効な第一線の生体防御機構として働くと考えられている。

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ゲンマイドトキシンは、よく噛むと薬になり、よく噛まないとトキシン毒になる。

ゲンマイドトキシンは、よく噛まないと栄養を吸収できない。噛むという行為は消化のための薬のようなものである。
「よく噛む」ことによって消化を手助けするだけではなく、大食いを防ぐことにもなる。
早く食べると満腹中枢が働く間がないので、結果として満腹感を得るための量が多くなってしまうのである。特に体調が今一つ、あるいはウイルス感染に不安を抱えている人は、噛めば噛むほど効果が期待できる。
よく噛むと唾液で殺菌もできるので、病気予防にもなり、噛むことは私たちが体にしてあげられる最後のいたわりなのである。


新型コロナウイルスは、一つの理念である。
「舌根」を通じて宿主に潜入する。


食は、すでにエンターテインメントから、「白米」なし、「肉」なし、「会話」なしそして、「おもてなし」なしの環境リカバリー時代の新たな食のスタイル、神事に移行している。
「食」とは「咀嚼」のことであり、他者の命を頂く神事である。経口摂取の際に咀嚼集中が必要になり、発話による唾液、飛沫感染が発生しないこと。つまり、よく噛み咀嚼を行うことは、飲食において唾液による飛沫感染を防ぐことにも繋がる。

咀嚼に集中すれば、会話もなく飛沫は発生せず、ゲンマイドトキシン+ 咀嚼行= 栄養補填、免疫力増大、脳の活性化、満腹中枢刺激によるダイエット効果が得られる。
噛むことは非常に重要であり、唾液の分泌促進(免疫力増大)、脳を刺激、満腹感を感じること ...咀嚼による消化肥満も起こらない。


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新型コロナウイルスは、人間の六根を通じて侵入する。六根とは、眼根(視覚)耳根(聴覚)鼻根(嗅覚)舌根(味覚)身根(触覚)の五感と、それに加え第六感とも言える意根(意識)の根幹のことである
そして、新型コロナウイルスは、ゴラク(娯楽)ウイルスである。視覚の娯楽、聴覚の娯楽、臭覚の娯楽、味覚の娯楽、触覚の娯楽が侵入経路である。私たちは、まずは何よりも食を娯楽として捉えて、大勢でワイワイ騒ぎながら、美味しいご馳走を頬張るという論理の秩序を転換するところから始めるべきである。
政府の新たな新型コロナ対策として、 安倍首相は新型コロナウイルス感染症について指定感染症の「2類以上」の扱いから運用を見直しすことを発表した。その目的としては、軽症者と無症状者は宿泊施設や自宅での療養を徹底し、医療機関の負担軽減を図ると述べているが、新型コロナをいたずらに恐れるのではなく、脳を上手にだませばいい、目の前の現実から目を逸らし、感染はまるで気のせいというような、脳を騙す「のうだま」作戦にすぎないのである。

新たな理念を打ち出し、ゴールポストを動かし、大麻合法化のような、ゲームチェンジャーをドラスティックに展開するには、それなりの覚悟が必要だが、残念ながらこの国の政府、議会、国民にその覚悟など持ち合わせていない。



「社会には、演劇でしか解決できないものが存在する」
今、この国に必要なのは、論文ではなく、演劇である。


世界には家アーキテクチャーという、無限の「小劇場」が存在する。「演劇」で出来ることは現実でもできる。地球規模でのウイルスとの戦いにおいては、初発的に「家」の形象を全ての始まりにするべき。

「家」アーキテクチャーの強みは、それが存在の内部に生きているということ、存在を完全に包囲することができるようになるまで、そのどんな小さな欠片をも自分のものにすることができるということである。「家」アーキテクチャーはいかなる具体的存在も必要とはせず、価値創出のすべての決定に対して、つねに先んじるのが「家」アーキテクチャーなんだ。

「家」アーキテクチャーは単に物理学的な空間を意味するだけでなく,何かを論じる際の基本的論述形式,あるいは論題を蓄えている場、共通の観念を想起させてることで、特定の場所を意識させる現代の〝トポス〟であるともいえる。


このオルタナティブな諸局面、 新たな諸形象 、新たな諸世界。
世界を救う「演劇」に参加しないか?


多くの科学者はかつて、地球が直面している最大の問題は生物多様性の喪失、生態系の崩壊、そして気候変動であると考えていた。 彼らは科学の力でこれらの問題に取り組むことができると信じていた。 しかし、科学者たちは解決のための対処方法を知らない。彼ら間違いに気づいた。この新型コロナウイルスは環境リカバリー問題であり、利己的、貪欲、無関心であり、精神的文化的な人間に変革することが最大のポイントなのである。

人類はこの未知のウイルスに真正面から、世界規模で抜本的に挑まなければならない。国家や政府が主導することは必要なことだが、それだけでは決して充分だとは言えない。私たちにできる最善のことは動員できる大規模な市民のグループを集めることではなく運動の質点となるコンセクエンスを示すことにある。
そして、そのコンセクエンスは、一度大成功するだけでは不十分であり、持続可能な運動、しかも世界中で起こる必要がある。


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この問題に対して、いちいち「議会」や「政府」を相手にしてもしかたがない。目的に直接アプローチすることが合理的で何よりの近道なのである。新型コロナ禍における、ウイルス学、免疫学、専門家に対抗するのは、持続可能性を高めようとする個性豊かな人々で、唯一の共通点は、遠い未来を見据えているということである。こうした運動のコミュニケーションは、たいていの場合、小さな共同体や近隣集団のなかからゆっくり始まるが、一定のポイントに達するとウイルスのように拡散するようになる。

Chew for the futureチューフォーザフューチャーの運動は、咀嚼するだけ、つまりよく噛むこと、ただそれだけである。そして、この革命は、家アーキテクチャーにおいて、演劇の「屋台崩し」という手法を使う。
マルクスやレーニンは革命を発明した。21世紀の私たちは、「日常」を発明し、再定義しなければならない。そのような努力の向こうに見えてくるのは、具体と普遍の関係についての知見であり、人間性の本質に関する洞察であり、「芸術」の可能性でもあるのだ。

チューフォーザフューチャーにおける「食」の再構築は、私たちの「日常」が底光りすることの理由をつかみ、自己形象する「芸術」である。現代の私たちが形象しなければならないのは、戦争でも暴力革命でも市場原理による経済発展でもない、ごくありふれた「日常」の再構築なのである。

「家」アーキテクチャーはいかなる具体的存在も必要とはせず、価値創出のすべての決定に対して、つねに先んじるのが「家」アーキテクチャーなのだ。「家」アーキテクチャーの強みは、それが存在の内部に生きているということ、存在を完全に包囲することができるようになるまで、そのどんな小さな欠片をも自分のものにすることができるということである。

私たちが「実践」と呼んでいるのは、いうまでもなく、「存在」に依拠し、「存在」を変容させ、「存在」を生産し、「存在」を再生産する「実践」のことである。今までのように問題の解決を国や行政の既存の仕組みに任せているだけでは何も進まない、一人一人が動くしかなく、「スタンドー立ち上がれ」というのが全世界で起きているさまざまな現象に通底するメッセージなのである。
今後数年間で、人々の心の中に地球規模の意識が出現する。その本質や大きさは今のところ分からないが、数年後には、世界は距離がなくなり、その新たな意識は、私たちに論理的な結論をもたらすだけでなく、他の人々のタスク(行動)を通じて、家アーキテクチャーは、世界中で群発的に発生していく。別に誰かが「そうしよう」と決めるわけでもないし、主導するような社会理論があったわけでもない。集団的な叡智が発動するときというのはそういうものなのである。

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