「いじめ」は犯罪の「最高形態」であると言える。


教師たちにとってこれらの行為は、「暴行」でも、「傷害」でも、「いじめ」でもない。
「悪戯」、「悪ふざけ」、「悪ノリ」にすぎず、それらに通底するのは、「いじり」という「象徴」の概念である。

「象徴」とは、事象を代表して表現している心理過程、この意味では心象ないし観念とほぼ同義。精神分析においては,特に無意識の欲望などを表わす意識的観念を指す。

つまり、「いじり」や「いじめ」は、単なる「イメージ」であって、「概念」ではない。「概念」は、その中にどの様に行動したらよいかを言う「行動様式」を含んでいる。これにより、人はいちいち、結果をシミュレーションしなくても、自然に行動することが出来る。それに比べて、「イメージ」は「行動様式」を含まず、単なる感覚の段階なのである。

言い換えれば「いじめ」は刑法犯罪の「最高形態」であると言える。「概念」としては実存しない。だからこそ、この「いじめ」問題は「法」では決して解決できない。法の支配で制御出来ない卑劣な「象徴犯罪」こそ最大の罪なのである。

こうした一連の「いじめ」を根絶するためには、初発的には「いじり」と「いじめ」を概念統一し、統合された概念行為は全て犯罪として「法」の遡上に載せることの覚悟が必要である。

つまり、この国のお笑い芸人が、「いじめ」と「いじり」は違うなどと詭弁を弄しても、通底するものは同質である。暴力に対してしつけと体罰を線引きすることは困難であるのと同様である。お笑い芸人松本人志の、その行為が面白く笑いが起これば「いじめ」ではなく「いじり」であるなどという稚拙で身勝手な考え方とは決別しなければならない。この国の人間は、「人権」や「民主主義」における「笑い」の在り方について根本的に見直し、何でも面白ければ許されるという論理の秩序を転換し、「退屈」を許容する覚悟があるかが問われている。

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