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『片言の片想い』②

台風は町中を覆った暑苦しい空気を連れて太平洋に消えた。
残された空は澄んでどこまでも高く、
小さくまとまった雲のかけら達がまばらに散っている。

リビングにあつらえたほんの飾り程度の出窓からは、
隣家の庭を挟んだ向こうに浜辺が見える。
ほんの数日前まで賑わいを見せていたビーチも、
今は人影もなく全く別の場所のように思える。
波は人だかりを名残惜しむように静かにゆっくりと寄せては返している。

この町に流れ込む潮風はいつも、
湿り気を帯びて髪や服や生活の中に柔らかく溶け込んでくる。
この町で生まれ育った僕にとっては、
この湿った空気ですら体の一部を形作る大切なパーツになっている。
数年間都会で暮らしたこともあったが、
街の空気が体に合わないような感覚があった。
排気ガスや人混みにアレルギーがあるわけではない。
理屈では説明がつかないような、ただなんとなくそういう感じがあった。

昔からこうして、なんとなく海を眺めている時間が好きだった。
丸く広がった入江のビーチで、すぐ向こうには隣の島が見える。
波は高くなく、風も年間を通して強くない。
泳ぐにも、こうしてぼーっと過ごすにもちょうど良い浜辺だ。

いや、夏が過ぎた今の時期の景色だけは、心にモヤがあることが多い気がする。
小学校で友達と喧嘩をした放課後。
現実を置き去りにし、夢を追いかけて上京する前夜。
就活にくじけ、将来をうまく思い描けなかった黄昏。
そんな時はいつもこの浜辺で一人、星が見える頃までぼーっと過ごした。
いつでも浜辺に流れ込む空気は優しく、
波は穏やかに僕を包み込んでくれる。
心のモヤが体内を循環しながらこの景色を眺めているうちに、
ネガティブな感情はいつしかすっと消えていく。

今はどうだ。いつからかこの時期に浜辺を眺めても、
心のモヤが消えずに、小さくまとまって残るようになった。
まぶたの裏に彼女の姿が浮かぶ。
浜辺を僕より先に歩き、急に立ち止まって振り返った時の真面目な顔。
そして僕を好きだと言ってすぐに泣き出した顔。
正座をして洗濯物をたたむ時の微笑んだ顔。
「何笑ってるの?」と聞くと、
「洗濯物って、太陽の香りがして好きなんだ」と
陽光を浴びながら言った満面の笑顔。
ドラマのワンシーンに涙する顔。
靴紐がうまく結べずにどうしても縦になって困った顔。
慣れないお酒を飲んでゴキゲンに真っ赤になった顔。
都会の片隅の公園でまっすぐに僕の目を見て
別れを告げた時の今にも泣き出しそうな顔。

彼女のいろんな表情が今でも鮮明に思い出される。
もう少し別のタイミングで出逢えていたら。
お互いの産まれる年がもう少し前後していたら。
もし出逢っていなかったら。
彼女の想いに応えられなかった僕が、
今でもこんなことばかり考えているのも馬鹿らしい。
それでも、ほんのわずかばかり期待してしまう。
彼女の瞳の奥に僕の姿が今でも映っていたら、と。
踏み出してはいけない、もう二度と叶わない片想い。

人影のない浜辺に、今日も優しく穏やかに波が揺れる。
長かった夏が終わり、肌寒い季節が始まる。
出窓に流れ込むこの時期の潮風には、
言葉では説明がつかない複雑な味わいが混ざり合う。
甘く、酸っぱく、そして苦い。

「じゃ行ってくるね。買い物して帰るから、帰りは18時くらいかな」
「わかった。気をつけて。今日はケガするなよ」
「あいよー!行ってきます!」

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