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『喧騒』1/1

この町はうるさい。
線路に沿って歩いていれば世界のすべての音をかき消すほどに電車が騒音を撒き散らすし、自分の部屋にいれば窓のすぐ向こうは車一台がやっと通れるほどの狭い道で、車やバイクの音が部屋の静寂を切り裂く。この町の上空には四六時中厚木からの戦闘機が飛び交い、これもまたあらゆる日常の音を一時停止させる。
この町はうるさい。



僕には好きな人がいる。この町からは遠く離れた母校の高校の同級生で、僕と彼女はふとしたきっかけで出会った。
掃除の時間に各教室から出たゴミはごみ箱に集められ、さらにそのごみ箱たちは校内のある一ヶ所に集められた。そこには美化委員だか清掃委員だかの男女がいて、ごみたちは彼らの手を通して町の集積場へ運ばれていた。ある日僕がごみ箱を教室から持っていくと、そこに彼女がいた。委員の男子が僕の知り合いで、何気なく彼女も含めた三人で下らない話をした。その時の彼女の持つ雰囲気が僕の中の何かをとらえ、それ以来彼女を見かけると目で追うようになってしまった。一言で言えば一目惚れなのかもしれない。しかしそんな簡単なものではなく、たとえば「春の暖かい風のように耳にやさしいか細い声」とか、「笑ったときの無垢な目元や口元」だとか、彼女のひとつひとつの仕草や立ち振舞いから溢れてくるオーラのようなものが僕の心をとらえた。
それはやはり「一目惚れ」だったのかもしれない。





高校時代に彼女と話したことはその時くらいで、すれ違いざまに軽くあいさつを交わしたり、少し距離があるときに声をかける代わりに手を振ったりしたくらいしかない。接点がほとんどないにも関わらず、廊下や電車の中で見かける度に彼女のことが気になっていった。そして僕は若さゆえか彼女のことを気にかけるその気持ちに「好き」と勝手に名前をつけ、自らの中で育んでしまった。その「好き」という気持ちの正体がはっきりと見えないまま高校を卒業し、それぞれ離れた大学へと進学し、連絡もほとんど取らないうちにもう三年が経っていた。
月日が経つにつれて僕も多くのことを学んだ。と同時に彼女に対する盲目的な「好き」という感情に疑いの目を持つようにもなった。彼女と距離を置き、こうして自らの心の内を文章に書き起こし、それでもまだ彼女を「好き」だと言い張る自分が消えないのなら、その時は自らの心の主張に従って彼女との距離を縮めてみたいと思った。
恋人になってほしいわけじゃない。彼女の気持ちも考えずに自分の都合だけでそこまでを願うほど僕は傲慢じゃない。せめて距離を縮めて、友人としてある程度の関係になれたらそれでいい。欲を言えば恋人になって、もっと距離が縮まればいいと思う。しかしそんなことは二の次で、まずは彼女のことを知りたい。
でもやっぱり恋人は欲しい。





何日かして彼女から一通のメールが届いた。これまで互いの誕生日やクリスマス、年明けなどにあいさつ程度のやりとりはあったが、それ以外での用件でメールが届くのはここ何年かでは初めてだった。
何通かのやりとりであいさつや近況を話し、彼女からのメールは本題に入った。
僕と会いたいそうだ。たったそれだけのことで変に期待して興奮するほど僕は幼くはない。まして本当に彼女のことが好きなのかどうか改めて考えていたところだ。焦ったり変に照れることもないだろう。
そして数週間後、僕が今一人暮らしをしているこの町に彼女が来ることになった。特に何をするでもなく、適当に過ごせたらそれでいいと思う。あまりこういうことには慣れていないからプランなんて思いつかない。人並みにそういう知識があったとしても、綿密な計画を立てる自分の姿を想像すると、期待に高ぶっているようで気持ちが悪い。それでも彼女と会って話すことが、そのことを向こうから提案してくれたことが内心かなりうれしく、しばらくはそのことばかりが頭の中を駆け巡っていた。





メールの着信音が春眠に溺れる僕に暁を知らせた。彼女はあと15分ほどで駅に着くとのことだった。時計を見ると予定よりもずいぶん寝過ごしていた。簡単に身仕度をして駅まで彼女を迎えに行った。うららかな春の陽射しを浴びながら線路に沿って10分弱歩き駅へ着いた。改札を抜ける人々を見送り、人波が途切れた頃、見覚えがあるような、しかし僕が記憶している範囲の誰よりもきれいな人が改札を出て僕の方へ歩いてきた。
「待たせちゃってごめん。」
「いや、今来たとこだから大丈夫。」と僕は言った。こんなありきたりな台詞を僕が口にする日が来るなんて思ってもいなかった。
「えーと、映画とかどうかな?」と僕は言った。
「うん、いいね。行こう行こう」
そういえば観たい映画があった、と僕は思い出すふりをした。





映画館に着いてから消去法で選んだ映画は皮肉にも、好きな異性になかなか告白できない男の子が成長していき、最終的に彼が想いを伝えたら実は相手も昔から彼のことが好きだった、というオチの話だった。僕にはそんなつもりはない、そう何度も言い聞かせながらも、心の主張は映画に奮い立たされているようで、隣に座る彼女のことが気になって仕方がなかった。
映画館を出て適当に店に入りコーヒーを飲んで時間を潰した。高校時代の出来事や笑い話などの懐かしい話や、互いの大学でのこと、将来のことなど話題は尽きず、いつまででも話していられる気がした。
「あのさ、帰りの電車のことなんだけど。」と彼女は言った。「そのあとの乗り換えとかのアレで、遅くとも16時16分の電車に乗れたらいいかな…と。」
「そっか、うん、わかった。」
電車の時間と、ここから駅まで余裕を持って歩いて行く時間の頃合いを見計らって僕達は店を出た。





店を出て左に行けば僕の家が、右に行けば駅がある。僕の性格上、左に行くという選択肢は、はなからなかった。
線路に沿って彼女と二人並んで歩いた。さっきはいつまででも話していられると感じていたのに、今度は打って変わって長い沈黙が続いた。もうすぐ終わろうとする二人の時間を前にして、互いに最後の話題を探そうと必死になり、それが何なのかわからずにいた。
ゆっくり歩いてきたはずなのにもう少しで駅が見えるところまで来ていた。その時彼女の方が先に最後の話題を見つけた。
「今日はすごく楽しかったよ。」
静かに話し始める彼女の声が耳に届き、彼女の横顔に目をやった。そのすぐあとに彼女の丸い瞳が僕の目をとらえた。
「ありがとう。」と彼女は言った。
「俺もすごい楽しかった。ちゃんとこうして話すのって初めてだからね。」
「そうだよね、でもずっと前から仲が良かったような感じがする。なんでかな。」
「俺もそんな感じする。なんか不思議だね。」
「そうだね。」
会話は不恰好に途切れ、またしばらくの沈黙が二人の間に生まれた。もうちょっとゆっくり歩いてめざす電車に乗り遅れたりしたら、もっと彼女と話していられるのに。彼女のためを思えばそんなことはできないけど、僕の気持ちに素直になったとしたらそうしたい。しかし彼女に迷惑はかけられない。今度こそ最後の話題、もしくは最後の言葉になるかもしれない。僕はそれがどんな台詞なのかなかなか見つけだせずにいた。すると突然彼女は体ごと僕の方を向いて立ち止まって、眉間に小さく山を作り、丸い瞳を大きくし、困ったような真剣な顔を僕に見せ、そして口を開いた。
「あの…私ね、実は……前か



二人にとって最後の言葉を僕の背後を走り抜けた電車がかき消していった。彼女には電車が来るのが見えていたのだろうか。僕は読唇術は身に付けていない。それとも電車があのタイミングで通ったことは偶然の出来事で、僕達には逆らうことのできない必然だったのだろうか。
「え、ごめん…聞こえなかった。」
「ううん、なんでもない。」
彼女は目をつむって首を横に振り、安心したようなやさしい微笑みにわずかな哀しみの色を滲ませて言った。
僕達と駅の間にはもう、最後の言葉を話せるほどの距離はない。僕はぎこちない笑顔で、彼女は憂いを必死に隠したすっきりした笑顔で簡単にありきたりな別れの挨拶を交わし、彼女は改札に飲み込まれていった。





彼女が最後に言いかけた言葉を僕は聞き取ることができなかった。彼女はそれをわかっていながらも、もう一度口にしようとはしなかった。そのことが彼女にとってどういう意味を持つのか、同時に僕にとってどんな意味をもたらすのか、僕にはわからない。もしあのとき電車が通っていなかったら、駅から一人で歩くこの帰路を僕はどんな顔をして歩いていたのだろう。いくら想像をしてみたところで事態は何も変わりはしない。彼女は僕と数時間を共に過ごし、思い出話に花を咲かせた。それだけのことだ。





この町はうるさい。
夕方の冷えた風が吹き込む部屋のソファーで僕は紅茶の入ったカップを片手に、夜が近づいてくるのを肌で感じていた。窓のすぐ外をバイクが通り抜ける。
この町はうるさい。

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