『ひと夏っ恋』⑯/⑯

 ベランダのいつものイスに腰掛け、ユキナさんへ電話を掛ける。
「はい、もしもし。」
「もしもし。今大丈夫?」
「うん、大丈夫。ごめんね。」
「大丈夫だよ。お休みで会えなかったのは淋しかったけど、こうして声が聞けるだけでも俺はうれしいのよ。」
「ありがとう。田渕くんはいつも優しいね。」
「そんなことないよ。ユキナさんのことが大切だから。当然だよ。」と言うと、電話では珍しく沈黙した。僕は心配になり「大丈夫?」と言った。
「大丈夫。」と彼女は言った。「八月が終わるね。三十一日。」
「そうだね。明日から九月だ。」そう言うと、僕の脳裏にあの駄菓子屋の角での光景がフラッシュバックされた。『ちょっとだけ、一か月だけ付き合ってくれないかな?』

「待って、」と僕は慌てて言った。
「一か月、本当にありがとう。」
「ちょっと待って、まだ」
「田渕くんと出会えて、こうして一緒に過ごせて、私本当に」
「ダメ、そんな急に」
「良かったと思えるよ。」
「急だよ、なんで」
「私なんかに付き合ってくれてあり」
「そんな、ダメ、言わないでそれ以上」
「がとう。さよ」
「ダメ、そんな言葉聞きた」
「なら」
「くない!」
ツー、ツー、ツー、「なんで、ウソ・・・」

 お互いの言葉を遮るように、言ってほしくない言葉を言わせないように、強引にでもその言葉を口にするように、電話は突然終わってしまった。
二人の恋人関係も、彼女の言葉で無理矢理終わってしまった。茫然としたまま僕はケータイの画面をみつめ、ユキナさんの声を思い出そうとした。
最後の言葉、なんでちゃんと聞いてあげなかったのだろう。遮ってしまったのだろう。自分の声の裏で、ユキナさんの『さよなら』が聞こえた。夢であってほしいと頬をつねってみたが、つねったことで出来た赤みはゆっくりと消え元の頬の色に戻っていった。頬に少し食い込んだ爪の跡だけが痛みとして僕の頬に残されている。なんでこんな終わり方なのだろう。

最初から条件付きだったとはいえ、彼女にとって僕は何だったのだろうか。恋人、彼氏として、彼女の望むことはしてあげられたのだろうか。
駄菓子屋の前での照れる顔、艶やかな浴衣姿、金魚すくいに苦戦する顔、二人で見上げた突然の花火、あの時の笑顔。ユキナさんのことで想い出されるのは、いつも笑顔ばかり。ヒカルたちやブラスバンド部の仲間と話しているときの笑顔。教室で見る顔とはまた違った、夏祭りを心から楽しんでくれていた笑顔。

僕には楽しんでいたように見えていたが、本当にそうだったのだろうか。彼女の本当の気持ちを僕はわかっていたのだろうか。あの日よぎった不安は、やはり現実だったのだろうか。
想い出されるのはユキナさんの甘く優しい声と笑顔と、僕の独りよがりの彼女への想い。付き合っていたはずなのに、彼女のことを何も考えてあげられていなかった。

『幸せになれるかな』と尋ねた彼女に『僕は幸せだ』としか言えず、僕の幸せを彼女に押し付けてしまった。彼女は僕の幸せを喜んでくれた。僕が彼女にしてあげられたことは何もない。それでも僕に対し『やさしいね』『ありがとう』といつも言ってくれた。そんなユキナさんの方がはるかに優しく、いつでも僕を幸せにしてくれていた。彼女を幸せにしてあげられなかった後悔が、頬の爪痕の痛みとともに残っている。これらから先も消えることなく、ユキナさんと重ねた想い出とともに僕はこれからも過ごしていくのだろう。秋の訪れを知らせる風がベランダに吹いた。頬をつたう涙がより一層、風の冷たさを感じさせた。

「今日もユキナさんは美しい。」
「コンクール残念だったみたいだな、ブラスバンド部。」
「ユキナさんは来年もまだあるし、将来有望なんじゃないの?演奏は聴いたことないけど。」
「ウチらも早々に敗退しちゃったし。学生の本業に戻りますか。」
「学生の本業って恋愛のことでしょ。」
「ユキナさんこっち見てくれないかなー。」
「誰かと付き合うことあるのかな?」
「勉強もできて、部活でも期待されてて、人柄も良くて、そして何より美しくて。パーフェクト過ぎて彼氏が大変そう。苦労しちゃうよね。」
ツヨシの言葉に一瞬胸が痛かった。「芸能人とか、相手もパーフェクトじゃなきゃ釣り合わないっしょ。」と僕は言った。
「そうだよなー。ウチら凡人は見て憧れてるくらいがちょうどいいや。」
「え、付き合えるなら付き合ってみたくない?」
「俺はそういう感じではないなー。」
「俺も。じゃあツヨシ、がんばれ!」
「ブチさんも良いの?あんなに好きだって言ってたじゃん。」
「俺もみんなと同意。とても俺にはユキナさんは幸せにしてあげられないよ。」
「よーし、じゃあ次は、誰か、俺の背中を押してユキナさんの前に飛び出させてくれ!」
「ツヨシなら案外いけるかもな。」
「やめとけ。ゼロパーセントだよ。」

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