『虹を掛ける一歩』③/⑥

翌朝、心地良い二日酔いと共に太陽を迎えた。昨夜の回想は満開の花が咲いていた。自分の学生時代はこんなにも華やかだったか?と疑うくらい、楽しい想い出ばかりだった。想い出補正というやつで、嫌なことはフィルターがかかっているのかもしれない。何だっていい。こんな気持ちの良い朝は久しぶりだ。少し落ち着いたらどこかへ出かけたい気分だ。そういえば読みたい本がいくつかあった。近所の本屋にでも行こうか。僕は軽く朝食を済ませ、身支度をして外へ出ることにした。


春の暖かい陽射しを背に感じながら、近所の本屋まで歩いた。いつも満開の花を咲かせる公園の桜も少しずつ芽吹き始めている。今咲き誇っているのは梅だろうか。あまり詳しくはないが、春の始まりを告げる花が徐々に咲き始めているようだった。

鳥は歌い風は踊る。新しいことが何か始まりそうな気分になるのは、秋と冬のせいなのだろうか。暗く寂しい季節の次にやってくるのが春で良かったと思う。それぞれの季節に良い所はあるのだけれど。


目的の本屋に着いて、いつもと同じルートで店内を回る。まずは最近話題の本のコーナー。小説ランキングや書評が並んでいる。少し前にニュースでやっていた、有名な賞を獲った小説に、いくつも褒め称えるようなポップの言葉たちが付け加えられ花を添えている。これだけの賞を獲り、これだけのポップで飾られているのだ。きっとおもしろくないわけがないのだろう。文庫化されたら読んでみようと思う。

続いて雑誌コーナー。こう見えても多趣味で、様々な雑誌を立ち読みする。最新の科学、流行の音楽、最新のサッカー情報。これらにもある程度目を通し次のコーナーへ。

ここから先は時間がかかる。文庫化された小説やハウツー本のコーナー。少し前に話題になった本が文庫化され表向きに並んでいる。その他、作家の名前の順に所狭しとタイトルが並び、手に取られるのを待っている。そういえばこんな本があった、以前気になっていた、この作家はどんな作風か、映画化された本、などなど。

ゆっくり、一つ一つの背表紙に敬意を払うように眺めながら歩いていると、中学生の頃に図書室で夢中になって読んだ本を見つけた。それは恋愛について語られていて、幼心にも恋愛について深く考えるきっかけにもなった本だった。その本を取ろうと左手を伸ばすと、同じ方向へと向かう別の右手が伸びてきて、瞬間で我に返り手を引っ込めた。

「あ、すみません」思わず声を出し手が出てきた方へ顔を向けると、胸の奥にしまい込んでいたはずの気持ちが急にわしづかみにされ表へ引っ張り出されたような感覚に襲われた。

同時に、中学校の図書室の光景で、窓際の席に座り本を読んでいる女子の姿が思い出された。想い出の中のその景色では、その子の長い髪が風に揺られ、綺麗になびいている。そして髪を押さえながら周囲を見渡し、僕と目が合い少しはにかんだ。

「あ、こちらこそすみません。」と彼女は言った。その声に、中学の図書室の情景は一気に消えていった。想い出の彼女の声とは違う。しかし、風になびく綺麗な長い髪は彼女にそっくりだった。

「この本、ですか?」と僕は言って本を取りだした。
「あ、ええ。そうです。あ、けど、いいですよ。どうぞ。」
「いや、僕も別に大丈夫ですよ。どうぞ。」
ぎこちない空気が流れた。彼女はこのやり取りに少しも嫌そうな顔は見せず、その本を受け取った。
「ありがとうございます。」彼女がそう言ってその場を離れようとし背中を向けたとき、僕は自分でも思っていなかった言葉をいつの間にか口に出していた。
「あの、」彼女が振り向く。「また会えますか。」彼女は突然のことに少し戸惑ったように目を丸くさせたが、その後すぐに微笑んで
「そうですね。この本を読み終わったら。」と言って、再度その場を離れていった。僕に今起きていた光景を思い返しながら、他の本を見るにも気持ちが入らなかったため、本屋を後にすることにした。


胸の中に吹いた風はどこか懐かしく、でも清々しく、優しく温かかった。過去に感じた切なさもあり、新たな季節の始まりを告げる春一番のようでもあった。

中学の図書室で僕の心を奪ったあの彼女ではない。はず。でも顔立ちや仕草がどこか似ていた今日出会ったその人は、僕自身にも思いもよらない言葉を引き出させ、そして思ってもいなかったような次への出会いの芽を残していった。

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