『虹を掛ける一歩』⑤/⑥

金曜日の仕事帰り、電車がホームに到着し現在21時52分。バー「パルメ」に22時にたどり着くには充分な時間だった。あの本も読み終わって鞄に入っている。もし彼女に会えなくても、ちょうど一杯くらいは引っかけて帰ろうと思っていたところだ。いつもの居酒屋がバーに変わっただけ。むしろ、安い店ばかりでなく、こういうお洒落なお店の常連になってもいい年頃だ。たまたまバーを見つけたので、デビューのつもりで立ち寄ってみた、今日はそういう体だ。何も期待はしていない。

鞄の中にあの本が入っているのを再確認して、バーの扉を開けた。薄暗い店内はカウンターがL字にあるのと、二人掛けのテーブル席が二つあるだけだった。人影はマスターと、カウンターの一番奥の席に女性が一人いるだけだった。僕が扉を開けた音で二人ともこちらに目をやり、マスターが「いらっしゃいませ。」と言うと、僕を女性の座っている席の隣へ案内した。

「こんばんは。また逢えました。」
「僕で良かったですか。」
「あなたに見てもらえてよかった。誰か別の人にあのメモがいかなくて。」
「それなら良かった。」初めて入るバーの雰囲気というものに慣れていないせいで、僕の口調はどこかぎこちなくなっていた。

彼女も少し酔っているのか、以前ラーメン屋で話した時や本屋で初めて会った時とは少し違って見えた。バーの雰囲気は、ここまで人の印象をも変えるものなのか、それとも僕たちが何度も会って、距離を縮めているせいなのか。僕も彼女と同じものを頼んだ。
「本、お返しします。」と僕は彼女に本を手渡した。
「あ、ううん、いいんです。あなたが持っていてください。」と彼女は応えた。メモも本に挟んだままだった。彼女は続けて言った。
「この本、中学生の時に一度読んで、久しぶりに読みたくなったんです。」僕と一緒だ。「中学生の時のことをふと思い出すことがあって、それですぐこの本のことも思い出して、本屋さんに立ち寄ってみたんです。」
「僕もそうなんですよ。前の日にやっていたテレビを観て、僕も中学生の頃を思い出して。中学生の時に自分が感じた想いとか光景がいろいろ甦ったんです。例えば、夕暮れの図書室で、窓際の席に女子が一人座っていて、開いている窓から風が吹いて彼女の髪が静かにそよぐんです。髪が風になびいて彼女は、僕の視線に気付いてこっちを見て、目が合って。そして少しはにかむんです。」
「好き、だったんですね。」
「一度図書室でそんな風に出会っただけでした。同じ学校のはずなのに、先輩かどうかもわからなくて。でも、僕の記憶では確か、好き、な人だったのかもしれません。」
「素敵な想い出。今でもずっとその人を追いかけてる。」
「いえ、今はそんなに意識はしていませんでした。」でも本屋であなたと同じ本を取ろうと手を伸ばし、あなたを見たとき、中学の図書室で彼女の髪をなびかせたあの風がまた吹いたように感じました。
「気のせい、ですよ。」彼女の微笑みが、また僕のハートをギュっと握った。この痛みすらも気のせい、とはぐらかすのか。
「何年も前に図書室に吹いた風は、今吹いている風とは違うわ。」
「そう、ですよね。同じ風なんて二度は吹かないですよね。」
「中学から何年も経って、それまでに何歩も進んできて今がある。たくさんのことを経験してきて今のあなたがいる。何年も前の人を、いつまでも追いかけていてはダメ。明日を変えようと踏み出してきた一歩が積み重なってできた今日のあなたと、何年も昔のあなたとは同じじゃない。私もそう。」
「違いますよね。」
「あなたの記憶の中の彼女は、私ではないわ。」
「今のあなたも、昔と違いますか?」
「根っこは変わらないけど、きっと大きく変われている、と信じてる。色で言ったらきっと黒ね。」
「黒、ですか?」
「ノワール。綺麗な色も汚い色も、いろんな色が重なってできた、諦めたような黒。」
「哀しいことでもあったんですか?」
「哀しいことも、嬉しいことも、ね。あなたは今、何色?」
「僕は・・・赤ですかね。」
「そう。」


月に二、三回は、金曜22時にパルメで彼女と会うようにしている。彼女との話題はお互いが読んだ本のことや、趣味の話が多い。家や出身や年齢など、個人情報は何も知らない。ただ唯一、名前がマリというだけだ。それ以上の個人情報はお互いにとって大きな意味は持たなかった。

彼女の言葉は、時々抽象的で深みのあるセリフになるときがある。僕が読んでいない小説などから着想を得ているのか、それとも彼女オリジナルの名言なのか、僕には判断がつかなかったが、はっとさせられることが多い。彼女と過ごす時間は僕にとって、小さな刺激と大きな安心感をもたらしてくれていた。


彼女とパルメで会うようになって半年が過ぎたとき、ほんの少しの勇気を出して
「来週の土曜は空いていますか。良かったら近くの公園でも散歩しましょうよ。紅葉も綺麗ですし。たまには日中に会いましょう。」と僕は言った。
「良いですね、紅葉。この向こうの中央公園ですよね。大きな桜の木、この前見たらだいぶ色がつき始めていました。」
「じゃあ来週土曜の10時。今度は夜じゃなくてAMですよ。いつもPM10時ですけど。」
「わかりました。楽しみにしていますね。」

また僕は、一歩を踏み出した。

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