『ひと夏っ恋』⑩/⑯

八月二十二日、昼間からお祭りの準備のため僕は屋台を組んだり資材を運ぶのを手伝っていた。子供の頃から手伝っていたので、手順はだいたい把握しているし慣れたものだった。
小さな地区の小さなお祭りだったので、屋台と言っても金魚すくいと綿あめとお面屋くらいしかない。あとはちょっとしたレクリエーションのためのお立ち台や景品の準備があった。

区長とのじゃんけん大会がこのお祭りのクライマックスで、最後まで勝ち続けるとお菓子の詰め合わせがもらえる。子供の頃は区長に勝つのも大変で僕は一度も優勝したことはなかったが、今はもう区長の手の内はすべてわかっている。最初はグーから始まり、もう一度グー。その後はチョキ・パー・グーと続く。
クセなのか、子供にやさしくしてくれているのか、今考えれば何も難しいことはないのだが、中学に入ってやっと気が付いた。その頃にはもう小さい子に混ざってお菓子を取り合うのも恥ずかしくなり参加しなくなったが。

夕方頃に一通りの準備が終わり、一度家へ帰る。お祭りが始まるのは十八時。ユキナさんとの待ち合わせは十八時半にお祭り会場の公園の入口。僕はそわそわしながら、家で用意してくれた夕食にも手を付けず自室のベランダのイスで約束の時間を待った。


中央公園の入口に立ち、ユキナさんの到着を待った。公園内ではお祭りを楽しむ子供たちのはしゃぎ声が聞こえている。大人たちの表情も和らいでいる。ハレの雰囲気はいろんな人を明るくさせる力を持っている。僕もその内の一人で今日を楽しみにしていたし、夏休みに入ってからは初めてユキナさんに会える。声は電話でよく聞いていたが、やはり本人と会える喜びはまた格別だ。

十八時半まであと三分くらいのところで、下駄の音とともに浴衣姿のユキナさんがこちらに向かって歩いて来る姿が見えた。久しぶりに会ったせいか、それとも浴衣姿の美しさのせいかわからないが、心臓が止まりそうになるくらい胸に向かって大きく脈が体を打つのを感じた。かわいいと表現するべきか、きれいと表現するべきか、僕の頭にあるあらゆる辞書に載っている賛美の言葉を引っ張り出してきても表現しきれないくらいユキナさんの浴衣姿は艶やかで美しく、彼女が目の前までやって来てもすぐには言葉が出せずにいた。
「ごめんなさい、遅くなっちゃった。」
「ぜ、全然待ってないよ。」
「ごめんね。」と彼女は言って少しうつむいた。電話越しに聞いていた声と同じはずなのに、本人の顔から発せられるそれはまた違った印象を与える。
均整の取れた顔立ちを甘くやわらかな声が装飾し、艶やかな浴衣姿がより一層美しさを引き立てている。うまく言葉を出せずにいる僕と、うつむいて黙っている彼女との間には沈黙があった。

彼女はうつむいていながら、耳が少し赤くなっている。心なしか頬も少し上がっている?これはいつまでも次の言葉を探している場合じゃないと僕は気付き、「すごくきれいだ。」と、僕の頭の中の引き出しの、一番取り出しやすい高さの段にある言葉を取り出した。するとすぐに彼女はうれしそうに晴れ晴れとした顔を僕に向けて
「本当?」と言った。すごくありきたりな言葉が、実は一番喜ばれるのかもしれない。彼女は小さく「良かった。」とつぶやき、満面の笑みでまたうつむいた。
僕はもう一度「すごくきれい。似合ってる。ありがとう。」と言った。
「ありがとう。そう言ってもらえて本当に良かった。」と彼女は言った。
「じゃあ、行こうか。」と僕は何気なく手を差し出して言ったが、彼女は「うん。」と応え、僕の手には気付かず横に並んでそのまま歩き始めた。流れ的に手を繋げるチャンスかと思ったが、そこはどうも違ったらしい。彼女は小さなバッグの持ち手を両手で持ったままでいる。
僕の左手は行き場を失い、何事もなかったかのようにズボンのポケットに収まっていった。すぐ真横に並んだ彼女の髪からは甘い香りが漂っていた。

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