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『片言の片想い』①

 私の鼻先を春の薫りがかすめる。風に揺れるカーテンは、眠る大きな森の妖精が深く静かに呼吸をするようにゆっくりと膨らんではしぼんでいる。
 読もうと思って本棚から持ってきた本は、開かれることもなく私の手の届く範囲内の一番遠い所へ置かれている。
 いや、私が意図して脇へ追いやった。こんな本を読んでいる所を見られたら、彼はなんて言うだろう。そしてそれを見られた私は、なんて反応をしたら良いのかわからない。

 20分くらい前に彼が図書室に入ってきてから、なんとなく宿題をやるフリをしてカバンからノートと教科書を取り出したが、教科書の中身は全然頭に入ってこないし、ノートには一文字も、線も点すらも書いてはいない。
 何かの偶然が重なって、彼が私に気付いて声を掛けたりしてくれないか、時折頭の中で神頼みをしながら、彼の動向をチラ見していた。

 何かの本を探しているのだろうか、彼はゆっくりと歩きながら本棚を1つずつ丁寧に見ている様子だった。彼の姿が本棚から隠れ、5分くらいして棚の反対側から現れる。また本棚に隠れて少し時間が経って、反対側から現れる。まるでサンゴの間を行き来するカクレクマノミのように彼は静かに、穏やかに本棚の間を泳いでいた。

 私から見える一番手前の本棚に辿り着き、私に右肩を見せる格好で彼は移動を始めた。時折背を向けておもむろに本を手に取り、表紙や裏表紙、本をめくって数ページパラパラとめくり、また棚に戻す。
 ひとつひとつの動作に音も立てず、一冊一冊丁寧に扱っているように見えた。彼の長くしなやかな指が、1ページめくる度に優雅に動く。「粗野」という言葉が一番似つかわしくない動作とはこの事を言うのかもしれない。
 私の頭の辞書に収載された単語はそう多くないが、そう直感した。あとでユイと会った時に話そう。あの動きこそ、粗野の対極だ、と。それこそがこの世界の真理だ、と。そしてユイは言うだろう、「君が現代のノーベルだったのか」と。この新たな大発見にユイならきっと共感してくれることだろう。

 彼が棚の一番端まで辿り着きUターンする所で、ふと私と目が合ってしまった。
 やってしまった。ずっと彼を目で追っていたせいで、バッチリ目が合ってしまった。
 図書室で教科書とノートを広げ、ペンも持っている女が、なぜ一文字も書かず、ノートも見ずに男子を見ているのだ。誰が見てもそう思うはずだ。

 慌ててノートに目をやるがもう遅い。私は二度見するような格好で、あたかも、今初めてあなたに気付きました、と言わんばかりの顔(を上手くできていたかわからないが)を彼に向けた。
 彼は、さっきまでしなやかに優雅にページをめくっていた指を真っ直ぐに伸ばし、手のひらをこちらに見せてゆっくりエレガントに振ってくれた。

 なんてステキな景色なのだろう。彼の指が、穏やかな風になびく柳の枝のように揺れる。笑顔はとても温かく眩しい。笑った時に少しできる小さなえくぼがさらに魅力を引き立てている。
 私はぎこちない笑顔で小さく手を挙げて少し左右に揺らしてみた。が、1秒で恥ずかしくなり手を下げた。

 彼がゆっくりと私に近づいてくる。いかん、ノートは真っ白だ。何も書いてなさすぎる。いかん、教科書のページはまだ授業で習っていないページだ。いかん、端に置いた本は表紙に大きくシンプルにタイトルが書かれている。何も間に合わない。春一番が急に吹いて、ノートに文字が書かれ、教科書のページがめくれ、表紙が丸見えの本は裏返しにならないだろうか。
 そんな突風が吹き抜ける訳もなく、彼が私の前の席に座った。

「アンニョン」と彼は言って優しく微笑んだ。「覚えてる?韓国語で『こんにちは』」と彼は言った。

「『アニョハセヨ』のくだけたやつだよね、バッチリマスターしたよ。アンニョン!」と私はなんとか平静を保ちながら不自然に言った。

「覚えてくれてうれしい」と、ゆっくり、一文字一文字を探すように、まるでドミノのピースをひとつずつ慎重に置いていくように彼は言った。「なにを、よんでいるのですか」

「あ、えと。これは古文の教科書。あ、こっちの本は、あー、えっと。課題図書?で、なんか一冊選んで感想を書く、みたいな課題があってね。なんか適当に持ってきたんだ。」と私は堰を切ったように早口でしゃべってしまっていた。彼にちゃんと伝わっていないかもしれないと、言い終えてから少し後悔した。

 彼は少し難しい顔をしていた。すべてがちゃんと伝わらなくても良いか。私もゆっくり、少し言い訳っぽくなるけど、正しい日本語で説明をしてあげよう。「古文の教科書をノートに写して、予習するの。予習っていうのは、授業でこれからやる所を勉強してた。あと、途中で勉強が飽きたら読もうと思って、この本を本棚から持ってきた。」
 今度はゆっくり、単語で区切って、不必要な箇所は省いて、彼の表情を確認しながら説明をした。

 彼は目を開き、満面の笑顔で「勉強も途中で、本読むのも途中、ってこと。ハンパねぇ」と明るく、眩しく彼は言った。
 勉強も読書もどっちつかずで半端と、ハンパないをかけたのか。そんな高度なお笑い技術をも使いこなせるとは思ってもいなかった。
「ハンパねぇな!」と私は返した。彼がうれしそうに笑ってくれた。

 図書室を通り抜ける風が、彼の前髪を小さく揺らす。温かな空気が、私と彼の間に流れる。こんな幸せな時間がずっと続けば良いのに、と思う。私の片想いは言葉にならない言葉で降り積もり、私の中で少しずつ紡がれようとしていた。

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