『ひと夏っ恋』⑧/⑯
「おはよー」と、いつものように朝練を終えチャイムが鳴るギリギリにユキナさんは教室に飛び込んできた。一瞬でも目が合わないか期待してユキナさんを目で追ってみたが、脇目も振らず自分の席に着き一限目の準備に入った。
ユキナさんへの電話はまだできていない。学校にいる間や下校のタイミングでも、いまだに二人きりでは話せていない。お付き合いすることになってから初めての土日がやってくる。こんなとき彼氏ってものは、彼女とどんな風に距離を縮めるものなのだろうか。
やはりあの駄菓子屋の前で起きた出来事と過ごした時間が、この恋愛における幸せのピークだったのだろうか。徐々に自信が失われていくのをひしひしと感じる。
そもそも一か月だけ付き合うという条件からして良くわからない。ただ弄ばれているだけなのだろうか。この授業が恋愛の授業だったらどれほど身が入っただろうか。先生とコロンブスには悪いが、新大陸の発見は今の僕にはそれほど大事じゃない。ユキナさんとの付き合い方を発見する方が大事だ。
授業の終わり、僕は先生に呼ばれ小テストの回答を職員室へ持っていく手伝いを命じられた。先生の手には大きな世界地図が抱えられている。世界地図を見ながらの授業がお決まりだったので、たまにこうした小荷物があると誰かが手伝うことになる。先生のことは好きだったので、そんなに嫌な手伝いではなかった。
教室を出たとき
「小テスト、ここにも残ってるよ。」と後ろから声を掛けられた。ユキナさんだった。久しぶりに自分に向けられた声の心地良さに満たされながら、でもなんて返したら良いか迷いながら残った小テストを取りに教室へ戻った。
「はい、これで全部。一緒に持っていこうか。」とユキナさんは言った。
「うん、ありがと。」照れながら、でも不思議とぎこちなさはどこかへ消え、自然に言葉を返せた気がした。ずっと話せていなかったもどかしさと電話を掛けられずにいた申し訳なさから、自分からユキナさんへ言葉を掛ける。
「ずっと話せてなくてごめん。それより、前に電話番号の手紙もらってそのままでごめん。」
「ううん、全然良いの。私の方こそヒカルに手伝ってもらってあんな渡し方になっちゃって。教室とかみんながいる前で直接話すのはやっぱり恥ずかしくて。ごめんなさい。」
「全然謝ることじゃないよ!今更だけど、今日帰ったら電話するよ。」
「ありがとう。待ってるね。」とユキナさんはほほえんでくれた。僕もきっと、うれしくて自然とほほえんでいた気がする。横を通り過ぎる生徒たちのことは気にも留めず、でも二人にしか聞こえないくらいの小さな声で、最小限伝えたかったことを話した。
二人ともこんなに自然な空気で気持ちが触れ合えるのなら、これでもう今度から堂々と自信を持って恋人として付き合える。学校で話せなくても、勇気を持って電話ができる。
職員室に着き、先生の机に小テストを置くと、ユキナさんは「先に行くね。」と言って小走りで職員室を出て行った。次の授業の準備があるのか、あるいは二人でいるところを少しでも他の人に見られないようにするためか。一緒に運んでくれたお礼も言えないまま、鼻の奥にまた少しの甘酸っぱさを残して、貴重な休み時間は終わっていった。その日の夜、ユキナさんに初めて電話をした。
昨夜の初めての電話は、自分でも予想外なほど自然に話ができた。ユキナさんも特につっかえることもなく、お互いの趣味の話や部活の話、先生や授業の話など他愛のない内容で三十分くらい話していた。
ユキナさんのことを色々知っていく。あの耳に心地良い柔らかな声を通して。ずっと聞いていられる甘い声が耳に届く度、僕の体中が幸せな気持ちで満たされていく。「迷惑でなければ、また電話しても良いかな。」と言うと、「もちろん。私からも電話しちゃうかも。」と言われた。
僕たちは付き合っている。サッカー部の仲間が信じなくても、ブラスバンド部のメンバーが知らなくても、僕とユキナさん以外の誰かが否定しようとしても、僕たちは付き合っている。それだけが真実で、僕たちのすべて。
学校ではただのクラスメイトでも、こうして僕たちは人知れず、静かに、でも確かに、お互いの気持ちを近付けていった。真夏の日中は暑すぎるが、夜は少し涼しい。
僕の部屋のベランダにはイスが置いてある。小さな折り畳みのイスだが、ユキナさんと電話をするとき用にわざわざ押し入れから引っ張り出して持ってきた。また一つ、僕にとって大切に思える場所が増えた。
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