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『無色のしあわせ』④/⑳

教会の裏階段を一番下まで下り、扉を乗り越えて路地へ出る。
鐘のある部屋から見下ろした時と比較して空も少し明るくなり、徐々に人影も増え始めていた。

狭い路地を抜け橋を渡る途中、教会の鐘の音が聞こえた。
これまであまり意識をして鐘の音を聞いたことはなかったが、改めて聞いてみると胸にすっと染み入るような、心地良い音のように感じた。

自分があの布きれで磨き続けることで音が変わっていくのだろうか、それとも特に変わりはないのだろうか。
この先続けていけばいずれわかる事だろうが、パンがなくなってしまう前までには終わらせなければいけない。
仕事が終わりかどうかはセンセイが決めることだが、何か自分でも目印のような目標のような、そういった類のものをあの鐘に見出したい。
それが音なのか見た目なのかどちらか、あるいは両方でも良いが、限られた時間の中で、限られた残りのパンの中でその目印に向かい作業を進めていくことにした。

橋を渡りきる手前で、少年は自分のポケットに鐘撞き部屋の布きれを持ってきてしまったことに気が付いた。
使ったものは元あった場所に戻す、自分がそこにいたことが明るみに出ないよう、元の状態にしてその場を後にしないといけないと、センセイによく言われている。
鐘撞きの男と接触しないよう、戻って布を置いてこなければいけない。

しまった、と思いながらもセンセイに怒られることの方がよっぽど怖いため急いで教会へ戻ることにした。
教会の鐘は一日の内に数回しか鳴らないことを少年はセンセイから聞いていた。
たった今一回鳴ったので、次の鐘が鳴らされるまでまだ当分時間はあるはずだ。
鐘撞きの男と出くわす可能性は低い。
少年は急ぎながらも、気持ちは余裕を持って走り始めた。

「いよう、珍しいなこんな時間にお前さんの姿を見れるなんて。」と、突然声が聞こえて少年は思わず立ち止まってしまった。
声がした方を見ると、頭から黒いローブを被った男が、目の前のテーブルに広げて置かれた何かに触れながら少年の方をにやけた顔で見ていた。

「俺はなんでも知ってるぞ。この町を陰で支えてくれている小人さん。お前さんが夜中にコソコソ働いてくれているおかげで、みんなちょっとずつ幸せになっているんだ。わかるか?」

少年は男の言葉が一区切りし語尾が少し上がったしゃべり方をしたことに気が付き、自分に対して何かを言い、そして何かしらの返答を求めていると認識した。
そして大きく首を左右に振り、男の次の言葉が発せられるのを無視して教会へ急いだ。

男の問いかけ〝らしき〟言葉は耳には届いたが、言っている意味はよくわからなかった。本当にわからなかった。
思わず首を振って応えてしまったが、これは接したうちに入らない。
そう言い聞かせようとしたが、胸の奥でざわざわと小さな何かが揺れ動くような感覚があった。
センセイ以外の人の言葉に反応した。
少年にとって初めての経験であり、初めて感じた胸のざわめきだった。
深く息を吸えない。吸おうと思ってもうまくできない。

どうして自分に話しかけて来たのだろう。
男は目の前の机に何か小さな紙きれをたくさん広げて、大きく円を描くように撫でていた。
撫でると紙きれたちは場所を変え、重なり合い、また離れては重なり合っていた。
まるで砂の中に埋まった大切な物を探すみたいな手の動きだった。
何をしていたのだろう。
センセイとも、自分とも違う見知らぬ人の言葉と動きに違和感と嫌悪感を抱きながら少年は教会へと走った。

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