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『こうもり』5話/7話

註)文通小説なので偶数話はありません。


 窓の外を見ると明らかに晴れ渡った空の下、ビルの間に挟まれた狭い道を何台もの車が通り過ぎていく。それが仕事の車もあれば、買い物や子供を迎えに行く車もあるだろうし、あるいは休日を謳歌している車もあるかもしれない。こんなによく晴れた日なのだから、どこかへ出かけるのもいいかもしれない。でも、気軽に好きな所へ行けるような都合のいい車なんて持っていないし、電車で出かけるにしては少し遅すぎる気がする。時計の針は三時半を数分追い越したところを示している。そろそろ陽は沈み始める準備をするところだろう。窓の外を一人の女性が通り過ぎた。一瞬だけ僕の方に向けられたその人の顔は、いつもこの喫茶店でよく見慣れている顔だった。
 乾いたドアの音が店内に響いて、彼女が僕の座る席に迷う様子もなくやってきた。いつものように、毛先にだけウェーブをかけた髪が、耳の前から胸の辺りまで伸びている。前髪の上あたりには、濃い茶色がかったカチューシャをしている。本当にこの人にはこの髪形が似合っている。ショートカットやツインテールも似合うかもしれないが、今のこの髪形以外は想像もつかない。それくらい似合っている。
「おまたせ」と笑顔で彼女が言った。決して待ち合わせをしていたわけではなかったが、僕がこの時間にこの喫茶店のこの席に座っていることは、彼女にはわかりきっていたのかもしれない。僕も無目的でなんとなくここへ来たが、もしかしたら彼女が来るかもしれない、とは思っていた。
「だいぶ待ちましたよ。アルバム1枚半は聴いてますね」と僕は言った。
「ごめんごめん、じゃあ今度そのアルバム聴かせてね」
「わかりました。レシートと一緒に持ってきますね」
「なによ、買わせるつもりなの?ナニワのアキンドね」と彼女が頬をふくらませて言った。

「あの」と僕はいつもの調子で、名前を呼ぶでもない言い方で声をかけた。
「ん?なに?」
「もし車とか持ってたら、どこか行きたいところとかありますか?」
「そうねぇ」と、答えを窓の外に探すように、彼女は考え始めた。外は相変わらず良い天気で、雲が静かに流れていくのが見えた。彼女が少し前に頼んだフレンチトーストが、マスターの手によって静かに運ばれてきた。窓の外に意識がいっている彼女に代って、僕はマスターに軽く会釈をした。
「そんなに行きたいところが溢れてるんですか?」
「そんなところね。どこ、って答えたら君はうれしいかな?」
「僕ですか?そうですね。観光地とか、有名な場所とか、そういう場所ならうれしいかもしれないです」と僕は答えた。
 彼女は僕の意見を聞いて、一つの答えに絞り出せたかのような表情で僕の方を向いた。
「ビルバオ!」
「・・・はい」彼女のうれしそうな答え方とその内容のギャップに戸惑いながら、僕はかろうじて返事をした。ビルバオ・・・。「スペイン、ですね?」
「えぇ、スペイン」
「どうしてですか?」
「車で行くとしたら、やっぱりビルバオね。パースやモンテビデオだっていいんだけどね。君の顔を見たらやっぱりビルバオでしょう!って」
「僕の顔、ですか。ビルバオ・・・」予想外すぎる彼女の答えに僕は驚いた。長島とか、尾道とか、函館とか、京都とか。ここからすぐ行けるなら江の島とか、海ほたるでもいい。もしどこか行きたいところがあるとしたら、僕は車を持っていないけど、じゃあ今度都合がついたらそこへ行きましょうか、という展開にもなったかもしれない。けれどビルバオじゃ、現実的にそれも叶わない。ビルバオ・・・彼女らしい答えだ。
「じゃあ、今度行きましょうか。ビルバオ」
「うん!行こう行こう!君が車の免許を取れたら連れて行ってね」
「何年先かわかりませんけど。行きましょう」

 彼女はうれしそうにフレンチトーストを頬張った。彼女の喜ぶ顔を見れるのは、僕にとってもうれしい。普段どんな人と仕事をしているのか、もしくは学校に通っているのかわからないけれど、彼女のこんな調子につきあえる人はなかなかいないのかもしれない。この喫茶店で見る彼女しか僕は知らないけれど、ここで過ごす彼女が普段よりも活き活きしているであろうことは想像に難くない。どれだけ思いを巡らせてみたって僕はこの喫茶店で見る彼女しか知らないけれど、心から笑っている彼女を、もっともっと喜ばせてあげたいと僕は思う。そのために僕ができることは何だろう。僕に何ができるだろう。『幸せにしてやる』なんて言葉は好きじゃない。幸せかどうかなんて、他人が決める事ではないから。悲しみも含めて彼女が抱いているものを、少しでも僕に分けてほしい。そうして今よりもっと彼女を知っていくことができたら、真っ直ぐに彼女の黒い瞳を見つめることができるようになるかもしれない。僕がこんな風に巡らせている想いは、いずれどこにたどり着くのだろう。何らかの形で彼女に届けばいい。今すぐでなくてもいい。いつか、何らかの形で彼女に届けばいい。耳元に届くだけでもいい。できたら心の深いところへ届いてほしい。そんなことを考えながら、最後の一切れを僕は口へ運んだ。窓の外に見えるビルが夕日に照らされている。
「あ!私の取って置きフレンチトーストが・・・」
 彼女をもっと喜ばせてあげられたらいい。残念そうな顔の後で笑顔になる彼女を見て、改めて僕は思った。

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