『虹を掛ける一歩』①/⑥

「侫言絶つべし」という言葉が世の中にはあるという。例えば僕が中学生の頃にこの言葉に出会っていたとしたら、社会の何たるかを知る前の僕のことだ。何だかわからない、空気のようなものを相手にただ反骨心を見せそれをカッコイイとうぬぼれていたことだろう。

切れ味の悪い手刀で空気を切り裂く真似ごとをして、自らが作り上げた立ち向かうべき敵を一網打尽にする、そんな自分に酔いしれる。想像に難くない。かと言って、ある程度社会の片隅に身を置いている現在この言葉に出会ったところで、大きすぎる社会の荒波に立ち向かう気骨も持てずにいるため、他人事のように受け止める(あるいは受け流す)だけだろう。

この短い言葉が持つ若気の至りに似た強いエネルギーを、ただ横目に見ている。憧れるでもなく、「熱いな」と冷めた目で。まるで遠い国の最高気温を流し見るように。


社会人になってもうすぐ5年が経とうとしている。高校までを過ごした地元から大学は県外へ行き、生まれ育った地元に戻ってきて就職ができた。大学で地元を離れていた間、実家の僕の部屋は倉庫となってしまったため職場から近いアパートを借りて一人暮らしをしている。

一人暮らし歴も大学時代を通算すれば、かれこれ10年近くなるか。家事はある程度できるつもりでいるが、親にはよくダメ出しをされる。ゴミの片付け方がなってないとか、もっと整理整頓をしなさいとか。我が家に来る度に何か一つ小言を残して帰っていく。言っていることは至極真っ当なため反論の余地もない。でもいいのだ、ここは僕の城であり城主は僕なのだ。両親が一緒に住むわけでもないし、あるいは第三者が住むこともない。恋人がいれば少しは違うかもしれないが。

年齢を重ねるたびにもう何度も春はやってきているはずなのだが、色恋沙汰について言えば春は一度も来ていない。興味がないわけじゃない。「こんな人が良い」とか、「理想の〇〇」のような妄想だってする。しかし機会がないというか、勇気がないというか、自分に自信がないというか、何もないというか。

好きになった人はこれまでの人生で何人もいる。想っては破れ、始まる前に終わってきた。これまでがこうなのだから、これからもそうなのだろう。「どこかで機会があれば」そんな風に消極的になってしまっている。最近は特に出会う女性が限られているせいか、異性として気になるような相手もいない。朝から晩まで働き、家に帰ってもほとんど寝るだけしかしていない。休日も仕事に駆り出されることが多く、趣味に費やす時間も限られてしまっている。自宅と職場と、たまに実家、あるいは必要最低限の買い物をするスーパー。僕の行動範囲はこの程度。せいぜい半径7キロ以内。この中で出会う女性と言えば、母親と、同年齢程度のスーパーのパートさんくらいだ。

とりあえずのところ、寝るところがあり、着る服もあり、食べる物にも困っていない。自分の城があり、何より生活に困らないだけの収入はある。これだけでもありがたいことだと自分に言い聞かせることだけが、次の日の朝を迎えるためのモチベーションであり、夜眠りに就く前のおまじないになっている。

「明けない夜はない」「陽はまた昇る」とはよく言ったもので、嫌でも次の日はやって来てくれる。ただ僕にとっては、日めくりカレンダーの日付が変わるだけのことで、一日の中身は毎日そう変わりはない。西暦や和暦のない日めくりカレンダーを何枚も何枚も破り続ける機械のようなものがあるとしたら、それは僕のことかもしれない。

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